第三十一回:扇を裂きて千金の笑いを買い、 麒麟によりて白首の縁を伏す
さきほど、あの混乱の中で襲人は血を吐いた。
ふと床に視線を落とせば、鮮やかな紅が滲んでいる。襲人はたちまち肝を冷やし、うすら寒さを覚えた。かねてより、「若いうちの吐血は命取り、たとえ永らえたとしても生涯古傷は癒えぬ廃人となる」などという世間の風説を耳にしていたからだ。
不吉な言葉が脳裏をかすめるや、これまで密かに胸に温めていた「いつの日かしかるべき地位を得て、栄耀を極めたい」という野心も、燃えさかる炎が一瞬にして灰になったかのように冷たく萎えてしまった。そうなると、どうしようもない悲哀ばかりが胸に迫り、知らず知らずのうちに涙が頬を伝い落ちるのだった。
主人の宝玉は、彼女がめそめそと泣くのを見て、胸を締めつけられる思いで尋ねた。
「どうした、具合でも悪いのかい」
襲人は無理に口元を綻ばせ、気丈に振る舞った。
「なんともありませんわ。心配なさらないで」
そうは言っても、宝玉は居ても立ってもいられない。すぐに小間使いを呼び、血の巡りを良くする温めた紹興酒と、「山羊血黎洞丸」という特効薬を取り寄せようとした。
襲人は慌ててその手を押しとどめ、諭すように微笑んだ。
「そんなに大騒ぎをしてはいけませんよ。ほんの些細なことで人を呼びつけたりなされば、『なんて身の程知らずで軽率な侍女だ』と、私が後ろ指を指されてしまいます。誰も知らないことを、わざわざ銅鑼を叩いて言いふらすようなものですもの。そうなれば貴方様のお立場も悪くなりますし、私も顔向けができません。明日になれば、こっそりとお使いの者に頼んで、王侍医に相談させて薬をもらいますから。ね、誰にも知られずに治すのが一番でしょう?」
宝玉もその道理には納得せざるを得ず、机の上のお茶を注いでうがいをさせた。
襲人は、宝玉が心を痛めているのを痛いほど感じていた。ここで看病を断れば彼は承知しないだろうし、かといって他の侍女を呼べば騒ぎになる。今宵は彼に甘えるしかないと観念し、部屋の長椅子に横になって、一晩中宝玉の介抱を受けることにした。
やがて夜が明け、五更の時分になると、宝玉は洗顔もそこそこに衣を改め、裏口からこっそりと王済仁という医師を呼び寄せた。怪我の理由は「不注意で物をぶつけた」とだけ偽り、処方される薬の名と服用法、湿布の貼り方などを事細かに聞き出した。宝玉はそれを一語一句違えずに記憶し、庭園に戻ると、医師の言葉通りに心を込めて手当てを施したのである。
折しもこの日は、端午の節句であった。
家々の門には、邪気を払う剣の形をした菖蒲と蓬が青々と飾られ、人々の腕には虎を象った鮮やかな魔除けの護符が結ばれている。
昼時、王夫人は一族の繁栄を祝う酒席を設け、薛家の母娘らを招いて節句の宴を催した。
華やぐべき宴席であったが、どうしたことか空気は重い。宝玉は、従姉妹の宝釵がよそよそしく、口もきいてくれない様子を見て、昨日の自身の無礼が原因だと悟り、うなだれた。
母の王夫人は、息子が沈んでいるのを見て、「昨日、侍女の金釧にあのような恥をかかせたことを気に病んでいるのだろう」と解釈し、機嫌を損ねてあえて息子を無視した。
林黛玉は黛玉で、宝玉がぼんやりしているのを、「ああ、宝釵さんを怒らせてしまったから、あんなに落ち込んでいるのね」と思い込み、心穏やかでなく、ふさぎ込んでしまう。
やり手である鳳姐は、昨晩のうちに王夫人から事の顛末を聞かされていた。女主人の虫の居所が悪いと知っていて、いつものように冗談を飛ばして場を盛り上げるわけにもいかない。ただ王夫人の顔色をうかがい、息を潜めていた。
迎春ら他の姉妹たちも、主要な面々が押し黙っているのを見て白けてしまい、言葉少なになる。
こうして、本来ならば菖蒲の香りに包まれて祝うべき宴も、興醒めのまま早々に散会となってしまった。
林黛玉という少女は、もともと「華やかに集うこと」よりも「静かに散ずること」を好む天性を持っていた。彼女には彼女なりの、少し寂しい哲学がある。
「人は集まれば、必ず散る時が来る。集う時は楽しいけれど、その分、散り際の寂しさは募るばかりだわ。寂しさを味わうくらいなら、初めから集まらなければいい。花だってそう。咲けば人は愛でるけれど、散ればかえって恨めしくなる。それならいっそ、咲かない方が穏やかでいられるのに」
だからこそ、人が喜び浮き立つような場面でも、彼女はひとり、ふとした悲哀を感じてしまうのだ。
対して宝玉という青年は、常に賑やかに集うことを願い、散じて孤独になることを極度に恐れる。花は永遠に咲き誇ってほしいと願い、散って無惨な姿を晒すことを恐れる。宴が終わり、花が散れば、万感の悲しみに暮れるが、移ろう時をどうすることもできない。
今日の宴が気まずいまま終わったことについて、散るを好む黛玉はさほど気にならなかったが、集うを好む宝玉は鬱々と楽しまず、自室に戻ると長いため息をついて塞ぎ込んでしまった。
間の悪いことは重なるもので、着替えさせようとやって来た侍女の晴雯が、うっかり手を滑らせて扇を床に落としてしまった。乾いた音がして、扇の骨がぽきりと折れる。
宝玉はつい溜まっていた鬱憤を吐き出すように嘆いた。
「この能無しめ、能無しめ! これでお前、将来どうするつもりだ? いつかここを出て自分の家を持ち、所帯を持っても、そんな風に先も後も考えずに粗相をして暮らすのか?」
これを聞いた晴雯は、負けじと冷ややかに言い返した。
「二若様は近頃、ずいぶんと短気でいらっしゃいますこと。すぐに顔に出して当たられるのですから。一昨日は襲人を蹴り飛ばしたかと思えば、今日は私のアラ探しですか。ええ、どうぞ蹴るなり打つなりお好きになさいませ。扇を落としたくらい、よくあることじゃありませんか。以前、高価なガラスの金魚鉢や瑪瑙の碗を割った時は、あれほど平気な顔をなさっていたのに、たかが扇一本でその言い草。嫌なら私たちを追い出して、もっと出来の良い侍女をお使いになればよろしいでしょう?」
この言葉に、宝玉は怒りでわなわなと震えだした。
「ああそうか、威勢がいいな。追い出される日もそう遠くはないぞ!」
隣室でこれを聞いていた襲人が、慌てて駆け寄ってきた。
「どうしたのです、また喧嘩ですか? 私が少し目を離すと、すぐにこれですから」
晴雯は鼻で笑った。
「おやおや、お姉様がお上手なのはわかりましたから、もっと早く来て若様をお慰めすればよかったですのに。昔から若様にお仕えしているのは貴女一人で、私たちなんかはお仕えしていないも同然ですからね。貴女のご奉仕が立派だからこそ、昨日あんな立派な『みぞおちへの蹴り』を頂戴したんでしょうよ。私たちがそんな真似をしたら、どんな罰を受けるかわかったもんじゃないわ」
その毒を含んだ皮肉に、襲人は怒りと恥ずかしさで顔を赤らめたが、宝玉の顔色が怒りで黄色く変じているのを見て、ぐっと堪えて晴雯をなだめた。
「いい子だから、少し外へ行って頭を冷やしていらっしゃい。私たちが悪かったわ」
だが晴雯は、襲人が口走った「私たち(宝玉と襲人)」という言葉に敏感に反応し、嫉妬の炎を燃え上がらせた。
「あら、『私たち』ですって? 貴女たちが誰と誰なのか存じませんが、恥ずかしいから一緒くたにしないでくださる? コソコソとやっていることくらい、お見通しですよ。いつからご夫婦気取りの『私たち』になったんですか。まだ側室に上がったわけでもない、私と同じただの侍女の分際で!」
襲人は図星を突かれ、羞恥心で顔が紫色に膨れ上がった。「私たち」と言ってしまったのは、確かに軽率な失言だった。
たまらず宝玉が叫んだ。
「お前がそうやって突っかかるなら、明日、はっきりと襲人を引き立ててやるから見ていろ!」
襲人は慌てて宝玉の手を掴んだ。
「あの子は分別がないだけです、何をまともに言い合っているのですか。貴方様はいつも寛大でしょう、これより酷いことだって許してきたではありませんか」
晴雯は冷笑した。
「ええ、私は分別のない人間ですよ。貴女とお話しする資格なんてありませんわね!」
襲人は諭すように言った。
「貴女は私と喧嘩したいの? それとも若様と喧嘩したいの? 私に腹が立つのなら私に言いなさい。若様の前で騒ぐことはないでしょう。若様に腹が立つのなら、皆に聞こえるような騒ぎ方はおよしなさい。私はただ場を収めようとしただけなのに、貴女は私に八つ当たりをして、嫌味ばかり。一体どうしたいの? もう何も言わないから、好きなだけお言いなさい」
そう言って襲人は涙ぐみ、部屋を出ようとした。
宝玉は晴雯に告げた。
「そんなに腹を立てることはない。お前の腹積もりはわかった。奥様(母・王夫人)に言上して、お前を実家へ帰してやる。もういい歳なんだから、それがいいだろう?」
それを聞いた晴雯は、急に悲しみが込み上げ、瞳に涙をあふれさせて訴えた。
「どうして私が出て行かなきゃならないんです? 嫌われたって、あの手この手で追い出そうとしたって、私はここから梃子でも動きませんよ!」
「こんな騒ぎは初めてだ。絶対に出て行きたいからそうやって暴れるのだろう。母上に言いつけて暇を出してやる」
宝玉は立ち上がって出て行こうとした。襲人が必死に止める。
「どこへ行くのです?」
「母上のところだ」
「馬鹿なことはおよしなさい! 本当に言いに行くなんて、恥ずかしくないのですか? もしあの子が本気で辞めたいとしても、怒りが静まってから、何かのついでに話せばいいことでしょう。今こんなに血相を変えて行けば、奥様だって『何かあったのか』と怪しみますよ」
「怪しむものか。あいつが騒いで辞めたがっていると正直に言うだけだ」
晴雯は泣き叫んだ。
「私がいつ辞めたいなんて言いました? 人を怒らせておいて、言葉でねじ伏せて! 言いつけるならお行きなさい。私は壁に頭をぶつけて死んでやる、死んでもここを出てやるもんですか!」
宝玉は吐き捨てた。
「奇妙な奴だ。出て行かないくせに、なんで騒ぐんだ。僕はもうこんな喧嘩には耐えられない、いっそ死んでくれたほうがせいせいする」
なおも出て行こうとする宝玉を止められず、襲人はついにその場に跪いた。
外で様子をうかがっていた碧痕、秋紋、麝月といった他の侍女たちも、襲人が跪いて懇願する声を聞き、一斉に入ってきて、示し合わせたように全員で跪いた。
さすがに宝玉もこれには驚き、慌てて襲人を抱き起こし、長嘆息して寝台に座り込んだ。
「皆、立ってくれ……。どうしたらいいんだ。僕がこんなに心を砕いているのに、誰もわかってくれない」
そう言って、こみ上げる悔しさに思わず涙を流した。それを見て、襲人もまた涙をこぼした。
晴雯も傍らでしくしくと泣いていたが、何か言おうとしたその時、翠の帳を揺らして林黛玉が入ってきた。晴雯は気まずそうに口をつぐんで出て行った。
黛玉は辺りの様子を見てとり、からかうように笑った。
「お祭りの日だというのに、どうして皆様で泣いていらっしゃるの? まさか『ちまき』の取り合いでもして、悔し泣きかしら?」
その頓狂な例えに、深刻な顔をしていた宝玉と襲人は思わず吹き出した。
黛玉はすかさず畳みかけた。
「お兄様が教えてくれないなら、お姉さんに聞くわ」
彼女は襲人の肩をポンと叩いて笑った。
「ねえ『お義姉さん』、教えて頂戴な。きっと二人が痴話喧嘩でもしたんでしょう。妹の私が仲裁してあげるわ」
襲人は慌てて彼女を押し返した。
「林のお嬢様、何を仰るんですか。私はただの侍女ですのに、冗談が過ぎます」
「貴女は自分のことを侍女だと言うけれど、私は貴女を兄の妻(嫂)として見ているのよ」
たまらず宝玉が口を挟んだ。
「よせよ、この子の評判が悪くなる。ただでさえ噂を立てられやすいのに、君までそんなことを言って」
襲人は苦笑した。
「林様、私の心の内をご存じないからそんなことが言えるのです。いっそ息が止まって死んでしまえば楽なのですが」
黛玉は鈴を転がすように笑って言った。
「あら、貴女が死んだら、他の人はどうだか知らないけれど、まずお兄様が泣き死ぬわね」
宝玉もつられて笑った。
「君が死んだら、僕は坊主になるよ」
襲人はたしなめた。
「真面目になさいな。どうしてまたそんな縁起でもないことを」
黛玉は指を二本立て、口元を綻ばせて言った。
「これでお坊さんになるのは二回目ね。これから貴方が何度『坊主になる』って宣言するか、数えておくことにするわ」
宝玉は先日の喧嘩の際、自棄になって言い放った言葉を指しているのだと気づき、苦笑いするしかなかった。
やがて黛玉が去ると、「薛(セツ/宝釵の兄・蟠)の若様がお呼びです」との知らせが入り、宝玉は渋々ながら出かけていった。酒宴に招かれた手前断ることもできず、散会するまで付き合ったのである。
とっぷりと日が暮れた頃、幾分酒の回った足取りで自室の怡紅院へ戻ると、中庭に夕涼み用の長椅子が出してあり、誰かが臥せっているのが見えた。
宝玉はてっきり襲人だと思い込み、椅子の縁に座ってその体を優しく揺すった。
「どうだい、痛みは少し引いたかい?」
すると、その人物はパッと身を翻して起き上がり、「何を今さら、また虐める気?」と睨みつけた。見れば襲人ではなく、昼間言い争った晴雯であった。
宝玉は苦笑しながら彼女の手を引き、自分の傍らに座らせて語りかけた。
「お前の性格はますます甘ったれになってきたな。朝は扇を落としただけのことだ。僕が虫の居所で二、三言小言を言ったからって、あんなに突っかかってくることはないだろう。百歩譲って僕に言い返すのはまだしも、襲人が好意で止めに入ったのに、あんな嫌味を言うなんて。自分で考えてごらん、あれは良くなかったろう?」
晴雯はプイと顔を背けた。
「ああ暑苦しい、ベタベタ触らないでよ。誰かが見たら何て思うか。私ごとき卑しい身分は、ここに座る資格なんてありませんよ」
宝玉は笑った。
「資格がないとわかっているのに、どうしてここで寝ていたんだい?」
晴雯は返す言葉もなく、たまらずプッと吹き出した。
「貴方がいない時はいいのよ。貴方が来たら資格がなくなるの。ほら、立ってよ。お風呂に入ってくるから。襲人も麝月ももう済ませたっていうから、呼んでくるわ」
「僕も酒を飲んだから、一風呂浴びたいな。お前がまだなら、お湯を持ってきて二人で洗おうか」
晴雯は手を振って笑い飛ばした。
「いいえ結構、お断りします。いつぞや碧痕が貴方のお世話をしてお風呂に入った時、二、三刻(四〜六時間)も出てこなかったじゃないの。中で何をしていたのやら。私たちが終わってから見に行くと、床は水浸し、寝台の足まで水に浸かって、敷いていた筵までびしょ濡れ。どう洗ったらああなるのか、何日も笑い草でしたよ。私にはあんな大洪水の後片付けをする根性もありませんから、ご免被ります。今日は涼しいし、貴方も顔を洗って髪を梳かすだけでいいでしょう。さっき鴛鴦さんが果物をたくさん届けてくれて、水晶の鉢で冷やしてありますから、誰かに言ってお食べなさいな」
宝玉は笑った。
「それなら、お前も風呂は中止だ。手を洗って果物を持ってきてくれ、一緒に食べよう」
晴雯は言った。
「私は慌て者で、扇の骨まで折ってしまう女ですよ? 果物をお出しする資格なんてありません。またお皿でも割ったら、それこそ大変ですもの」
宝玉は笑って諭した。
「割りたいなら割ればいいさ。そもそも物なんていうのは、人が使うためにあるんだ。使い方は人それぞれで、扇は本来風を送るものだが、お前が引き裂いて遊びたいならそれでもいい。ただ、腹立ちまぎれに物に当たるのは良くないな。皿だって物を盛る道具だが、お前がその澄んだ割れる音を聞きたいというなら、わざと割ったって構わない。だが、怒って八つ当たりするのは違う。要は、心から『物を愛する』ということだ」
晴雯はこれを聞いて、悪戯っぽくニヤリと笑った。
「そういうことなら、その扇を貸してくださる? 私、扇を裂くのが大好きなの」
宝玉は笑って、手にしていた扇を渡した。
晴雯はそれを受け取るや否や、力を込めた。ビリッという裂帛の音が響き、扇は真っ二つになった。続けてビリ、ビリリッと、絹と竹が悲鳴をあげる小気味よい音が夜気に響く。
宝玉は傍らで手を叩いて笑った。
「いい音だ! 実にあっけない。もっと盛大に裂いてやれ!」
そこへ麝月が通りかかり、惨状を見て「まあ、なんて罰当たりなことを」と呆れた。
宝玉はすかさず麝月の手から扇を奪い取り、晴雯に渡した。晴雯はそれも受け取り、問答無用にビリビリと引き裂いてしまう。二人は顔を見合わせて大笑いした。
麝月は叫んだ。
「何なのよ、私の物で遊ばないでちょうだい!」
宝玉は笑った。
「扇の箱を開けて、好きなのを持っていけばいい。たかが扇じゃないか」
「それなら、いっそ箱ごと持ち出して、彼女に全部裂かせてあげればいいでしょう?」
「よし、お前が運んできてくれ」
「私はそんな罰当たりなことお断りよ。彼女、手は折れてないんだから自分で運べばいいわ」
晴雯は笑いながら寝台にもたれかかった。
「ああ、楽しかった。疲れちゃったから、続きはまた明日ね」
宝玉は満足げに言った。
「古人も『千金難買一笑(千金も一笑を買うに難し)』と言う。扇子の数本で君が笑ってくれるなら安いものさ!」
そうこうするうちに、襲人が着替えを済ませて出てきた。小間使いの佳蕙が残骸となった扇を片付け、皆で笑い合いながら夕涼みを楽しんだことは言うまでもない。
翌日の昼頃、王夫人、薛宝釵、林黛玉ら姉妹が賈母(かぼ/祖母)の部屋に集まっていると、「史の大お嬢様がいらっしゃいました」と知らせが入った。
やがて、史湘雲が大勢の侍女や召使いを引き連れて中庭に入ってきた。宝釵や黛玉らは急いで出迎え、再会を喜んだ。若い娘同士、一月会わなかっただけでも積もる話は山ほどあるものだ。
部屋に入り、賈母に挨拶を済ませると、賈母が労わった。
「暑いだろう、上着を脱いでおしまい」
湘雲が立ち上がって服を脱ぎ始めると、王夫人が笑った。
「こんな暑い盛りに、どうしてそんなに着込んで来たの?」
「全部、家の二番目の叔母様に着せられたんです。私だって着たくありませんわ」
宝釵が横から口を挟んだ。
「おば様、ご存じないのですか? この子は自分の服より他人の服を着るのが好きなんですよ。去年の三、四月頃、ここに泊まっていた時のことを覚えていらっしゃいます? 宝玉さんの着物を着て、男物の靴を履いて、額当ても締めて。パッと見たら宝玉さんそっくりで、ただ耳飾りがついているのだけが違うという格好でした。椅子の後ろに隠れていたら、お祖母様が騙されて『宝玉や、そこにある灯りの房で目を突くから気をつけておくれ』と何度呼んでも、この子は笑って出てこない。あとで皆が吹き出したので、お祖母様もようやく気づいて『男装も似合うねえ』なんて仰って」
黛玉も笑って言葉を継いだ。
「それだけじゃないわ。一昨年の正月、ここに来て二日ほど経って雪が降った日のこと。お祖母様と叔母様が外出先から戻られた時、お祖母様が脱いだばかりの真新しい緋色の羅紗のマントが置いてあったでしょう? 目を離した隙にこの子がそれを羽織って、大きすぎるから汗拭き手ぬぐいで腰を縛って、侍女たちと裏庭で雪だるまを作りに行って。勢い余って溝につまずき、泥んこの水溜まりにドボン。全身泥まみれになったのよ」
皆はその時のことを思い出して大笑いした。
宝釵は湘雲の乳母である周に笑いかけた。
「周さん、お宅のお嬢様は相変わらずの腕白なんですか?」
周乳母も目を細めて笑った。
迎春が言った。
「腕白なのはまだいいけれど、私はあの子のおしゃべりがたまらないわ。寝ても覚めてもピーチクパーチク、笑ったかと思えば喋りだして、どこからあんなに言葉が湧いてくるのかしら」
王夫人は言った。
「今はもう落ち着いたでしょう。先日、良縁があって相見る儀式も済んだそうだし、もう嫁入り前の身なのだから」
賈母が尋ねた。
「今日は泊まっていくのかい? それとも帰るのかい?」
周乳母が笑って答えた。
「お着替えを持ってきたのを大奥様はご覧にならなかったのですか? 二、三日はお世話になりますよ」
一息ついた湘雲は、辺りを見回して聞いた。
「宝玉お兄様は不在なの?」
宝釵が笑った。
「ほらね、他人のことなんか考えちゃいない。宝玉さんのことばかり。二人とも本当に無邪気なんだから。まだ腕白は直っていないようね」
賈母が言った。
「もうお前たちも大きくなったんだから、昔のような幼名で呼び合うのはおよし」
そこへ当の宝玉が入ってきて、快活に笑った。
「雲ちゃん、よく来たね! 一昨日迎えをやったのに、どうして来なかったの?」
王夫人が呆れた。
「ほら、お祖母様が注意したばかりなのに、もう名前を呼び捨てにしている」
黛玉が口を挟んだ。
「お兄様が良い物を手に入れて、貴女を待っていたのよ」
湘雲が目を輝かせて尋ねた。「良い物って?」
宝玉は笑ってごまかした。「彼女の言うことなんか信じるなよ。数日見ないうちに、随分背が伸びたね」
湘雲は笑って、「襲人姉さんは元気?」と聞いた。
「ありがとう、元気だよ」
「お姉さんに良い物を持ってきたの」
そう言って湘雲は手巾の包みを取り出した。
宝玉は言った。「何だい? この前僕が贈った絳紋石の指輪を二つほどあげた方が喜ぶよ」
湘雲は包みを開けて見せた。「あら、これは何かしら?」
見れば、まさにその絳紋石の指輪が四つ包まれていた。
黛玉は笑った。
「見てよ、この子の考えそうなこと。先日わざわざ人をやって私たちに届けてくれたのに、どうしてその使いの者に託さなかったの? 今日わざわざ持ってきたから、何か珍しいお土産かと思ったら、里帰りした指輪じゃないの。本当に貴女ってそそっかしいわね」
湘雲は負けずに笑って言い返した。
「貴女こそそそっかしいわ! 私の理屈を聞いて、どっちが正しいか皆に判断してもらいましょう。お嬢様方に贈る品なら、包みを見れば誰宛てかすぐにわかるから使いの者に任せてもいいわ。でも、侍女たちの分はそうはいかない。使いの者に『これは誰々、それは誰々』と言い含めても、しっかりした使いならいいけれど、ぼんやりした者なら名前も覚えられずに間違えて渡してしまうでしょう? 普段から出入りしている女使いならまだしも、あいにくその日は男の召使いを行かせたのよ。彼らが屋敷の奥の侍女の名前なんて知るはずないじゃない。だから私が直接持ってきて手渡した方が間違いがないでしょう?」
そう言って指輪を四つ並べた。
「襲人お姉さんに一つ、鴛鴦お姉さんに一つ、金釧お姉さんに一つ、平児お姉さんに一つ。これで四人分。男の使いにこれが区別できたと思う?」
皆は理路整然とした説明に納得して笑った。「なるほど、確かにその通りだ」
宝玉は感心して言った。「相変わらず口が達者だね、負けてないよ」
すると、黛玉はそれを聞いて冷ややかに言い放った。
「あら、この子は口下手よ。おしゃべりなのは、この子の持っている『金の麒麟』の方だわ」
そう捨て台詞を残して、黛玉は席を立って行ってしまった。
幸い、他の人々には聞こえていなかったが、薛宝釵だけは聡く聞きとがめ、口元でクスリと笑った。宝玉は黛玉の言葉を聞いて、「しまった、また『金と玉の縁』の話をして不機嫌にさせたか」と後悔したが、宝釵の含み笑いを見て、つられて自分も吹き出してしまった。宝釵は宝玉が笑ったのを見て、急いで席を立ち、黛玉を追いかけてフォローに向かった。
賈母は湘雲に言った。「お茶を飲んで一休みしたら、若奥様たちに挨拶しておいで。庭も涼しいから、お姉さんたちと散歩でもしてらっしゃい」
湘雲は承知し、三つの指輪(金釧は亡くなっているので渡せないが、湘雲はまだその死を知らない)を包んで、一休みしてから鳳姐らを訪ねた。そこでひとしきり談笑した後、大観園へ入り、未亡人の李宮裁に挨拶し、少し座ってから、襲人を訪ねようと怡紅院へ向かった。
彼女は後ろを振り返り、ぞろぞろとついて来ていた侍女たちに言った。
「みんな、ついて来なくていいわよ。それぞれ友達や親戚に会いに行っておいで。翠縷一人いればいいから」
皆は喜んで、それぞれの縁者を訪ねて散っていった。残ったのは湘雲と侍女の翠縷の二人きりである。
道すがら、翠縷が尋ねた。
「こちらの蓮の花はどうしてまだ咲かないんでしょう?」
湘雲は答えた。「時期がまだなのよ」
「うちの池のと同じ、『楼子花(八重咲き)』ですか?」
「ここのはうちのほど立派じゃないわ」
「あちらには石榴の木があって、四、五段も重なって花が咲いていましたよ。本当に『楼閣の上に楼閣を重ねる』みたいで、よくあんなに育つものです」
湘雲は言った。「草花も人と同じよ。気脈が充実していれば、立派に育つの」
翠縷は首をひねった。
「私は信じませんよ。もし人と同じだというなら、どうして頭の上にまた頭が生えてくる人がいないんです?」
湘雲は吹き出した。
「お前は黙っていればいいのに、口を開けば屁理屈ばかり。どう答えたらいいのやら。いいこと、天地の万物はすべて『陰』と『陽』の二つの気が生み出しているの。正しい形もあれば、歪な形もあり、奇妙なものも怪異なものも、千変万化すべては陰陽の順逆によるものなの。稀に変わった形の人が生まれるのも、理屈は同じよ」
「ということは、昔から今に至るまで、天地開闢以来、全部『陰陽』なんですか?」
湘雲は笑った。
「このお馬鹿さん、また適当なことを言って。『全部が陰陽』なんて、どこかに『陰陽』という物体が転がっているわけじゃないの。『陰』と『陽』という二文字は一つの理で、陽が尽きれば陰となり、陰が尽きれば陽となるの。陰が終わってから陽が生まれ、陽が終わってから陰が生まれるわけじゃないわ」
翠縷は頭を抱えた。
「ああ、訳がわかりません! その『陰陽』って影も形もないものなんですね。お嬢様、教えてください、陰陽ってどんな形をしているんですか?」
「だから、陰陽に形なんてないわよ。気なの。それが器物に宿って形になるの。たとえば、天は陽で地は陰。水は陰で火は陽。太陽は陽で月は陰よ」
翠縷は手を打って笑った。
「わかりました、わかりました! 今日やっと合点がいきました。だから人はお日様を『太陽』と呼び、占い師はお月様を『太陰星』と呼ぶんですね。そういう理屈だったんですか」
湘雲は笑った。「南無阿弥陀仏! やっと悟りが開けたわね」
「そういう大きなものに陰陽があるのはわかりますけど、まさか蚊や蚤、小さな虫や、花や草、瓦や煉瓦にまで陰陽があるわけじゃないでしょう?」
「どうしてないと言えるの? たとえば一枚の木の葉だって陰陽に分かれるわ。太陽に向いている表側が陽、陰になって下を向いている裏側が陰よ」
翠縷は頷いて笑った。「なるほど、よくわかりました。じゃあ、私たちが持っているこの扇、どっちが陽でどっちが陰です?」
「こっちの表面が陽、あっちの裏面が陰」
翠縷はまた頷いて笑い、もっと質問しようと辺りを見回した。ふと視線を落とすと、湘雲の帯に下がっているきらびやかな「金の麒麟」が目に入った。
彼女はそれを持ち上げて聞いた。
「お嬢様、まさかこれにも陰陽があるんですか?」
湘雲は答えた。
「獣も鳥も、雄は陽、雌は陰。牡は陽で牝は陰よ。ないはずないでしょう」
「じゃあこれは雄ですか、それとも雌ですか?」
「さあ、それまでは私にもわからないわ」
翠縷は言った。
「それはいいとして、どうして物には何でも陰陽があるのに、私たち人間には陰陽がないんです?」
湘雲は顔をしかめて叱った。
「下品なことを言うんじゃないの! さあ歩くわよ。聞けば聞くほど変なことを言い出すんだから」
翠縷は笑った。
「教えてくださったっていいじゃないですか。私だってわかってるんです、意地悪しないでくださいよ」
「何を知ってるって言うの?」
「お嬢様が『陽』で、私が『陰』です」
これには湘雲も手巾で口を押さえて大笑いした。
翠縷は言った。「図星だから、そんなに笑うんでしょう?」
「そうね、その通りよ」
「主人が陽で、奴隷が陰。私だってそのくらいの道理はわかりますよ」
湘雲は笑いながら、「お前は物知りね」と言って歩を進めた。
薔薇の棚の下に差しかかった時、ふと湘雲が声を上げた。
「見て、誰かの落とし物よ。あそこで金ピカに光っているわ」
翠縷は急いで駆け寄り、拾い上げて握りしめた。
「また陰陽がわかりましたよ!」
そう言って、まず湘雲の腰の麒麟を見た。湘雲は拾ったものを見せろと言うが、翠縷は手を離さず笑うばかり。
「これはお宝ですよ、お嬢様には見せられません。どこから湧いて出たんでしょう、不思議なこともあるものです。ここでこんな物を持っている人なんて見たことありませんよ」
「いいから見せなさい」
翠縷は手を開いて、「どうぞご覧あれ」と差し出した。
湘雲が見ると、それは細工も煌びやかな「金の麒麟」であった。しかも、自分がつけているものより一回り大きく、装飾もさらに凝っている。
湘雲はそれを掌に乗せ、じっと見つめたまま黙り込んでしまった。
彼女が物思いに耽っていると、向こうから宝玉がやって来た。
「二人して炎天下に何をしているんだい? どうして襲人のところへ行かないの?」
湘雲は慌ててその麒麟を懐に隠し、「今行こうとしていたのよ。一緒に行きましょう」と何食わぬ顔で答えた。
皆で怡紅院に入ると、襲人がちょうど階下で涼んでいた。湘雲の姿を見るなり駆け寄り、手を取り合って久しぶりの再会を喜び合った。
部屋に入って落ち着くと、宝玉が笑って言った。
「もっと早く来ればよかったのに。良い物を手に入れたから、君にあげようと待っていたんだ」
そう言いながら懐を探ったが、しばらくして「あっ」と声を上げた。
彼は慌てて襲人に聞いた。「あの物、しまったかい?」
襲人は「あの物って?」と聞き返す。
「この前手に入れた麒麟だよ」
「毎日身につけていらしたのに、どうして私に聞くのです?」
宝玉は手をポンと叩いて悔しがった。
「しまった、落としてしまったか! どこへ探しに行けばいいんだ」
彼はすぐに立ち上がって探しに行こうとした。
湘雲はそれを聞いて、先ほど拾ったのが彼の落とし物だと確信した。
彼女は笑って尋ねた。
「いつの間に麒麟なんて持っていたの?」
「この前やっとの思いで手に入れたんだ。いつ落としたのかもわからない、僕もどうかしていた」
湘雲は微笑んだ。
「幸い遊び道具だったからよかったものの、相変わらず慌て者ね」
そう言って、彼女は懐から手を開いて見せた。
「ほら、これでしょう?」
宝玉はそれを見るなり、喜びを爆発させた。
「それだ!……」
陰陽の理が万物を巡るように、二つの麒麟が引き合わせた数奇な縁。果たしてこの先、若い二人をどのような運命へと導くのか。それは次回のお楽しみ。
不機嫌な貴公子と、扇子を切り裂くロックなメイド。そして運命の陰陽論。
端午の節句、最悪の空気:
せっかくのお祭りなのに、みんな前日の喧嘩を引きずってギスギスしています。「祭りの日ほど孤独を感じる」という、黛玉のネガティブ・シンキングが冴え渡ります。
伝説の「扇裂き」事件:
侍女の晴雯がミスをして宝玉に怒られ、大喧嘩に。解雇されそうになった彼女が泣き叫び、修羅場になります。
しかし夜、宝玉は**「物が壊れる音で君が笑うなら、安いもんだ」**と、高価な扇子をわざと彼女に渡してビリビリに引き裂かせます。この「破壊による和解」は、本作屈指の名シーンです。
陽キャな史湘雲の「陰陽」講義:
そこへ、明るくボーイッシュな親戚の娘・湘雲が登場。侍女と庭を歩きながら「この世のすべては男と女、光と影(陰陽)でできている」という壮大な哲学トークを繰り広げます。
金の麒麟のリンク:
その散歩中、湘雲は草むらで「金の麒麟」を拾います。それは宝玉が落としたものでした。「陰と陽」が引き合うように、二つの麒麟が出会い、物語は不思議な余韻を残して終わります。
ここで「階級と無常」のメッセージが読みとれる
この回には、単なる恋愛劇の裏に、作者・曹雪芹の強烈な社会批判と哲学が込められています。
【階級社会の闇】貴族の退廃 vs 侍女の命
この回で最もショッキングなのは「扇子裂き」の金銭感覚です。
貴族(宝玉): 「扇子? ああ、あんな紙くず、千枚裂いたって君の笑顔には代えられないよ」という、究極の浪費美学。これは「愛」であると同時に、清朝貴族が滅びゆく原因となった「生産性のない退廃的な消費」を象徴しています。
民衆(侍女): 一方、冒頭で別の侍女(襲人)が「血を吐く」シーンがあります。彼女たちにとって、身体の不調や主人の不機嫌は「即クビ=死」を意味します。
「金で笑顔を買う主人」と「命がけで仕える労働者」の残酷な対比が、美しい筆致の裏に隠されているのです。
【哲学的メッセージ】陰陽(Yin-Yang)と別れの美学
湘雲と侍女の会話は、読者への説法です。
「集えば散ず(会うは別れの始め):
宴会の後に孤独を感じる黛玉と、陰陽を語る湘雲。作者はここで、「この世に永遠はない」という仏教的な無常観を、道教的な「陰陽の変化」として説明しています。
*扇子という「形あるもの」を壊す行為も、「形ある(陽)」が「無(陰)」に変わる変化の一種であり、それを楽しむ境地を描いています。
心理学的視点:「破壊衝動」という究極の求愛
なぜ宝玉は、キスをするでもなく「扇子を裂かせた」のか?
フロイト的な視点で見れば、当時の閉塞的な社会において、男女の直接的な性愛は禁忌でした。
高価な美術品である扇を「引き裂く(破壊する)」時の「ビリッ」という音と快感は、一種の性的絶頂の暗喩とも読み取れます。
「社会のルール(扇)を二人で共犯して壊す」ことで、宝玉と晴雯は、肉体関係以上の精神的な結びつき(ソールのリンク)を確認したのです。これは現代の「不良文化」や「背徳的な共犯関係」に通じるエモさです。
キャリア論的視点:襲人 vs 晴雯
この回は、二人の侍女の対比が鮮烈です。現代の会社組織に置き換えて例えると・・・
襲人: 「超・管理職タイプ」。主人の健康管理、スキャンダルの隠蔽、人間関係の調整を完璧にこなす。組織に馴染み、出世を目指す現実主義者。しかし、面白みはなく、ストレスで吐血する。
晴雯: 「天才クリエイター気質」。口が悪く、態度もデカいが、美意識が高く、主人の感性と共鳴する。組織には馴染めないが、主人にとっては「代えがたい存在」。
この回で襲人がつい「私たち(夫婦気取り)」と言ってしまい、晴雯に「いつから側室になったのよ!」と突っ込まれる場面は、「総務局長 vs カリスマデザイナー」の社内派閥争いとして読むと非常にスリリングです。
なぜ「麒麟」なのか?
最後に拾う「麒麟(Qilin)」。西洋のユニコーンに似た伝説の生き物です。
麒麟は「仁獣(殺生をしない優しい獣)」であり、「太平の世にしか現れない」とされます。
しかし、物語の舞台である賈家は斜陽です。そこに現れた麒麟は、「これが最後の輝きである」という逆説的な不吉さと、それでも巡り会った「奇跡のような一瞬の縁」を象徴しています。
我々に問いかけるのは
「どうせいつか全て壊れる(散る)としても、今この瞬間の『音』や『縁』を愛せるか?」
モノを大切にするという道徳を超えて、「終わりがあるからこそ、その一瞬を遊び尽くす」という刹那的でデカダンスな美学。これこそが、この章の最大の魅力です。




