第三十回:宝釵は扇を借りて二重の皮肉を放ち、齢官は薔薇の陰で恋の文字を綴る
先日のことでございます。林黛玉は賈宝玉と些細な行き違いから激しく口論し、そのまま背を向けて喧嘩別れをしてしまいました。しかし、激情の波が引けば、あとに残るのは寄せては返す後悔の念ばかり。そうかといって、乙女の誇り手前、自分から頭を下げるわけにもまいりません。黛玉は一日中、胸に冷たい風が吹き抜けるような心地で、鬱々と涙を流して過ごしておりました。
そんな主人のやりきれない心の内を察し、侍女の紫鵑は機を見て静かに諭しました。
「先日の一件を思えば、やはりお嬢様は少々気が短すぎましたよ。他の方が宝玉様のご気性をご存知ないのならともかく、幼い頃から共に育った私たちが知らないはずはないでしょう? あの方が首から下げている『通霊宝玉』のせいで騒ぎになるのは、今に始まったことではありませんし」
黛玉はすねたように言い返します。
「お前まであちらの肩を持って、私を責めるのね。私がいつ短気を起こしたと言うの?」
紫鵑はふふっと笑みをこぼしました。
「おや、それならば、どうしてまた、せっかくの扇子の飾り紐を鋏でずたずたにお切りになったのですか? あれでは宝玉様に三分の非があったとしても、残り七分の非はお嬢様にあることになってしまいます。あの方は普段から、朝な夕なとお嬢様のことばかり案じておいでです。それなのに、お嬢様がご自身の薄幸を嘆くあまり、些細な言葉尻を捉えて彼を責めるから、このような縺れになるのではありませんか」
図星を突かれた黛玉が何か言い返そうと口を開きかけた、まさにその時です。院の外から「開けてくれ」と門を叩く音が響きました。
紫鵑は耳を澄ませ、「あら、宝玉様のお声ですよ。きっと堪りかねて、謝りにいらしたんですわ」と顔を綻ばせました。
「開けてはなりません!」
黛玉は声を張り上げましたが、紫鵑はその強がりに呆れ顔です。
「またお嬢様は……。この炎天下、あの方を門の外に立たせて、もし日射病にでもなられたらどう申し開きなさるおつもりですか」
そう言い捨てるなり、紫鵑は小走りに外へ出て門の閂を外しました。果たして、そこには汗を拭いながら立つ宝玉の姿がありました。
紫鵑は彼を招き入れながら笑いかけます。
「私はてっきり、宝の二若様はもう二度とうちの敷居を跨がないおつもりかと思っておりましたよ。まさかこんなにすぐいらっしゃるとは」
宝玉は屈託なく笑って答えました。
「君たちは些細なことを大げさに言うんだな。どうして僕がここへ来ないことがあるものか。たとえこの身が死んだとしても、魂だけで一日に百回は通うさ。……ところで、妹の具合はどうだい?」
「お身体の具合は良くなられましたが、ご機嫌の虫の居所がまだお悪いようで」
「何のことで怒っているかは、わかってるさ」
宝玉は軽く頷くと、慣れた足取りで部屋へと入っていきました。見れば、黛玉はまた寝台の上で身を小さくし、忍び泣いているではありませんか。
本当のところ、彼女はもう泣いてなどいなかったのです。ただ、宝玉の声が耳に届いた途端、堰を切ったように想いと涙が溢れ出し、止めようもなくなったのでした。
宝玉はそっと微笑みながら寝台に歩み寄り、顔を覗き込みました。
「身体の具合は、もういいのかい?」
黛玉は顔を背け、ただ涙を拭うばかりで答えません。宝玉はためらわず寝台の縁に腰を下ろし、優しく語りかけました。
「君が僕を恨んでいないことはわかっているよ。ただ、僕がいつまでも顔を見せないと、また喧嘩でもしたのかと周りに勘ぐられてしまうだろう? そうなれば誰かが仲裁に来て、かえって二人の仲が他人行儀になってしまう。だから今、ここで僕を叩こうが罵ろうが、君の気の済むようにしてくれて構わない。ただ、無視だけはしないでくれ」
そう言って、彼はまるで赤子をあやすように、何度も何度も「いい子だから、ねえ」と呼びかけるのでした。
黛玉は頑なに口を閉ざしておりましたが、「他人に知られて仲が疎遠になるのは嫌だ」という宝玉の言葉を聞き、氷解するものを感じました。やはりこの世で誰よりも自分を親身に思ってくれているのは、この人なのだ――。
彼女はついに堪えきれず、嗚咽混じりに言いました。
「おだてないで頂戴。これからは二若様と親しくするつもりはないし、貴方も私が居なくなったと思ってくださればいいわ」
宝玉は可笑しそうに聞き返します。
「君が居なくなって、どこへ行くと言うんだい?」
「実家の蘇州へ帰ります」
「それなら、僕もついて行くよ」
「じゃあ、もし私が死んだら?」
「君が死んだら、僕は出家して坊主になるまでさ」
これを聞いた途端、黛玉は柳眉を逆立て、顔色を変えました。
「また死ぬだのなんだのと、縁起でもない! 貴方には大切なお姉様や妹様が大勢いらっしゃるのに、その方々が皆死んだら、貴方は体がいくつあっても足りないくらいお坊様にならなきゃいけないわね。明日、みんなに貴方のその軽はずみな誓いを教えてあげるわ」
宝玉は失言に気づき、顔を真っ赤にしてうつむきました。幸いにも部屋には誰もいません。
黛玉はしばらく彼を睨みつけていましたが、あまりの愛おしさと憎らしさに言葉も出ず、宝玉が顔を紫色にして縮こまっているのを見ると、思わず歯を食いしばり、指先で彼の額を力いっぱい小突きました。
「貴方って人は、本当に――」
言いかけた言葉を飲み込み、深いため息をつくと、彼女はまた手巾で目元を覆いました。
宝玉は、胸に無限の情熱を抱えながらも言葉を誤り、後悔していたところへ、不意に黛玉の指先で突かれました。その愛憎半ばするような仕草に胸を打たれ、彼もまた涙をこぼしました。涙を拭おうとして手巾を忘れてきたことに気づき、着ている紗の袖で顔をこすりました。
黛玉は泣きながらも、横目でそれを見ていました。彼が着ているのはおろしたての藕合色(薄い蓮色)の上等な夏着です。そんな袖で涙を拭っては台無しだと、彼女は自分の枕元にあった使い古しの絹の手巾をひっつかみ、宝玉の胸元へ放り投げました。そして何も言わず、再び顔を伏せました。
宝玉は飛んできた手巾を受け止め、急いで涙を拭うと、身を乗り出して黛玉の手を取りました。
「僕の五臓六腑は張り裂けそうだというのに、君はまだ泣くのかい。さあ、もう行こう。お祖母様(賈母)のところへ」
黛玉はその手を振り払いました。
「誰が貴方となれなれしく手など繋ぐものですか。日一日と身体ばかり大きくなっているくせに、いつまでも子供みたいに甘えて、礼儀も知らないんだから」
その言葉が終わらぬうちに、突然、「仲直りしたわね!」という快活な声が響き渡りました。
二人は驚いて振り返りました。西瓜のような丸い笑顔で飛び込んできたのは、この栄国府の万事を切り盛りする鳳姐です。
鳳姐はからからと笑いながら言いました。
「お祖母様がね、『天を怨み地を怨み』するみたいに、気が気じゃないご様子でお二人のことを心配して、私に見に行かせたのよ。私は『三日も経てば勝手に仲直りしますから放っておけばよろしい』って言ったのに、お祖母様は私が怠けてるって叱るんですもの。……ほらご覧なさい、私の言った通りじゃない。昨日まではいがみ合っていた『烏眼鶏(闘鶏)』みたいだった二人が、今は手を握り合って泣いてるなんて、まるで子供ね! さあ、観念してお祖母様を安心させに行くわよ」
鳳姐は強引に黛玉の手を引いて歩き出します。黛玉が支度をしようと侍女を呼ぼうとすると、鳳姐は「私が侍女代わりになるからいいのよ」と言い放ち、宝玉も苦笑いしながらその後について行きました。
賈母の部屋に着くと、鳳姐は勝利の凱歌をあげるように高らかに報告しました。
「ほら、お祖母様。私が言った通り、あの二人に仲裁なんて不要でしたわ。私が行った時にはもう、二人して謝り合い、笑い合い、泣き合って、まるで『鷹が雉の足を掴んだ』ように、爪と爪ががっちり食い込んで離れない有様でしたよ」
その巧みで少しばかり下世話な比喩に、部屋中の人々がどっと笑い声を上げました。
その場には従姉の薛宝釵も同席しておりました。黛玉は気恥ずかしさから無言で賈母のそばに座ります。
宝玉はばつの悪さを紛らわすように、宝釵に笑顔で話しかけました。
「薛のお兄さんの誕生日だったのに、僕は足の具合が悪くて行けず、お祝いの頭すら下げられませんでした。兄さんは僕が仮病を使っていると誤解して怒っているかもしれない。もしそうなら、姉さんから弁解しておいてくれませんか」
宝釵はあくまで穏やかに、上品に笑いました。
「そんなご心配は無用ですわ。貴方がいらしても、あちらが恐縮するだけです。それに、親しい兄弟従姉妹の間で、そんな余所余しい気遣いはかえって水くさいというものです」
「姉さんにそう言ってもらえると安心だ」
ほっとした宝玉は、調子に乗って言葉を継ぎました。
「ところで、今日はお芝居を見に行かなかったのですか?」
「ええ、暑いのが苦手なものですから。二幕ほど見てすぐに失礼してきました。客人はまだ残っていましたが、体調が悪いと言い訳をしてね」
それを聞いた宝玉は、つい口を滑らせて、心にもない軽口を叩いてしまいました。
「ああ、人々が姉さんを楊貴妃に例えるのも無理はないですね。美しくて豊満で、暑がりなところまでそっくりだ」
これこそ、ふくよかな体型を内心気にしている宝釵にとって、もっとも触れられたくない禁句でありました。彼女は心の中でむっとしましたが、あからさまに怒るような品のない真似はしません。頬を微かに赤らめ、冷ややかな微笑みを浮かべて言い返しました。
「私が楊貴妃に似ているですって? それは光栄なお話ね。ですが残念ながら、私には権勢を振るう楊国忠のような立派な兄も弟もおりませんので」
その皮肉は、権力を笠に着る親族を持たぬ気楽な身の上、という意味にも、暗に宝玉の一族を揶揄するようにも響きます。
空気が張り詰めたその時、何も知らない小間使いの靛児が扇を探しに入ってきて、宝釵にじゃれつきました。
「宝釵お嬢様、私の扇を隠したでしょう? 返してくださいな」
宝釵はここぞとばかりに、扇の代わりに言葉の鞭を振るいました。
「お待ちなさい! 私がいつ貴方のような子と戯れました? 人を疑うのもいい加減になさい。扇がなくなったのなら、普段から貴方とふざけ合っているお嬢様方に聞きなさいな!」
普段温厚な宝釵の、思いがけぬ剣幕に驚き、靛児は蜘蛛の子を散らすように逃げ出しました。
宝玉はまたしても取り返しのつかぬ失言をしたことを悟り、大勢の前で黛玉との喧嘩の時以上に身の縮む思いを味わいました。
一方、黛玉は、天敵とも言える宝釵を宝玉がやり込めた(と彼女は思ったのです)のを見て、内心大いに溜飲を下げておりました。その流れに乗って自分も一言からかおうとしましたが、宝釵が靛児を叱責する激しい言葉を聞き、慌てて話題を変えました。
「宝姉様、それで、そのご覧になった二幕の芝居というのは何でしたの?」
宝釵は、黛玉の顔に浮かぶ得意げな色を見て取り、先ほどの宝玉の無礼を心の中で拍手喝采しているのだと察しました。そこへ来て、この質問です。彼女は静かに笑って答えました。
「乱暴者の李逵が宋江を罵り、後に己の過ちを悟って謝るお話でしたわ」
すかさず宝玉が、ここぞとばかりに知ったかぶりをしました。
「姉さんほど博識な人が、そんな演目名もご存知ないとは。『負荊請罪(荊の鞭を背負って罪を請う)』と言うのですよ」
宝釵は、まるで憐れむようににっこりと笑いました。
「あら、これが『負荊請罪』と言うのですか! それは勉強になりました。貴方様のように古今の学に通じ、まさにご自身で『負荊請罪』を実践なさる方だからこそ、本当の意味をご存知なのでしょうね。私のような無学な者にはわかりませんでしたわ」
この強烈な皮肉――先ほどの二人の痴話喧嘩と仲直りこそが、まさに滑稽な謝罪劇であったという当てこすりに、宝玉と黛玉は顔から火が出るほど恥じ入りました。
鳳姐は文芸には疎い質ですが、三人の強張った様子を見て空気を察し、笑って周囲に尋ねました。
「ねえ、こんな真夏に、誰か辛い生姜でも食べたの?」
皆が意味を解せずにいると、鳳姐は大げさに頬に手を当ててみせます。
「誰も食べていないなら、どうしてこんなにピリピリと辛いのかしら?」
これにはさすがの宝玉と黛玉もたまりません。宝釵も、宝玉がいたたまれない様子なのを見て、それ以上追撃するのはやめて微笑みで収めました。他の人々は何が起きたのかさっぱりわからず、話は夏の風のように流れていきました。
やがて宝釵と鳳姐が立ち去ると、黛玉は宝玉に皮肉っぽく笑いかけました。
「私よりずっと手強いお相手がいるとわかったでしょう? 誰もが私のように口下手で、貴方に言われっぱなしだと思ったら大間違いよ」
宝玉は、宝釵を怒らせて落ち込んでいた傷口に塩を塗られ、いっそう不機嫌になりました。何か言い返そうとしましたが、また黛玉がへそを曲げるのを恐れ、言葉を飲み込んで、しょんぼりと部屋を出て行きました。
折しも真夏の盛り。昼食も過ぎた気だるい午後のことでございます。屋敷中の主も使用人も、暑さと満腹でまどろみ、深い静寂に包まれる時間帯でした。
宝玉は手を後ろに組み、蝉しぐれの中をひとり彷徨いました。賈母の居所を出て西の渡り廊下を過ぎると、鳳姐の院がありますが門は閉ざされています。鳳姐は夏場、昼寝をする習慣があるため邪魔をしてはいけないのです。
彼は角門を抜け、母である王夫人の正房へ向かいました。部屋を覗くと、数人の侍女たちが針仕事を持ったままこっくりこっくりと居眠りをしています。涼しい風が通る奥の間では、王夫人が涼み台で安らかに眠っており、お気に入りの侍女・金釧がその傍らで足をもみながら、うつらうつらと舟を漕いでいました。
宝玉は猫のように忍び寄り、金釧の耳飾りを指先で軽く引っ張りました。
金釧はとろんとした薄目を開け、宝玉だとわかると口元だけで笑い、「しっ、あっちへ行って」と手で合図をしてまた目を閉じました。
宝玉は、その無防備でなまめかしい様子に心を惹かれ、母が熟睡しているのをいいことに、懐から香りのよい気付け薬「香雪潤津丹」を取り出し、金釧のふっくらとした唇に押し当てました。金釧は目を開けずにそれを口に含みます。
宝玉は彼女の手を握り、耳元で熱っぽく囁きました。
「ねえ、明日、母上に頼んで君を僕の部屋にもらいたいんだ。ずっと一緒に暮らそう」
金釧は答えません。
「だめなら、母上が起きたらすぐに頼んでみるよ」
金釧はようやくぱっちりと目を開け、宝玉を軽く突き放して悪戯っぽく笑いました。
「何をそんなに急ぐのよ。『井戸に落ちた金のかんざし、縁があれば必ず自分のものになる』って言うじゃない。……それより良いことを教えてあげる。東の小院に行ってみなさい。きっと環様と彩雲が良いことをしている現場が見られるわよ」
宝玉はふん、と鼻で笑いました。
「あいつらがどうなろうと知るもんか。僕は、君のそばにいたいんだ」
その時でした。
寝ていたはずの王夫人が、突然身を翻して起き上がり、金釧の頬を「ピシャリ!」と平手で打ち据えたのです。
「このふしだらな売女め! 私の大事な若様を、よくもたぶらかしてくれたわね!」
その形相は鬼のようで、宝玉は母が起きるなり、一目散にその場から逃げ出しました。
残された金釧の頬は火のように熱く腫れ上がり、彼女はただ立ち尽くすばかり。騒ぎを聞きつけた侍女たちが慌てて集まってきました。
王夫人は金釧の妹である玉釧に厳しく命じました。
「お前の母親を呼んでおいで。このふらちな姉を連れて帰らせなさい」
金釧はそれを聞き、泣きながらその場に跪きました。
「二度としません! 奥様、打たれても罵られても構いません、どうかお屋敷から追い出すのだけはお許しください! 十年もお仕えしましたのに、ふしだらな行いゆえに追い出されては、外で顔向けができません!」
王夫人は本来、慈悲深く、これまで侍女に手を上げたことなど一度もありませんでした。しかし、最愛の息子を色香で惑わすという、彼女が最も憎むべき「恥ずべき行い」を目の当たりにし、長年の信頼は瞬時に嫌悪へと変わったのです。金釧の必死の哀願にも耳を貸さず、結局、金釧の老いた母が呼ばれ、泣き崩れる娘の手を引いて領ち去りました。金釧は耐え難い恥と屈辱にまみれ、追われるように屋敷を去ったのでした。
さて、逃げ出した宝玉は、そんな結末も知らず、広大な大観園(庭園)へと逃げ込んでいました。
真夏の日差しが容赦なく照りつけ、木陰が濃く落ちる園内は、人っ子ひとりおらず、ただ蝉の声だけが空間を埋め尽くすような静寂の中にありました。
色鮮やかに咲き誇る薔薇の棚の近くまで来ると、どこからか、微かなすすり泣きが聞こえてきます。
宝玉は不思議に思い、薔薇の茂みの隙間からそっと中を覗いてみました。そこには、一人の美しい少女がうずくまっています。簪を手に地面を掘りながら、ひっそりと涙を流している様子です。
「まさか、また黛玉のように花を葬っている(葬花)のか?」と宝玉は思いました。「もし誰かの真似をしているなら、『東施の顰み(美女の真似をする醜女)』だ。ちっとも新しくないし、かえって鼻につく」
声をかけて止めさせようかと思いましたが、よく見ればその少女は見慣れぬ顔立ちです。屋敷の侍女ではなく、梨香院に住む十二人の劇団の女優の一人のようですが、まだ演じた役を見たことがなく、名もわかりません。
宝玉は慌てて口をつぐみました。
「危ない、また軽率なことをするところだった。さっきは黛玉を怒らせ、宝釵姉さんを不快にさせたばかりだ」
そう戒めながらも、彼はその少女の美しさに目を奪われました。眉は春の山のように淡く憂いを帯び、瞳は秋の水のように澄んで、そのたおやかな姿は、どこか黛玉に通じる儚げな風情があります。
宝玉は見惚れてその場を去ることができず、じっと観察を続けました。
よく見れば、少女は土を掘っているのではなく、地面に字を書いているようです。簪の繊細な動きを目で追います。一、二、三……十八画。
宝玉は自分の手のひらに指でなぞってみました。それは草冠に爪、回。薔薇の「薔」の字です。
きっと眼前の薔薇を見て詩でも浮かび、忘れないように書き留めているのだろう、と彼は推測しました。
しかし、少女は何度も、何度も、まるで何かに憑かれたように「薔」の字を書き続けているのです。地面には既に、数千もの「薔」が刻まれているように見えます。
薔、薔、薔……。
そのひたむきで切実な姿に、覗き見ている宝玉の心までもが締め付けられました。「これほどまでに思い詰めた様子、きっと口に出せない深い恋の悩みがあるに違いない。薔とは、恋しい人の名の一部だろうか。こんな華奢な体で、その尽きせぬ心労に耐えられるものだろうか。ああ、できることなら代わって苦しんであげたい」と、彼は他人の痛みをも我がことのように感じて胸を痛めました。
その時です。
夏の天気は少女の心のように気まぐれで、急に涼しい風がざあと吹いたかと思うと、一天にわかにかき曇り、激しい雨が降り出しました。
少女の薄衣はたちまち雨に濡れ、肌に張り付いていきます。宝玉は「いけない、あんな体でこの雨に打たれては!」と思い、我を忘れて声をかけました。
「もう書くのはおよし! 大雨だよ、身体が冷えてしまう」
少女は驚いて顔を上げました。茂みの陰から見知らぬ優しげな顔が見えますが、誰だかわかりません。ただの侍女か使い走りかと思い、彼女は慌てて立ち上がり、苦笑して言いました。
「教えてくれてありがとう、お姉さん。そちらには雨宿りする場所があるの?」
その言葉でハッと我に返ったのは宝玉の方でした。「あっ」と声を上げ、自分がずぶ濡れであることに気づいたのです。
「しまった、僕も濡れ鼠じゃないか!」
彼は少女に気付かれぬよう、慌てて自分の住まい、怡紅院へと駆け戻りましたが、その胸中はまだ、あの名も知らぬ少女が無事に雨宿りできたかを案じておりました。
怡紅院の中では、折よく侍女たちが雨の戯れに興じていました。
明日は端午の節句であるため、劇団の少女たちも休みをもらって、皆で庭園に遊びに来ていたのです。たまたま「宝官」と「玉官」という二人の女優が、宝玉の筆頭侍女・襲人たちとふざけ合っていたところに、この夕立です。
彼女たちは童心に帰って庭の溝をふさぎ、中庭に水を溜めると、そこへ鴨や水鳥を放して追いかけ回し、きゃあきゃあと大騒ぎをしていました。当然、部外者が入ってこぬよう、院の門は堅く閉ざされています。
宝玉はずぶ濡れのまま門を叩きました。
「開けてくれ! 早く!」
しかし、中の笑い声と雨音にかき消されて聞こえません。
彼はしばらく扉を叩き続けましたが、冷たい雨に打たれるほどに焦りと苛立ちが募り、ようやく中の者が気づく頃には、怒髪天を衝くばかりになっていました。
中の襲人たちは、こんな時間に主人が戻るとは思わず、「誰だい? こんな時に。酔っ払いなら開けないよ」とクスクス笑っています。
「僕だよ! 開けろ!」と宝玉が叫びましたが、麝月が「あら、宝釵お嬢様の声みたい」とからかい、晴雯は「まさか」と笑います。
襲人は「ちょっと覗いてくるわ。知ってる人なら開けるし、知らない人なら雨に打たせておけばいいわ」と言って門へ走り、隙間から外を覗きました。
そこには、雨に打たれてしょぼくれ、今にも爆発しそうな宝玉が立っていたのです。
襲人は驚き、おかしくもあり、急いで閂を外しながら笑い転げました。
「まあ! こんな大雨の中をどこへ行ってらしたんです! まさか若様がお戻りだとは」
宝玉は腹の虫が収まらず、門を開けた不届き者を一発蹴飛ばしてやろうと身構えていました。
門が開き、人影が見えた瞬間、相手が誰かも確かめずに、宝玉は思い切りそのあばら骨のあたりを蹴り上げました。
「あ痛っ!」
うずくまる相手に、宝玉はなおも罵声を浴びせます。
「下品な奴らめ! 普段甘やかしてやってるから、図に乗って主人を締め出すとは何事だ!」
しかし、ふと足元を見下ろすと、そこに痛みに耐えてうずくまっているのは、最も信頼する襲人ではありませんか。
宝玉は一瞬で血の気が引きました。慌てて屈み込み、強張った笑顔を作ります。
「ああっ、襲人、お前だったのか! すまない、どこを蹴った?」
襲人はこれまで、大声で叱られたことすらありませんでした。今日、多くの友人たちの前で主人に蹴られたことは、身体の痛み以上に、言葉にならぬほどの恥ずかしさと情けなさを伴いました。しかし、宝玉が故意にやったわけではないことも、誰よりもよく知っています。彼女は唇を噛んで痛みをこらえ、気丈に振る舞いました。
「いいえ、蹴られてなんかいませんわ。そんなことより、早く乾いた服に着替えてください」
宝玉は濡れた服を引きずりながら部屋に入り、着替えを手伝われながら、ただただ詫びるばかりです。
「生まれて初めて本気で怒って人を蹴ったのに、よりによって一番大事なお前に当たるなんて! 僕はどうにかしていたんだ」
襲人は痛む脇腹を隠して着替えさせ、努めて明るく言いました。
「私が最初の相手でよかったですよ。これが他の、気の強い子たちだったら、それこそ大変な騒ぎになっていましたから」
「本当に、わざとじゃないんだ」
「わかってますとも。あの小さな侍女たちなら、少し痛い目にあわせて躾けるのも薬になりますが、たまたま私が悪ふざけをして門番をしたのが運の尽きですわ」
雨はやがて上がり、遊びに来ていた女優たちも三々五々帰っていきました。
夜になり静寂が戻ると、襲人は脇腹の痛みが激しくなり、夕飯もろくに喉を通らなくなりました。ひとりでそっと衣服を脱ぎ、灯りに透かして見れば、白磁のような肌の脇腹に、茶碗ほどの大きさのどす黒い青あざが広がっています。
彼女はぞっとしましたが、騒ぎ立てて宝玉を困らせまいと、薬を塗って誰にも言わずに床に就きました。
夜も更けた頃。夢現に寝返りを打つと、激痛が胸を貫き、思わず「あ痛っ」と悲鳴が漏れました。
宝玉は昼間の罪悪感でまんじりともできずにいたため、その声を聞き逃しませんでした。蝋燭の灯りを手に寝台に近づくと、襲人が苦しげに咳込み、何かを吐き出したのが見えました。
「どうした? やっぱり蹴ったところが痛むのか」
襲人はうつろな目を開け、宝玉の顔を見てハッとしました。
「……少しめまいがして、喉の奥から、甘くて生臭いものが込み上げてきたのです。床を照らしてみてください」
宝玉が灯りを床に向けると、そこには鮮やかな血痕が、一塊、吐き出されていました。
「大変だ、血だ!」
宝玉は血の気が引き、へなへなと座り込みそうになりました。そして襲人もまた、自分の吐いたその血の赤さに、心底肝を冷やし、言い知れぬ不安に襲われるのでした。
第三十回は、一見すると若者たちの痴話喧嘩や日常の光景に見えますが、実は物語全体の「陽」から「陰」へ、「楽園」から「崩壊」へと向かう重要な転換点を含んだ回です。
「暴走する青春と、壊れ始めた楽園」
この回は、主人公・宝玉の「情緒不安定」と「失言・不注意」が連鎖し、周囲を巻き込んでいくドタバタ劇ですが、笑えない悲劇の種が蒔かれます。
恋の駆け引きと修復:
先日大喧嘩した宝玉と黛玉。お互い好きすぎて意地を張っていたが、宝玉が謝り倒し、世話焼き姉御の鳳姐が強引に仲直りさせる。「好きだからこそイジメてしまう」という小学生男子のような拗れがようやく解ける。
余計な一言で炎上:
調子に乗った宝玉は、優等生キャラの宝釵(もう一人のヒロイン)の体型を楊貴妃(太っていた)に例えて激怒させる。普段温厚な彼女から、インテリジェンスあふれる強烈な嫌味でお返しされ、全員が凍りつく。
無自覚な火遊びが招く悲劇:
母親が昼寝中、宝玉はそのお気に入りの侍女(金釧)に「僕の女になりなよ」とちょっかいを出す。目を覚ました母親は激怒し、侍女を解雇。これが後に彼女を死に追いやる原因となる(宝玉は逃亡)。
薔薇の園のストーカー:
雨の中、女優(齢官)が地面に狂ったように「恋」の文字を書く姿を覗き見し、自分の服が濡れるのも忘れて感動する宝玉。自分の世界に入り込みすぎである。
痛恨のミスキック:
ずぶ濡れで帰宅した宝玉は、門を開けるのが遅いと激怒して蹴りを入れる。しかし、蹴った相手は最愛のパートナー侍女・襲人だった。彼女はその夜、密かに血を吐く。
〜 権力という暴力と、無情な因果 〜
作者・曹雪芹はこの回を通じ、華やかな貴族社会の裏にある「残酷な構造」と「無常観」を鋭く描いています。
「通俗貴族」の退廃と「儒教的道徳」の欺瞞
母・王夫人が侍女・金釧を殴り追放したシーンは、当時の貴族社会の**「ダブルスタンダード」**を象徴しています。
建前: 貴族は慈悲深くあれ。
本音: 息子の貞操(家の存続)を守るためなら、使用人の人生などゴミのように捨てて良い。
本来、誘惑したのは宝玉(権力者側)ですが、罰を受けるのは金釧(弱者)のみです。この理不尽さこそが封建社会の闇であり、作者はこの場面で「善人と思われている王夫人の冷酷な一面」をあぶり出し、貴族の偽善を告発しています。
「情(愛)」の多様性と業
宝玉はこの回、複数の女性と関わりますが、そのすべてが「愛着」から来るものでありながら、結果として人を傷つけています。
金釧への情: 色気心 → 解雇という悲劇へ。
黛玉への情: 過度な依存 → 精神的な消耗へ。
襲人への情: 甘えと激情 → 肉体的な傷害(吐血)へ。
仏教的な視点で見れば、**「執着(愛欲や情熱)こそが苦しみ(業)を生む」**という真理を、宝玉の行動を通して描いています。悪気がないからこそ、罪は深いのです。
「民衆」としての侍女・芸人のリアル
貴族たちが恋愛遊戯をしている横で、使用人たちは「生死」をかけた日々を送っています。
金釧にとって解雇は「社会的死」です(汚名を着ては嫁げない)。
齢官(地面に字を書く女優)のような芸人は、当時人間以下の扱いを受けていました。彼女が薔薇の棘で地面を掘る姿は、報われない身分違いの恋や、逃げ場のない閉塞感の象徴です。
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「宝玉の足」と「文字」に隠された暗号
初の「物理的暴力」の解禁
これまでの回では、宝玉の感情表現は「物を投げる(玉を投げつける)」ことはあっても、人に対して直接暴力を振るうことはありませんでした。
しかし、この第三十回で初めて、彼は襲人を蹴り、血を吐かせます。
これは、大観園という「少女たちの楽園」に、暴力という現実の楔が打ち込まれた瞬間です。襲人の吐血は、この一族の内側からの崩壊(身体的ダメージ)の始まりを暗示しており、後の物語の悲劇性を決定づける「終わりの始まり」の合図なのです。
二人の少女の「葬送」儀礼の対比
この回で登場する齢官の行動は、以前、黛玉が行った「葬花(花を葬る)」と対になっています。
黛玉(葬花): 散る花びら(自身の命の暗喩)を土に埋める。 → 高潔さ、天への回帰、精神的な浄化。
齢官(画薔): 土に文字を刻む。 → 雨で消えてしまう。泥にまみれる地上の執着。
宝玉はこの二つのシーンを目撃した唯一の人物です。彼は「高貴な悲しみ(黛玉)」と「卑賤とされる者の情熱(齢官)」が、情の深さにおいては等価であると悟ります。ここに、身分を超えた「人間讃歌」の哲学が隠されています。
心理学的「退行」現象としての宝玉
この日の宝玉は異常です。午前中に黛玉と謝罪劇、昼に母のメイドにセクハラ、夕方に別の女性のストーキング、夜にパートナーへの暴力。
心理学的に見れば、これは過度なストレス(黛玉との関係性不安など)による「幼児退行」と見ることができます。彼は万能感を求めて(母性的な)金釧に甘え、しかし母(超自我)に断罪され、逃げ出した先で、さらに幼い衝動で癇癪を起こし、襲人を蹴ります。
この「成長を拒否する永遠の少年」としての宝玉の限界点が、最も露骨に描かれた回と言えるでしょう。
今回では「無邪気な特権階級(宝玉)」が、「無垢な行動」によって「従属する者(金釧・襲人)」の人生を物理的に破壊し始めたという、戦慄すべき分岐点なのです。現代日本人に通じる教訓として読むならば、「強者の無自覚な甘えこそが、最も残酷な凶器になる」というホラーとも解釈できる物語です。




