第二十八回:蒋玉菡は情(こころ)を込めて茜香羅(あかねいろのうすぎぬ)を贈り、薛宝釵は羞じらいて紅麝の串(うでわ)を籠(つ)く
『葬花・茜雪』
第一節(黛玉の視点):
花は散り、空いっぱいに舞っています。その赤色は消え、香りも途絶え、誰も憐れんではくれません。
一年の三百六十日、風という刀、霜という剣が、美しい花を追い詰めます。
この美しさはどれほど続くのでしょう。春が終われば、私の若き顔もまた、老いてゆくのです。
第二節(宝玉の視点):
どこから聞こえるのか、魂を削るような泣き声は。
岩の上で聞く私は、散りゆく花を見て涙を流す。
清らかな花の骨を袋に集めても、結局はどこへ流れていくのか。ああ、無常だ。
第三節(共鳴):
(黛玉)柳の綿も、楡の実も、花の魂も、泥に汚れるのは耐えられません。
清らかに生まれたのだから、清らかなまま土に還したい。汚れた溝に落ちてはいけないのです。
(宝玉)ああ、君がいなくなってしまったら、私はどこへ行けばいい?
花が散り、知る人が皆死んでしまったら、この世界は誰のものになるというのか。
結び(絶唱):
今日、散った花を埋葬する私を、人は「物好きだ」と笑うでしょう。
でも、来年、死んでしまった私を埋葬してくれるのは、一体誰なのですか?
見ていなさい。春が過ぎ去り、花が散り落ちるその時こそ、
美しい乙女が老いて、死んでいく時と同じなのです。
春が尽き、花が落ち、人が死んでしまえば、
花も、人も、どちらも知る者などいなくなってしまうのです……。
【しおの】
林黛玉は、昨夜、晴雯に門を開けてもらえなかった一件を、他ならぬ賈宝玉の指図だと誤解しておりました。
明くれば、折しも晩春の「餞花の期」──花を見送る節句でございます。胸にわだかまる晴やらぬ思いに、過ぎ行く春を惜しむ愁いが重なり、彼女は散り残った花びらを集めては、香袋に収めて土に埋めておりました。散りゆく花に我が身の儚さを重ね、ほろほろと涙をこぼしては、つくづくと悲しげに詩を口ずさむのでした。
偶然、その近くの築山に来ていた宝玉は、その声を耳にいたしました。最初はただなんとなく頷いて感嘆していただけでしたが、やがて咽び泣くような詩句が聞こえてまいります。
「今日、花を葬る私を人は笑うけれど、他年、私を葬ってくれるのは誰なのだろう」
「ひとたび春が尽きれば紅顔も老い、花落ち人亡びて、両つながら知る人もなし」
これを聞くや、宝玉は感極まり、思わず築山の上に泣き崩れました。懐に入れていた落花がハラハラと地にこぼれ落ちます。
(ああ、林黛玉のような花顔月貌の美しい人も、いつかは消え果てて何処にも尋ねようがなくなる時が来るのだ。なんと心砕け、腸断たれる思いか。黛玉がいなくなるのなら、推して知るべし、宝釵、香菱、襲人といった者たちも、みな消え果てる時が来る。彼女たちが消え果ててしまうなら、この自分はいったい何処にいるというのか。己自身さえ何処へ行くか分からぬなら、今ここにあるこの場所、この園、この花、この柳は、また誰の物となるのか……)
一から二、二から三へと想いは巡り、ついには自分が今いかなる愚物であるかさえ分からず、いっそこの世の造化(運命)から逃れ、塵界を抜け出し、この深い悲しみを消し去りたいと願うばかりとなりました。まさに「花影は身の左右を離れず、鳥声はただ耳の東西にあり」という心境でございます。
一方、感傷に浸っていた林黛玉は、ふと築山の上から悲痛な泣き声がすることに気づきました。
「誰もが私のことを『痴病み』と笑うけれど、まさかもう一人、物好きがいるとはね」
見上げると、それは宝玉でございました。黛玉はふいと顔をしかめます。
「ふん! 誰かと思えば、あの人でなしの短命な……」
そこまで言いかけて、慌てて口を押さえ、長い溜息をつくと身を翻して立ち去ろうといたしました。
宝玉はひとしきり泣いて、ふと顔を上げると黛玉の姿がありません。彼女が自分を避けて行ったのだと悟り、急に興が覚めてしまいました。土を払い落として立ち上がり、山を下りて怡紅院へ帰ろうとすると、前を行く黛玉の姿が見えました。宝玉は急いで追いかけます。
「ちょっと待って。僕を無視したいのは分かるけれど、一言だけ言わせてくれ。そうしたら、もう二度と構わないから」
黛玉は振り返り、無視しようとしましたが、「一言だけ」「もう構わない」という言葉に含みを感じ、立ち止まりました。
「一言っておっしゃいな」
宝玉は寂しげに笑いました。
「やっぱり二言になっても聞いてくれる?」
黛玉はそれを聞くと、また歩き出そうとします。宝玉は背中に向かって嘆きました。
「今日がこうなるなら、何故もっと早くこうしなかったのか!」
この言葉に、黛玉は思わず足を止め、振り返りました。
「早くって何? 今日がどうだと言うの?」
宝玉は深く溜息をつきました。
「あなたがここへ来た当初、僕たちは一緒に遊んだじゃないか。僕の好きな物でも、あなたが欲しがればあげたし、僕の好物でも、あなたも好きだと聞けば手をつけずに取っておいて一緒に食べた。食事も同じテーブル、寝るのも同じ部屋。侍女たちが気がつかないことまで、僕はあなたが怒らないように気を配ってきた。僕はこう思っていたんだ。従姉妹同士、小さい頃から一緒に育って、親しく和やかに過ごしてこそ、他人よりも深い絆ができると。それなのに、誰が思っただろう。あなたが成長するにつれて心変わりし、僕のことなど眼中に無くなって、遠い親戚の宝姉さんや鳳姉さんばかりを慕い、僕には三日も四日も口をきいてくれないなんて。僕には同腹の兄弟姉妹がいない。二人(早世した兄の賈珠と姉の元春)はいるけれど、母が違うことは知っているだろう? 僕もあなたと同じ一人っ子のようなものだ。心も同じだと思っていたのに。僕の気苦労は無駄だったんだ。この無念を訴える場所もない!」
言いながら、宝玉はまた涙をこぼしました。
その言葉を聞き、その姿を見た黛玉は、心のわだかまりが氷解し、思わず涙を流してうつむきました。その様子を見て、宝玉は続けます。
「僕に至らない点があるのは分かっている。でも、どんなに悪くても、あなたの前で間違いを犯すつもりはないんだ。もし過ちがあれば、教えてくれるなり、叱るなり、叩くなりしてくれればいい。それなら諦めもつく。でも、理由もわからず無視されては、僕は途方に暮れて魂が抜けたようになってしまう。死んでも死にきれない。高僧にお経を上げてもらっても浮かばれないよ。あなたが理由を教えてくれて初めて、僕は成仏できるんだ」
黛玉はこれを聞いて、昨晩のわだかまりなど九霄雲外へ消し飛んでしまいました。
「そこまで言うなら、どうして昨夜、私が訪ねた時に侍女に扉を開けさせなかったの?」
宝玉は驚きました。
「そんな馬鹿な! もしそんなことをしたなら、僕は今すぐ死んでもいい」
「朝っぱらから死ぬの生きるのと、縁起でもない。あるならある、ないならないでいいじゃない。誓いなんて立てて」と黛玉はたしなめます。
「本当に行かなかったんだ。宝姉さんが少し座って帰っただけだよ」
黛玉は少し考えて、ふっと笑いました。
「そうか。きっとあなたの侍女たちが無精をして、意地悪をしたのね」
「きっとそうだ。帰って誰の仕業か問い詰めて、叱りつけてやる」
「ええ、あなたのところの娘たちは躾が必要よ。私のことならまだしも、もし宝姉さんや誰か他の『貝姉さん』が来て失礼があったら、大変なことになるもの」
黛玉が口元を隠して笑うと、宝玉は悔しさと愛しさがない交ぜになり、歯噛みしながらも笑い出しました。
二人が話していると、食事ができたと侍女が呼びに来ました。二人は連れ立って王夫人の部屋へ向かいます。
王夫人は黛玉を見ると尋ねました。
「大姑娘、鮑太医の薬はどう?」
「あまり変わりません。お祖母様は王先生の薬を飲むようにとおっしゃいます」
宝玉が口を挟みました。
「奥様、ご存じないでしょうが、林の妹は先天的な虚弱体質なんです。風邪薬は二回ほど煎じて飲めば十分ですが、あとは丸薬が良いのです」
「先日、医者が言っていた丸薬の名を忘れてしまってね」と王夫人。
「人参養栄丸でしょう?」
「いいえ」
「八珍益母丸? 左帰? 右帰? それとも麦味地黄丸?」
「どれも違うわ。『金剛』とかいう名だったような」
宝玉は手を叩いて笑いました。
「『金剛丸』なんて聞いたことがない! 金剛丸があるなら『菩薩散』もあるはずだ!」
部屋中がどっと笑います。宝釵が口元をほころばせて言いました。
「おそらく『天王補心丹』のことではありませんか?」
「そうそう、それよ。私ももうろくしたわね」と王夫人。
宝玉が「奥様がもうろくしたんじゃなくて、金剛や菩薩が混乱させたんですよ」と混ぜっ返すと、「お黙り! また父親にぶたれたいのかい」と王夫人は叱りましたが、宝玉は「親父はこんなことじゃぶたないよ」と笑ってかわします。
「その薬があるなら、明日買って来させましょう」と王夫人が言うと、宝玉が遮りました。
「そんな薬は効きませんよ。僕に三百六十両ください。僕が妹のために特製の丸薬を調合します。一回分で完治させてみせますよ」
「出鱈目を言うんじゃないよ。何の薬がそんなに高いんだい?」
「本当ですよ。僕の処方は特別なんです。まず名前が奇妙だし、材料も凄い。頭胎(第一子)の紫河車(しがしゃ=胎盤)、人形をした葉付きの高麗人参、これだけで三百六十両じゃ足りない。亀ほどの大きさの何首烏、千年の松の根の茯苓の胆、こんなものはただの脇役です。主役の薬を聞いたら腰を抜かしますよ。以前、薛の兄貴(薛蟠)に頼まれて教えるまで一、二年かかりました。彼は処方を持って二、三年探し回り、千両近く使ってようやく調合できたんです。嘘だと思うなら宝姉さんに聞いてみて」
宝釵は笑って手を振りました。
「私は知りません、聞いたこともないわ。私を巻き込まないで」
王夫人は笑います。
「さすが宝釵、いい子だね、嘘をつかない」
宝玉は振り返って手を打ち鳴らしました。
「本当のことを言ってるのに、嘘つき扱いか」
そう言いながら振り返ると、黛玉が宝釵の後ろに座り、口元を隠して笑いながら、指で頬をかいて「あーあ、嘘つき」という仕草で彼をからかっていました。
そこへ、奥で支度を見ていた鳳姐がやって来て笑いました。
「宝玉の言ってることは嘘じゃありませんよ、実際にあった話です。先日、薛の兄さんが私の所へ真珠を探しに来ました。薬に使うと言うんです。手間がかかるとこぼしていましたよ。宝玉の処方だと言って、色々な材料を並べ立てていましたが、私は忙しくて聞き流しました。どうしても頭に飾って使い古した真珠でないと駄目だと言うので、私が付けていた珠花を二つ壊して渡しました。それから三尺ばかりの上等な紅紗も持っていきましたよ。乳鉢にかぶせて粉を濾すんだとか」
鳳姐が話すたびに、宝玉は「南無阿弥陀仏、太陽が西から昇るぞ」と念仏を唱えました。
宝玉は王夫人に言います。
「ほらね。でも、これは間に合わせです。本来の処方では、真珠や宝石は古い古墳の中にある、昔の貴人が身につけていた装飾品でなきゃいけない。でも今さら墓を暴くわけにもいかないから、生きた人が使ったもので代用したんです」
王夫人は呆れました。
「南無阿弥陀仏、なんて罰当たりな! たとえ墓にあっても、何百年も死んでいた人の骨をひっくり返すなんて、そんな薬が効くものですか」
宝玉は黛玉に向かって言いました。
「聞いたかい? まさか鳳姐さんまで僕とグルになって嘘をついてるわけじゃないだろう?」
顔は黛玉に向けていましたが、その視線はチラチラと宝釵を伺っております。
黛玉は王夫人の袖を引きました。
「叔母様、聞いてください。宝姉さんが話を合わせてくれないからって、私に当たり散らすんです」
王夫人も「宝玉はよく妹をいじめるね」と言います。
宝玉は笑いました。
「奥様、わけがあるんです。宝姉さんは家にいた頃、兄貴の道楽を知らなかったし、今は大観園に住んでいるから、なおさら知らない。林の妹が後ろで僕を『嘘つき』とからかうから、本当だって証明したかっただけですよ」
そこへ賈母の部屋から侍女が食事に呼びに来ました。黛玉は宝玉を待たずに侍女の手を引いて立ち上がります。
「彼は食べないんですって。行きましょう、私は先に行くわ」
宝玉は「僕は今日、奥様と一緒に食べるよ」と言い、王夫人が「私は精進日だから、向こうでまともに食べなさい」と促しても、「僕も精進します」と譲らず、勝手に席に着いてしまいました。
王夫人は宝釵たちに言います。
「あなた達は先に食べて。あの子は放っておきなさい」
宝釵は笑って宝玉に言いました。
「向こうへ行きなさいよ。食べる食べないは別として、林さんと一緒に行ってあげなさい。彼女、ひどく気落ちしているわよ」
「構うもんか。しばらくすれば機嫌も直るさ」と宝玉は答えます。
食事が終わると、宝玉は祖母のことも、やはり黛玉のことも気になり、急いで茶を飲んで口をすすぎました。
探春や惜春が笑います。
「二兄さん、一日中何をそんなに慌ててるの?」
宝釵も笑いました。
「早く食べさせて林さんの所へ行かせましょうよ。ここで無駄口を叩かせても仕方ないわ」
宝玉は茶を飲み終えるとすぐに飛び出し、西院へ向かいました。鳳姐の院門の前を通りかかると、鳳姐が門の敷居に足をかけ、耳かきで歯をせせりながら、小僧たちが植木鉢を動かすのを監督していました。宝玉を見るや、手招きします。
「ちょうどいいところに。入って、入って。字を書いておくれ」
宝玉は仕方なくついて行きました。鳳姐は筆と紙を用意させます。
「大紅の蟒緞(まだら模様のあつい絹)四十疋、上用紗各色百疋、金首輪四つ……」
宝玉は言われるままに書き留めました。
「これは帳簿でも贈り物でもないようだけど、どういう意味?」と聞いても、鳳姐は「いいから書いて。私が分かればいいの」と言うだけでした。
書き終わると、鳳姐は言います。
「もう一つ話があるんだけど、聞いてくれる? あんたの部屋の紅玉って侍女、私が使いたいから貰い受けるわよ。代わりにまた誰か選んであげる」
「僕の部屋には人が多すぎますから、姉さんが気に入ったなら誰でも連れて行ってください。僕に聞くまでもありません」
「じゃあ、すぐに人をやって連れてこさせるわ」
宝玉が帰ろうとすると、また呼び止められましたが、「お祖母様が呼んでるから」と逃げるように賈母の部屋へ戻りました。
宝玉が部屋に入ると、黛玉が布を裁断しておりました。
「やあ、何をしてるの? 食後すぐにそんなに頭を下げていたら、また頭痛がするよ」
黛玉は無視して作業を続けます。侍女が「その隅がまだ皺になってます、もう一度アイロンを」と言うと、黛玉は鋏を放り出し、「構うもんか、しばらくすれば直るわよ」と言い放ちました。宝玉の先ほどの言葉の意趣返しでございます。
そこへ宝釵や探春たちが入ってまいりました。宝釵が「妹さん、ますます器用になったわね。裁縫までするなんて」と褒めると、黛玉は「これも嘘をついて人を騙してるだけよ」と皮肉ります。宝釵は笑って、「さっきの薬の話、私が『知らない』と言ったから、宝玉は面白くなかったみたいね」と言いました。
黛玉はまた「構うもんか、しばらくすれば直るわ」と言い、宝玉はばつが悪そうに宝釵に骨牌遊びを勧めましたが、宝釵は帰ってしまいました。
黛玉は「あなたも行けば? ここに虎がいて、食べられちゃうかもよ」と言いながら、また裁縫を始めます。宝玉が何を言っても取り合いません。
そこへ「外にお客様です」と知らせが入りました。宝玉は慌てて出て行こうとします。
黛玉は背中に向かって声をかけました。
「南無阿弥陀仏! あなたが帰ってくる頃には、私は死んでるかもね」
外に出ると、従者の焙茗が「馮の旦那様の招待です」と告げました。宝玉は昨日の約束を思い出し、着替えるために書斎へ戻ります。焙茗が中の様子を伺わせると、侍女たちは大観園にいて書斎には誰もおりません。すったもんだの末、ようやく着替えの包みが届き、宝玉は馬に乗って馮紫英の屋敷へと向かいました。
屋敷には、すでに薛蟠が待ち構えており、芸子や、女形役者の蒋玉菡、錦香院の妓女・雲児もおりました。
挨拶を済ませ、酒宴が始まります。
薛蟠は数杯飲むと調子に乗り、雲児の手を握って「新しい曲を歌え」と絡み始めました。雲児は琵琶を弾きながら艶めかしい歌を歌います。
「二人の冤家、どっちも捨てがたい……」
歌い終わると薛蟠は「一甕飲み干してやる!」と叫びましたが、宝玉が制しました。
「そんな暴飲は粋じゃない。僕が令を決める。従わない者は罰杯だ」
一同は賛成します。宝玉は大杯を飲み干し、宣言しました。
「『悲・愁・喜・楽』の四文字を使って、それぞれ『娘』に関することを述べ、その理由を付けること。酒面に流行の曲を歌い、酒底に席上の物か古典の成語を言うこと」
薛蟠は立ち上がって抗議しましたが、雲児にたしなめられ、しぶしぶ従いました。
まずは宝玉から。
「娘は悲しむ、青春過ぎて空しき部屋に独り。娘は愁う、夫に栄達を求めたことを悔やむ。娘は喜ぶ、鏡に向かえば美しき朝の顔。娘は楽しむ、ブランコ揺らして春の衣は薄し」
一同は感心しました。薛蟠だけは「わからん!」と文句を言いましたが、無視されます。宝玉は歌いました。
「滴り尽きぬ相思の血涙、紅豆を抛つ……」
美しく切ない歌声に拍手が起こります。宝玉は梨の一片を手に取り、「雨、梨花を打ちて深く門を閉ざす」と締めました。
次は馮紫英。
「娘は悲しむ、夫が病で死に瀕す。娘は愁う、大風吹いて化粧楼が倒れる……」
彼は男勝りな気風の歌を歌い、「鶏声、茅店の月」と結びました。
次は雲児。
「娘は悲しむ、将来誰に頼ればいいの?……」
身の上を嘆くような言葉に、薛蟠が「俺がいるだろう!」と口を挟んで罰杯を受けます。雲児は「桃の夭夭たる」と締めました。
いよいよ薛蟠の番でございます。
「俺が言うぞ。娘は悲しむ──」
長い沈黙。目は鈴のように丸くなり、やっと絞り出しました。
「娘は悲しむ、嫁いだ男が烏亀!」
一同は大爆笑しました。
「なんだよ! 嫁いだ男が寝取られ男じゃ、悲しいに決まってるだろ!」
皆は腹を抱えて笑い、「もっともだ、次!」と促します。
「娘は愁う──」また沈黙。「刺繍部屋から大猿が飛び出した!」
「罰杯だ! 意味が通じない!」
「韻は合ってる!」と宝玉が助け舟を出しました。
「娘は喜ぶ、初夜の朝は起きるのが億劫。娘は楽しむ、いちもつをズブクリと……」
一同は顔をしかめます。「下品すぎる! 早く歌え!」
薛蟠は歌い出しました。「一匹の蚊がブーン、ブーン、ブーン」
皆は呆気にとられます。「何の曲だ?」
「二匹のハエがブン、ブン、ブン」
「もういい、やめろ!」
「これは『ブンブン韻』という最新の曲だぞ!」
結局、呆れ果てて酒底は免除となりました。
最後は蒋玉菡(愛称・琪官 きかん)。
「娘は悲しむ、夫去りて帰らず。娘は愁う、油を買う金も無し。娘は喜ぶ、灯火の芯が二つに結ぶ(吉兆)。娘は楽しむ、夫唱えば婦随う和合の仲」
そして艶やかな声で歌います。「嬉しや、生まれつきの百媚嬌……」
歌い終わり、席上にあった木犀の花を手に取り、詩を吟じました。
「花気、人を襲いて昼の暖かきを知る」
これを聞いて、薛蟠が飛び上がりました。
「罰だ、罰だ! 席上にない『宝物』を読み込んだぞ!」
蒋玉菡はきょとんとします。「宝物なんて読みましたか?」
「とぼけるな! 『襲人』は宝物だろうが! こいつに聞いてみろ!」と宝玉を指差しました。
宝玉は顔を赤らめます。「襲人」は彼の侍女であり、特別な関係にあるからです。
蒋玉菡は事情を悟り、慌てて詫びました。
「知らぬこととは言え、失礼しました」
その後、宝玉が席を外して手洗いに立つと、蒋玉菡もついてまいりました。廊下の軒下で、蒋玉菡は改めて詫びます。宝玉は彼の上品で優美な様子を見て、心が惹かれ、その手を強く握りました。
「暇ができたら僕のところへ遊びに来ておくれ。それと聞きたいのだが、貴劇団に『琪官』という名優がいると聞くが、どこにいるんだい? 一度会ってみたいのだが」
蒋玉菡は笑いました。
「それが私の幼名です」
宝玉は喜び、足を踏み鳴らします。
「なんと幸運な! 今日会えたのも何かの縁だ」
宝玉は扇子に付いていた玉の扇墜を外し、彼に贈りました。
琪官(蒋玉菡)も恐縮し、衣をまくり上げて、下着を締めていた真新しい大紅色の汗巾を解きます。
「これは北静王から頂いた茜香国の貢ぎ物で、夏に締めれば肌が良い香りを放ち、汗もかかないという珍品です。あなたへ差し上げます。代わりに、あなたの締めている帯を私にください」
宝玉は大喜びで、自分の松花色の汗巾を解いて琪官に渡しました。二人が帯を交換し終えた瞬間、薛蟠が飛び出してきて「捕まえた!」と叫びましたが、何とか誤魔化して席に戻りました。
夜になり、宝玉は屋敷に戻りました。着替える際、侍女の襲人は扇墜がないことに気づきましたが、宝玉は「落とした」と言い繕います。しかし寝る時、腰に見知らぬ血のような紅い帯があるのを見て、襲人は事情を察しました。
「いい帯を手に入れたのなら、私の帯を返してくださいな」
宝玉はハッとしました。琪官に渡した松花色の帯は、もともと襲人のものだったのです。後悔しましたが後の祭り。「今度新しいのをあげるよ」と誤魔化しました。
翌朝、襲人は自分の腰に昨日の紅い帯が巻かれているのに気づき、慌てて解き捨てます。
「こんな変なもの、気味が悪い!」と怒りましたが、宝玉になだめられ、結局は身につけることになりました。
襲人は宝玉に報告します。
「昨日、貴妃様(元春)から端午の節句の贈り物が届きましたよ」
見ると、上等の宮扇、紅麝香の数珠、鳳尾羅(織物)、芙蓉のむしろなどが並んでおりました。
宝玉は喜んで聞きます。
「他の人のも同じ?」
「お祖母様たちのは別格ですが、あなたと宝姑娘(宝釵)の分は全く同じです。林姑娘(黛玉)と二、三、四姑娘のは扇子と数珠だけで、他はありません」
宝玉は首をかしげました。
「どうして? 林の妹のが僕と違って、宝姉さんのが僕と同じなんだ? 間違いじゃないか?」
「間違いじゃありませんよ。ちゃんと名札が付いていましたから」
「そうか……」
宝玉は侍女に命じて、自分の分から好きな物を黛玉に選ばせるよう届けさせましたが、黛玉は「私も頂いたから結構です」と断ってまいりました。
身支度をして賈母への挨拶に向かう途中、宝玉は黛玉と鉢合わせました。
「どうして僕の贈り物を選んでくれないの?」
黛玉は昨日のわだかまりは忘れていましたが、今日の贈り物の格差(宝釵と宝玉が対等で、自分が格下であること)に心を痛めていたのです。
「私にはそんな福分はありませんわ。宝姑娘のように『金』だの『玉』だのとお揃いにはなれませんもの。私たちはただの草木ですから」
宝玉はこの言葉に敏感に反応しました。巷では「金(宝釵の金鎖)」と「玉(宝玉の通霊宝玉)」が結ばれるという噂があったからです。
「他人が何を言おうと、僕がそんな邪心を持っていたら天罰が下る!」
宝玉の真剣な様子に、黛玉は「冗談よ」と笑いましたが、二人の会話はどこか噛み合いません。そこへ宝釵が通りかかり、二人は会話を打ち切りました。
その後、賈母の部屋で皆が集まりました。宝釵は「金と玉の縁」の噂を気にして、普段から宝玉を避けておりました。昨日の贈り物の一件でさらに気まずさを感じていましたが、宝玉は無邪気に話しかけます。
「宝姉さん、その紅麝香の串、見せてくれない?」
宝釵は左腕にはめていた数珠状の腕輪を外そうとしました。しかし、彼女の肌は豊満で瑞々しく、なかなか抜けません。
宝玉はその様子を傍らで見ておりました。袖口から覗く雪のように白く、ふくよかな二の腕。
宝玉は思わず羨望の念を抱きます。
(この腕が林の妹の体に生えていたら、触らせてもらえるかもしれないのに。どうして彼女に生えているんだ……)
触れられぬもどかしさと、ふと思い出した「金玉の縁」。改めて宝釵の顔を見ます。顔は銀盆のごとく満ち、眼は水杏のように涼やか、唇は紅を差さずとも赤く、眉は描かずとも翠。黛玉とはまた違う、艶やかで風流な嫵媚がそこにありました。
宝玉は見とれて呆けてしまい、宝釵が腕輪を差し出しても受け取るのを忘れておりました。宝釵は恥ずかしくなり、腕輪を置いて立ち去ろうとします。
ふと見ると、黛玉が敷居に足をかけ、ハンカチを噛みながらニヤニヤと笑っておりました。
「あら、風の強いところになんか立って」と宝釵が言うと、黛玉は笑って答えます。
「空から声がしたから出てみたの。なんだ、呆雁だったわ」
「呆雁? どこに?」と宝釵。
「私が出てきたら、『テッ』と一声鳴いて飛んでいっちゃった」
言いながら、黛玉は手に持っていたハンカチをヒラリと振り、宝玉の顔めがけて投げつけました。
不意を突かれた宝玉は、ハンカチが目に当たり、「あ痛っ!」と声を上げます。
さて、この続きがいかなるものか、それは次回のお楽しみでございます。
この回は、「誤解の解消」と「運命の恋のゆらぎ」、そして「貴公子の危うい火遊び」を描いたエピソードです。
涙の仲直り(花葬る二人)
ヒロインの林黛玉は、「昨夜、宝玉に無視された」と勘違いし、悲しみのあまり散った花を土に埋めて泣いていました。それを聞いた宝玉も共鳴して泣き崩れます。二人は本音をぶつけ合い、「無視したのは侍女のミスだった」と判明。仲直りし、以前よりも深い絆で結ばれます。
三角関係の激化(宮中からの贈り物)
宝玉の姉(貴妃)から贈り物が届きます。しかし、「宝玉とライバルの宝釵はお揃い」で、「本命の黛玉はランクが下」という露骨な差がありました。これは「宝釵こそが正妻にふさわしい」という周囲の圧力(金玉の縁)です。黛玉はすねますが、宝玉は「僕の心は君にある」と必死に弁解します。
男たちの酒宴(身分を超えた火遊び)
宝玉は貴族の友人に誘われ、酒宴に参加します。そこで女形役者の蒋玉菡(しょうぎょくかん=琪官)と意気投合。宝玉は、本来交わってはいけない身分の彼と「下着の帯(汗巾)」を交換し、秘密の友情(と同性愛的な親密さ)を結びます。これが後のトラブルの種となります。
肉体的な誘惑(白い腕)
帰宅後、宝玉は宝釵の腕輪を見せてもらおうとします。彼女の真っ白で豊満な二の腕を見て、宝玉は思わず性的魅力を感じてドキッとしてしまいます。その様子を黛玉に見られ、からかわれて終わります。
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この物語が単なる恋愛小説を超え、中国文学最高峰とされる理由は、以下の「三重構造」を読者に突きつけている点にあります。
1. 「自由な魂」対「家の論理」
「金玉の縁」の正体:
この回で示された「贈り物」の格差は、政治的なメッセージです。没落しつつある賈家にとって、富豪の薛家の娘・宝釵と宝玉が結婚することは、家の存続のための「政略結婚(経済的補強)」を意味します。
貴族の退廃と民衆:
宝玉たちが酒宴で遊ぶ役者や芸妓は、当時の身分制度では「最下層」の民衆です。しかし、宝玉は彼らの中に、腐敗し形式張った貴族社会にはない「真の芸」や「情熱」を見出します。彼が役者に「北静王(皇族クラス)」から貰った帯をあっさりあげてしまうのは、「権威や身分よりも、個人の情愛を優先する」という、当時の封建社会に対する強烈な反逆精神(あるいは無垢な破壊行為)を示しています。
2. 「色即是空」と「もののあわれ」
花を葬る意味:
黛玉の「花葬」は、単なる感傷ではありません。「美しいものは必ず滅びる(諸行無常)」という仏教的・道教的な悟りを、少女の感性で表現した儀式です。「今日は花を葬るが、明日は誰が私を葬るのか」という問いは、栄華を極める大観園(貴族社会)もやがて跡形もなく消え去るという、物語全体の結末を予言しています。
救済の不在:
宝玉は「黛玉が死んだら僕はどうなる、世界はどうなる」と悩み、出家願望(塵界を逃れたい)を抱きます。これは、儒教的な「立身出世」では魂が救われないことを悟り始めている描写です。
3. 「精神の愛」と「肉体の愛」
二人のヒロインの象徴性:
林黛玉(精神・理想): 宝玉とは魂で会話しますが、病弱で、現世的な利益(出世や家事)には無関心です。
薛宝釵(肉体・現実): 健康的で豊満(白い腕の描写)、常識的で、社会に適応しています。
この回で宝玉が、黛玉と心を通わせた直後に、宝釵の肉体に惹かれるシーンは、「理想(精神的充足)」と「現実(肉体的・社会的安定)」の間で引き裂かれる人間の業を描いています。
作者(曹雪芹)が伝えたかったのは、「青春の王国(大観園)というユートピアがいかに美しく、そしていかに脆く、封建社会の現実や時間の流れによって無惨に破壊されていくか」という悲劇です。
読者は、宝玉というプリズムを通して、当時の中国社会の絢爛豪華な「表層」と、その裏にある虚無感や制度の矛盾という「深層」を同時に体験することになります。




