第二十九回:福を享くる人 福深きにより還た福を禱り、 情に痴する女 情重きにより愈情を斟む
『錦の龍、血の道を行く』
白き雲より下を望めば、
道は錦と化し、人は埃。
百の輿、千の馬、万の足音。
地に這う龍は、金糸を纏う。
賈母の笑みに、鳳姐の眼差し、
宝石煌めき、絹は波打つ。
一歩進むごとに、銀は流れ、
民の汗は、泥となって乾く。
絢爛たる衣の袖には、
飢えたる子の叫び、聞こえぬか。
玉座高きは、遥かな空、
下界の呻き、耳塞ぐか。
朱に染まるは、輿の飾りか、
それとも民の、凍える指先か。
この世の楽園、この世の地獄、
紙一重に、並びて進む。
やがてこの龍、何処へ向かう。
栄華の果てに、何を見るや。
雲上の夢は、いつか破れ、
錦は朽ちて、土に還る。
【しおの】
さて、物語の糸を再び紡ぐとしましょう。
宝玉が縁側で物思いに耽っていると、不意に飛んできたハンカチが彼の顔に当たりました。驚いて「誰だ」と声を上げ、振り返れば、そこに林黛玉が首をすくめて笑い立っていました。
「ごめんなさいね、手が滑ってしまったの。宝釵お姉様が『呆れ雁』を見たいとおっしゃるから、あれを見てご覧なさいと指差した拍子に、うっかり放ってしまって」
宝玉は目に当たった痛みをこらえつつ何か言い返そうとしましたが、その言葉をぐっと飲み込みました。
そこへ鳳姐――王熙鳳が姿を現しました。
先日、清虚観という道教寺院でお祓いの儀式、いわゆる打醮を執り行う話が出ていましたが、そのついでに皆で芝居見物をしようと、宝釵、宝玉、黛玉らを誘いに来たのです。
しかし宝釵は首を横に振りました。
「やめておくわ。暑いもの。見たことのない芝居でもあるまいし」
鳳姐は食い下がります。
「あそこの観劇席は二階の回廊にあって涼しいのよ。私達が行くとなれば、数日前から人をやって道士たちを追い出し、綺麗に掃除をさせて、御簾をかけさせるわ。一般人は一人も入れないように手配済みよ。もう王夫人には申し上げたわ。皆が行かなくても、私一人は行くつもり。このところ退屈でたまらなかったし、家で一座を呼んでも、気兼ねしてゆっくり見られないんですもの」
それを聞いていた一族の最高権力者、賈母が笑って口を挟みました。
「そういうことなら、私も行こうかね」
鳳姐は手を打って喜びました。
「お祖母様が行かれるなら最高ですわ! でも、そうなると私がゆっくり楽しめなくなってしまいますね」
「明日は私が正面の楼閣に座るから、お前は脇の楼閣にいなさい。いちいち私の横で給仕をしなくてもいいよ」
「それこそお祖母様のご慈悲というものですわ」
鳳姐の調子の良い言葉に笑いながら、賈母は宝釵に向き直りました。
「お前もお行き。お母様も誘ってね。日が長い今の時期、家にいたってどうせ昼寝をするだけなんだから」
こう言われては、さすがの宝釵も承知するほかありませんでした。
賈母はすぐに人を遣って薛姨媽を招待し、ついでに王夫人にも声をかけました。王夫人は体調が優れないのと、宮中にいる元妃からの使いが来るかもしれないという理由で留守番を決め込んでいましたが、賈母の浮かれようを聞いて、「お義母様も相変わらずお元気ね」と苦笑し、大観園の中に触れを出しました。
「見物に行きたい者は、遠慮なくお供をしなさい」
この知らせが広まるや、屋敷中は蜂の巣をつついたような騒ぎとなりました。普段、屋敷の門を一歩も出られない侍女たちは、ここぞとばかりに色めき立ちます。主人が「行きたくない」と言っても、「せっかくですから」とあの手この手で焚きつけ、結局は未亡人である李紈たちまでもが行くことになりました。賈母はいよいよ上機嫌で、準備を命じたのです。
翌、六月一日。
栄国府の正門前は、身動きが取れないほどの人と車で埋め尽くされていました。貴妃の平安を祈る願掛けであり、賈母自らが参拝するとあって、道中の警備や装飾はいつになく厳重かつ豪華なものでした。
やがて賈母たちがその姿を現しました。
賈母は八人担ぎの大きな輿。
李紈、鳳姐、薛姨媽はそれぞれ四人担ぎの輿。
宝釵と黛玉は二人で、翠の屋根に美しい珠飾りを施した馬車、八宝車へ。
迎春、探春、惜春の三姉妹は、朱塗りの車輪が鮮やかな華蓋車に同乗しました。
これに続くのが侍女たちの行列です。
賈母付きの鴛鴦、鸚鵡、琥珀、真珠。
黛玉付きの紫鵑、雪雁、春繊。
宝釵付きの鶯児、文杏。
迎春付きの司棋、繍桔。
探春付きの侍書、翠墨。
惜春付きの入画、彩屏。
薛姨媽付きの同喜、同貴。そして香菱と侍女の臻児。
李紈付きの素雲、碧月。
鳳姐付きの平児、豊児、小紅。
さらに王夫人の侍女である金釧と彩雲も鳳姐の供につき、乳母に抱かれた幼い巧姐、鳳姐の娘もまた別の車に乗りました。それぞれの部屋付きの古参の乳母や家政を取り仕切る女房たちが、ずらりとその後に続きます。
黒山のような行列が通りを占拠しました。先頭の賈母たちが進み始めても、門前にはまだ乗り切れない者たちが残っています。「一緒の車はいやだ」「奥様の荷物を潰さないで」「髪飾りが引っかかった」「扇子が折れた」と、女たちの甲高いさえずりが止まりません。
古参の周瑞の妻が走り回って声を荒げます。
「娘さんたち、ここは表通りですよ。人に笑われます」
何度か叱りつけてようやく静かになった頃、先頭はすでに目的の清虚観に到着していました。
宝玉は馬に跨り、賈母の輿の前を進んでいました。沿道は見物人で溢れかえっています。
清虚観に近づくと鐘と太鼓が鳴り響き、法衣をまとった張道士が弟子たちを率いて出迎えました。
二つ目の門に入ったところで、賈母は泥で塑像された守護神像が並んでいるのを見て輿を止めさせます。一族の長である賈珍が男衆を率いて恭しく出迎えるなか、鳳姐は、自分の侍女たちが後ろの車列にいて間に合わないのを見て取り、自ら輿を降りて賈母の手を引こうと駆け寄りました。
その時です。十二、三歳の小坊主が、蝋燭の芯を切る鋏を持ったまま、人混みに紛れて逃げ出そうとし、勢い余って鳳姐の懐に飛び込んでしまったのです。
鳳姐は反射的に手を振り上げ、小坊主の顔をひっぱたきました。小坊主はたまらずでんぐり返ります。
「野牛め、どこへ目をつけて走りやがる!」
鳳姐の口汚い罵声に、小坊主は鋏を拾うのも忘れて這いつくばり、逃げようとします。ちょうど車を降りたばかりの女たちが、ここぞとばかりに「捕まえろ!」「打て!」と一斉に喚き立てました。
輿の中の賈母が驚いて尋ねました。「何事だい?」
鳳姐が賈母を助け起こしながら答えます。
「灯明係の小坊主が、逃げ遅れてうろついていたのです」
賈母はそれを聞くと、慌てて言いました。
「すぐにその子を連れておいで。脅かしてはいけないよ。貧しい家の子は大事に育てられているものだ。こんな物々しい行列を見て肝を潰しているだろうに、可哀想に。親が知ったらどれほど心を痛めるか」
賈珍が震える小坊主を連れてくると、賈母は優しく声をかけ、小遣いを与えて逃がしてやりました。この慈悲深い振る舞いに、周囲の者たちは深く感嘆したのでした。
しかし、男衆を取り仕切る賈珍の対応は異なります。彼は配下の怠慢を厳しく叱責し、息子の賈蓉が自分より先に涼しい鐘楼で休んでいたのを見つけると、従僕に命じてその顔に唾を吐きかけさせ、厳しく家へ追い返しました。祭礼の場とはいえ、家長としての威厳は絶対なのです。
賈母たちが休憩所に入ると、住職の張道士が挨拶に来ました。
この張道士、かつては栄国公(賈母の夫の父)の身代わりとして出家した人物で、先帝から「大幻仙人」の号を賜り、現在は道教全体を統括する地位にある高僧です。王侯貴族も彼を「神仙」と崇めるほどですが、賈家の人間に対しては昔ながらの身内のように振る舞います。
張道士は賈母に挨拶をした後、宝玉を見てはらりと涙を流しました。
「若君のお姿、立ち居振る舞い……まるで先代の国公様が生き返ったようです」
賈母も涙ぐみました。
「そうなんだよ。息子や孫は大勢いるけれど、あの人に似たのはこの宝玉だけさ」
感極まった後、張道士はふと思い出したように言いました。
「先日、あるお宅で十五歳になるお嬢様をお見かけしました。器量よしで聡明、家柄も申し分ない。若君の縁談にいかがかと……」
賈母は即座に答えました。
「以前、あるお坊様に『この子は早婚はいけない』と言われてね。もう少し大きくなってから決めようと思っているんだよ。ただ、これからは家柄や貧富にかかわらず、とにかく器量と気立ての良い娘がいたら教えておくれ。貧乏なら支度金を出してやればいいことだから」
やんわりと、しかしきっぱりと縁談を断ったのです。
その後、張道士は宝玉の持っている「通霊宝玉」を、信徒たちに見せたいと借りていきました。しばらくして戻ってくると、盆一杯の供物を持ってきます。信徒たちが「生き神様」の宝玉を拝んだお礼にと捧げた、金や玉の装飾品です。
賈母は一度は辞退しましたが、張道士の顔を立てて受け取らせました。宝玉は「僕には無用だから、貧しい人に配りましょう」と言いましたが、張道士に「物が良すぎて逆に彼らの迷惑になる」と諭され、ひとまず手元に置くことにしました。
楼閣の上で、宝玉は盆の中の贈り物をひっくり返して遊んでいました。
賈母がその中の一つ、赤金に翡翠をあしらった「麒麟」の置物を手に取りました。
「これと同じようなものを、誰かのお嬢さんが持っていた気がするねぇ」
すると、宝釵がすかさず口を挟みます。
「史湘雲さんが持っていますわ。これより少し小さいのを」
「そうそう、雲ちゃんだ」
探春が笑いました。「宝釵お姉様はすごいわ。何でも覚えてらっしゃる」
それを聞いた黛玉が、冷ややかに言い放ちます。
「あの方は、他人の持ち物にはことさら熱心なのよ」
宝釵は聞こえないふりをして顔を背けました。
宝玉は、湘雲が麒麟を持っていると聞き、密かにその金の麒麟を懐にしまい込みました。ですが、「湘雲とお揃いになるから自分のものにした」と悟られるのを恐れ、きょろきょろと周囲を伺います。誰も気づいていないようでしたが、ただ一人、黛玉だけがじっと彼を見つめ、意味ありげに頷いています。
宝玉は気まずくなり、慌てて麒麟を取り出して黛玉に見せました。
「これ、なかなか面白いだろう。君のために取っておいたんだ。家へ帰ったら紐を通してあげるよ」
黛玉はプイと横を向きます。
「いらないわよ、そんなもの」
「本当にいらない? じゃあ、僕がもらうよ」
宝玉は再び懐にしまいました。
さて、神前で占われたこの日の演目は、奇妙な暗示に満ちたものでした。
一本目は『白蛇記』。漢の高祖が白蛇を斬って覇業を始める物語。
二本目は『満床笏』。一族皆が高官となり栄華を極める物語。
賈母は「神様も景気のいい話がお好きだね」と笑っていましたが、三本目の演目を聞いて黙り込みました。
三本目は『南柯夢』。栄華はすべて夢幻だったという物語だからです。
翌日、宝玉は屋敷に戻ってからも不機嫌なままでした。張道士が持ちかけた縁談の話が気に障っていたのです。一方、黛玉も暑気あたりで体調を崩していました。
宝玉が黛玉を見舞いに行くと、黛玉は言いました。
「芝居を見に行けばいいのに、どうして家にいるの?」
縁談話で神経質になっていた宝玉は、この言葉に胸を突かれました。
(他人が僕の気持ちを分からないのは仕方ない。でも、どうして彼女まで僕を馬鹿にするんだ)
普段なら聞き流せる言葉も、愛する黛玉に言われると棘となって刺さります。宝玉は顔を曇らせました。
「君までそんなことを言うのか。君という人間を見損なっていたよ」
「ええ、見損なったでしょうよ。私なんて、どこぞのお嬢様とは釣り合いませんものね」
黛玉の嫌味に、宝玉は詰め寄ります。
「そうやって、僕が天罰で死ねばいいとでも思ってるのか!」
二人の言い争いは、ここから最悪の展開を見せることになります。
宝玉は、幼い頃から黛玉と共に育ち、誰よりも彼女を愛しています。しかし、世間には「金と玉の良縁(宝釵の持つ金の首飾りと、宝玉の通霊宝玉の結合)」という噂があり、それが二人を不安にさせていたのです。
宝玉は思います。
(僕の心には君しかいないのに、どうして君は僕を信じてくれないんだ。わざとあんな言葉で僕を試すなんて、僕の心が分かっていない証拠だ)
一方、黛玉は思います。
(本当に私を愛しているなら、あの『金玉』の噂なんて笑い飛ばせるはず。それを私が口にしただけでムキになって怒るなんて、やっぱり心の中にあの噂が引っかかっているのね)
本来は一つの心であるはずが、互いに探り合い、求めすぎるあまり、かえって心は離れていきます。
「良縁」という言葉に逆上した宝玉は、首にかけていた通霊宝玉を引きちぎり、床に叩きつけました。
「こんなガラクタがあるからいけないんだ! こんなもの、叩き割ってやる!」
しかし、霊玉は硬く、傷一つ、つきません。宝玉は狂ったように何か叩き割る道具を探し回ります。
黛玉は泣き叫びました。
「何てことを! その玉を割るくらいなら、私を殴り殺して!」
騒ぎを聞きつけて襲人(宝玉の筆頭侍女)と紫鵑が止めに入りました。
襲人は宝玉の手から玉を奪い返します。宝玉は顔面蒼白で涙を流していました。
「僕の勝手だろ!」
襲人は悲しげに諭しました。
「林様と口論になったからといって、命より大事な玉を割ろうとするなんて。もし壊れたら、林様のお立場はどうなるのです」
その言葉は黛玉の胸を抉りました。自分が原因で宝玉が大切な玉を壊せば、自分は賈家の罪人になってしまう。
あまりの悲しみと興奮で、黛玉はさきほど飲んだ薬をすべて吐いてしまいました。紫鵑が背中をさすりながらハンカチで受け止めます。
その弱り切った姿を見て、宝玉の怒りは瞬時に後悔へと変わりました。
(ああ、言いすぎた。彼女はこんなに弱いのに、僕は代わってあげることもできない)
四人――宝玉、黛玉、襲人、紫鵑は、言葉もなくただ涙を流しました。
やがて襲人が、重苦しい空気を変えようと努めて明るく言いました。
「ほら、見てください。この玉の飾り紐、林様が作ってくださったものでしょう? それを粗末にするなんて」
それを聞いた黛玉は、発作的に玉をひったくり、そばにあった鋏で飾り紐をズタズタに切り裂いてしまいました。
「どうせ無駄なことよ! こんなもの、彼は要らないんだわ。誰か他の人に立派なものを作ってもらえばいいのよ!」
「ああ、なんてことを!」襲人と紫鵑が悲鳴を上げました。
宝玉は力なく言います。
「いいさ、切ればいい。どうせ僕はもう身につけないんだから」
この騒ぎは、結局、賈母と王夫人の耳に入り、襲人と紫鵑が「お世話が行き届かない」と叱られることで幕を引きました。
翌、六月三日。薛蟠(宝釵の兄)の誕生日パーティーがありましたが、宝玉と黛玉は欠席しました。
宝玉は後悔のあまり塞ぎ込み、黛玉は「彼が行かないのは私のせいだ。あの紐を切ってしまったなんて、なんて馬鹿なことをしたのだろう」と自分を責めていました。
二人が意地を張り合って顔を合わせようとしないのを見て、賈母は嘆き悲しみます。
「あの二人は、前世でどれほど深い因縁があったというのさ。来る日も来る日も私の心を痛めつけて……」
そして、涙ながらにこうこぼしました。
「まさに『冤家ならずんば頭を聚めず』だね。いっそ私が死んでしまえば、二人がどんな大喧嘩をしようと知ったことじゃないのに」
この言葉は、すぐに二人の耳に届きました。
『冤家ならずんば頭を聚めず(不是冤家不聚頭)』。
因縁がなければ冤家とはならず、深い愛憎で結ばれた者こそが巡り会い、互いに苦しめ合うという意味です。
この言葉を聞いた瞬間、二人はまるで禅の悟りを開いたかのように、その真意を噛み締めました。
宝玉は空の月を見上げてため息をつき、黛玉は風に揺れる竹の音を聞きながら涙を流す。
場所は離れていても、二人の心は、悲しいほどに一つだったのです。
夜、襲人は宝玉を諭しました。
「何もかも貴方が悪いのですよ。普段、下男たちが女の子と喧嘩をしていると『女の子の気持ちが分からない奴だ』と笑っているくせに、ご自分はどうなのです。明日は端午の節句、大事な日です。このまま仲違いを続けてお祖母様を悲しませるおつもりですか? 男らしく謝ってしまいなさいな」
宝玉はその言葉を聞いて、どうすべきか迷い始めました。
果たして彼は折れることができるのでしょうか。
〜 セレブの大行列と、最悪の痴話喧嘩 〜
規格外のパレード(清虚観への参拝)
王妃(元春)の祈願のために、賈家ファミリーが総出で道教寺院へ。「祈願」とは名ばかりの、ド派手な「示威行為」です。
最高権力者・賈母(おばあ様)を筆頭に、数百人のメイドや馬車が通りを占拠。一般人の立ち入りを禁止し、道士を叩き出して貸切にする、まさに「上級国民のバカンス」が展開されます。
パワハラ女・鳳姐 vs 仏のおばあ様
寺院で逃げ遅れた12歳の小坊主が、管理者である鳳姐にぶつかります。鳳姐は即座に「ひっぱたき」罵倒しますが、おばあ様(賈母)は「かわいそうに」と守り、小遣いを与えます。残酷さと慈悲深さのコントラストが描かれます。
縁談の持ち込み(トラブルの火種)
寺院の住職・張道士(80代のVIP僧侶)が、宝玉に縁談を持ちかけます。「金持ちで美人の娘がいる」と。
これを聞いた黛玉はメンタル不調に。「どうせ私は貧乏ですから」と拗ねます。
神が予告する「バッドエンド」
神前で選んだ芝居の演目が、皮肉にも「栄華の始まり」「絶頂」、そして「すべては夢だった(没落)」という三本立てになり、賈母も沈黙してしまいます。
地獄のカップル喧嘩と「玉砕き」
帰宅後、縁談の話に過敏になった宝玉と、不安な黛玉が大喧嘩。「私のことなんかどうでもいいんでしょ」「どうして僕の心が分からないんだ!」
こじらせすぎて、宝玉は自分の分身である「通霊宝玉」を引きちぎり、叩きつけようとします。黛玉は嘔吐し、自ら刺繍した飾り紐をハサミで切る。
全員が号泣するカオスの中、二人は「喧嘩するほど深い縁がある(冤家)」という真理に気づき、茫然とするのでした。
作者が描きたかった時代の「政治・文化・宗教」の真髄
この回は、単なるイベント回ではなく、当時の社会構造の「光と影」が強烈に風刺されています。
政治と宗教の癒着構造
張道士という老僧は、単なる宗教家ではありません。彼は「栄国公(宝玉の祖父)の身代わり(替身)」として出家した人物です。
示唆すること: 当時、貴族は自らが仏門に入る代わりに「替え玉」を出家させることで、世俗の享楽を続けつつ徳を積んだことにしていました。
さらに彼は皇帝から称号をもらっています。「宗教が、権力者の権威付けのための装置」として機能しているリアリズムを描き出しています。張道士が宝玉にひれ伏すのは、神への信仰よりも「賈家というスポンサー(権力)」への崇拝があるからです。
「貴族」と「民衆」の隔絶
鳳姐の暴力: 彼女が小坊主を即座に殴るシーンは、当時の貴族階級が民衆(特に使用人や低い身分の者)を「同じ人間」として見ていないことの象徴です。
行列の暴力性: 一般人を排除し、道を封鎖するパレードは、民衆からすれば「迷惑な災害」です。作者は華やかさを描くと同時に、その裏にある民衆の犠牲と、特権階級の驕りを冷徹に描写しています。賈母の慈悲ですら、圧倒的強者だからこそできる「気まぐれな施し」にも見えます。
道教的ニヒリズム(諸行無常)
三本の芝居(白蛇記、満床笏、南柯夢)は、賈家の運命そのものです。
創業(白蛇記=漢の成立)
繁栄(満床笏=一族皆が出世)
没落(南柯夢=夢落ち)
神前でこれらが偶然選ばれたことにより、作者は「今のこの極彩色の繁栄も、いずれは塵となって消える夢」であることを読者に突きつけます。最も栄華を極めた日に、滅びの予言をする。この残酷な対比こそが『紅楼夢』の文学的価値です。
さらに物語を深く味わうためのポイント・・・
「金の麒麟」陰謀論
張道士が宝玉に「金の麒麟」を渡したことには、実は政治的な意味があると読む説があります。
別のヒロイン、史湘雲も「金の麒麟」を持っています。
黛玉のライバル・宝釵は「金」のネックレスを持ち、「金玉の良縁」という噂があります。
ここにまた「金」のアイテムが登場し、しかも張道士がいきなり「縁談」を持ちかけた。
深読みポイント: これは、「宝玉と黛玉(木石の縁)」を引き裂き、「金(薛家や史家)」の勢力と結びつけようとする周囲の(あるいは張道士を利用した反・黛玉派の)無意識の圧力ではないか? 黛玉がこの「金」に対して異常に敏感なのは、単なる嫉妬ではなく、自分の居場所(愛)を奪おうとする社会システム全体への恐怖なのです。
宝玉の「玉」を叩き割る心理学
宝玉にとって首から下げた「通霊宝玉」とは何でしょうか?
それは彼が「貴種」である証明であり、家の期待そのものです。
黛玉との喧嘩でそれを叩き割ろうとしたのは、単にヒステリーを起こしたからではありません。
「この家柄、この特権、この『お坊ちゃん』というレッテルがあるせいで、僕は純粋に君を愛することすらできない!」
彼は、自分のアイデンティティ(玉)を破壊することでしか、黛玉への純粋な愛を証明できないという、極限のジレンマに陥っていたのです。これは現代で言う「親の敷いたレールやステータスを捨てて、君を選びたい」という叫びの、最も過激な表現です。
禅語としての「冤家」
賈母が言った「不是冤家不聚頭(冤家ならずんば頭を聚めず)」は、単なる「喧嘩するほど仲が良い」以上の意味を持ちます。
「冤家」とは一般的では「宿敵」であり、同時に「逃れられない因縁の相手」です。
仏教的(あるいは転生説的)に見れば、「前世で借りを返せなかった相手とは、今世で愛し合い、傷つけ合う相手として再会する」ということ。
この瞬間、宝玉と黛玉の物語は「単なる従兄弟同士の恋愛」を超え、「魂レベルでの清算と昇華の物語」へとシフトしたのです。二人が月と竹を見て涙したのは、この「逃れられない運命の重さ」を悟ったからでしょう。




