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私説 紅楼夢への夢  作者: 光闇居士


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第二十七回:滴翠亭に楊貴妃は彩蝶と戯れ、埋香冢に趙飛燕は残紅を泣く

挿絵(By みてみん)

花散る汀に佇む君

涙は露と散りて、花の命を映す

はかなき美しさ、いとをしむ心

春の終わりに舞う花よ

少女の愁い、水面に揺れて

幽玄の庭に、ただ哀しみが満つ

墨色に霞む花園に

一人佇み、花を葬る乙女

その歌は、風に乗りて遠くへと響く


【しおの】

林黛玉りんたいぎょくが悲しみに沈み、とめどなく涙を流していると、不意に院の門がひっそりと開く音がした。そこから宝釵ほうさきが出てくるのが見え、宝玉ほうぎょく襲人しゅうじんたちが連れ立って彼女を見送っていた。黛玉は駆け寄り、宝玉に問い詰めたい衝動に駆られたが、人前で彼を詰問して恥をかかせるのは忍びないと思いとどまった。そこで、傍らの陰に身を隠し、宝釵が立ち去るのをじっと待った。宝玉たちが中へ入り、門が閉ざされると、彼女は再び姿を現し、閉ざされた門を見つめ、幾筋もの涙をこぼした。

自らの虚しさを感じながら部屋に戻ると、精根尽き果てた様子で化粧を落とした。

侍女の紫鵑しけん雪雁せつがんは、黛玉の気性をよく知っていた。何もない時でも深くふさぎ込み、眉をひそめ、長いため息をつく。理由も分からず、いつの間にか涙が枯れることもない。以前は、両親や故郷を想ってつらいのだろうと、言葉を尽くして慰める者もいた。しかし、一年、また一年と月日が経つうちに、これが彼女の日常となった。周囲もその様子に見慣れてしまい、あえて触れなくなった。彼女がふさぎ込んでいてもそっとしておき、皆、自分たちの寝支度をして床に就いた。

黛玉は寝台の欄干にもたれ、両手で膝を抱え、目に涙を湛えながら、まるで木彫りか泥人形のように、二更(午後十時頃)過ぎまでじっと座り続け、ようやく眠りについた。

翌朝は四月二十六日。この日の未時(午後二時頃)に「芒種ぼうしゅ」の節気へと移り変わる。

古来の風習では、芒種の日には、さまざまな品を供え、花神(はなの神)を送り出す祭礼を行う。芒種を過ぎれば夏が訪れ、花々は散り、花神はその位を退くため、門出を祝うのである。とりわけ奥方や令嬢たちの間ではこの風習が盛んで、大観園の人々は皆、早起きをしていた。

少女たちは、花びらや柳の枝で輿や馬を編んだり、絹や綾織物で旗や天蓋を折ったりして、それらを彩り豊かな糸で結んだ。園内のどの木、どの枝にもそれらが結びつけられた。園内には刺繍の帯がひるがえり、花枝は華やかに揺れ、着飾った乙女たちの姿は「桃も恥じらい杏も譲る」ほどで、燕や鶯ですら嫉妬し、気後れするほどの美しさであった。その賑わいは、言葉では尽くしようがない。

宝釵、迎春げいしゅん探春たんしゅん惜春せきしゅん李紈りがん王熙鳳おうきほうに、巧姐こうねえ大姐だいねえ香菱こうりょう、そして侍女たちが園内で楽しげに遊んでいたが、黛玉の姿だけが見当たらない。

迎春が言った。「りんの妹さんはどうしたのかしら。あの子も怠け者ね、こんな時間まで寝ているのかしら」

宝釵が言った。「皆さん待っていて。私があの子を冷やかして連れてくるわ」

そう言って皆と別れ、一人で瀟湘館しょうしょうかんへ向かった。歩いていると、文官ぶんかんら十二人の役者の少女たちに出会い、挨拶を交わした。宝釵は振り返って指差し、「あっちに皆がいるわよ、行っておいで。私は林さんを呼んですぐ戻るから」と言い、瀟湘館へと続く曲がりくねった道を進んだ。

ふと顔を上げると、宝玉が中へ入っていくのが見えた。宝釵は立ち止まり、考え込んだ。

「宝玉と黛玉は幼い頃から一緒に育った仲。兄妹のような距離感で、遠慮のない冗談を言い合い、喜びも怒りも激しい。それに黛玉は猜疑心が強く、へそを曲げやすい気性。今ここで私が後を追って入っていけば、宝玉には気まずいし、黛玉にも変な勘ぐりをされる。やめておきましょう、引き返すのが賢明ね」

そう決めて身を翻した。

別の姉妹たちを捜そうとした時、目の前を一対の玉色の蝶が舞っているのが見えた。その大きさは団扇ほどもあり、風に乗って上下に舞い踊る様子は実に趣深い。宝釵は捕まえて遊ぼうと思い、袖から扇を取り出すと、草地へと蝶を追った。

蝶は浮き沈みしながら、花の間を抜け、柳をくぐり、池を越えていこうとする。宝釵は抜き足差し足でそれを追い、池の中の「滴翠亭てきすいてい」までやってきた。いつしか汗ばみ、細い息を切らしている。もう蝶を捕まえる気も失せ、戻ろうとした時、滴翠亭の中からひそひそと話し声が聞こえてきた。

この亭は、四方を回廊と曲がり橋に囲まれ、水上に建てられている。四面の彫刻が施された格子戸には紙が貼られていた。

宝釵は足を止め、中の声に耳を澄ませた。

「この手ぬぐいを見て。本当にあなたが落としたやつだわ。これをお持ち。もし違ったら賈芸かうんさまに返してくるから」

別の声が答えた。「まさしく私のだわ!返してちょうだい」

また声がした。「何でお礼をしてくれるの?ただで見つけてきたわけじゃないのよ」

「お礼はするって約束したじゃない、嘘はつかないわ」

「私が探してあげたんだから私にお礼をするのは当然だけど、拾ったあの方(賈芸)には、何でお礼をするの?」

「変なこと言わないで。あの方は旦那様だもの、拾ったものを返すのは当たり前でしょう。何でお礼なんてしなきゃいけないの」

「お礼もしないで、どうやって私から返事をしろっていうの。それに、あの方は何度も何度も私に念を押したのよ。お礼がないなら渡さないって」

しばらくして答えがあった。「分かったわ、私のこれをあの方に差し上げて。これでお礼にしてちょうだい。……ところで、誰かに話したりしない? 誓いを立てて」

「もし誰かに話したら、体に腫れ物ができて野垂れ死にしてやるわ!」

「まあ! 声が大きかったかしら、外で誰かに聞かれたら大変。いっそこの格子戸を全部開け放してしまいましょう。そうすれば誰かに見られても、ただ世間話をしているように見えるわ。誰かが近づいてきても、こっちから見えるしね」

外でこれを聞いていた宝釵は驚いた。

「昔から男女の密事に関わる連中は、知恵が回るものね。戸を開けられてここで私が見つかったら、彼女たちは顔を潰されたと思うでしょう。今の声は、宝玉の部屋の紅児こうじだわ。あの子は抜け目がなく、一筋縄ではいかない性格。弱みを握られたと思えば、窮鼠きゅうそ猫を噛むような真似をして騒ぎを起こしかねない。今から逃げても間に合わないわね。ここは『金蝉脱殻きんせんだっかく』の計で行くしかないわ」

考えが終わらぬうちに、戸が「ギギッ」と鳴った。宝釵はわざと足音を高く響かせ、笑いながら叫んだ。

「顰児(ひんじ、黛玉のあだ名)、どこに隠れたの! 見つけたわよ!」

そう言いながら、わざと前の方へ駆け出した。亭の中にいた紅玉(小紅)と墜児ついじが窓を押し開けた途端、宝釵のその声を聞き、二人は呆然と立ち尽くした。

宝釵は逆に二人に笑いかけた。

「林さんをどこへ隠したの?」

墜児が答えた。「林さんなんて見ていませんが」

宝釵は言った。「さっき川の向こうで、林さんがここでしゃがんで水遊びをしているのを見たのよ。驚かしてやろうと思って近づいたら、あっちに気付かれて、東の方へ消えてしまったわ。ここに入り込んだんじゃないかと思ったけれど」

そう言いながら、わざわざ中に入って探すふりをし、すぐに立ち去った。口ではこう言い残した。

「きっとあっちの岩山の洞穴にでも隠れたのね。蛇に噛まれても知らないわよ」

歩きながら宝釵は心の中でほくそ笑んだ。これでうまく誤魔化せたけれど、あの二人はどう思っているかしら。

紅玉は宝釵の言葉を真に受けた。宝釵が遠ざかるのを待って、墜児の手を引いて言った。

「大変だわ! 林さんがここにしゃがんでいたなんて。絶対、話を聞かれたわ!」

墜児もしばらく言葉を失っていたが、やがて言った。

「聞かれたからって何よ。誰が困るわけでもないし、自分たちのことをしていればいいじゃない」

紅玉は言った。「宝お嬢様ならまだいいけれど、林さんは口が悪くて人を皮肉るし、気難しいでしょう。もしあの方に知られて、どこかから漏れたら、私たちはどうなるの?」

二人が話していると、文官、香菱、司棋しき侍書じしょたちが亭にやってきた。二人は話を打ち切り、彼女たちと遊び始めた。

ふと見ると、山の上で鳳姐が手を振って呼んでいる。紅玉は皆と別れ、鳳姐のもとへ駆けつけた。

「おば様、何か御用でしょうか」

鳳姐はじろじろと紅玉を眺めた。清潔感があって器量も良く、話し方も気が利いている。鳳姐は笑って言った。

「私の侍女が今日、一緒に入ってこなかったの。今ふと思い出した用事があって、誰かを使わしたいのだけれど。あなた、しっかり伝えられるかしら?」

紅玉は笑った。「おば様、何なりとお申し付けください。もし不手際がありましたら、どんなお咎めも受けます」

「あなたはどのお嬢様の部屋の子? 使いに出すにしても、後で探されては困るから」

「私は宝玉さまの部屋の者です」

「あら! 宝玉のところの子だったの、道理でね。いいわ、聞かれたら私から言っておくから。私の家(鳳姐の住まい)へ行って、へいさんにこう伝えて。外の部屋の机にある汝窯じょようの皿の台の下に銀の包みがあるはずよ。それは百六十両あって、刺繍職人の手間賃だわ。ちょうさんの女房が取りに来たら、目の前で重さを量って見せてから渡しなさい。それと、奥の寝台の枕元にある小さな巾着を持ってきて」

紅玉は承知して駆け出した。戻ってくると、鳳姐はもう山の斜面にはいなかった。岩穴から出てきてスカートの紐を結び直している司棋を見つけ、紅玉は尋ねた。

「司棋さん、鳳姐のおば様はどこへ行かれたかご存知?」

「知らないわ」

紅玉は四方を見回すと、池のほとりで探春と宝釵が魚を見ているのが見えた。紅玉は駆け寄り、愛想よく尋ねた。

「お嬢様方、鳳姐のおば様はどこでしょう」

探春が言った。「李紈おば様のところへ行ったわよ」

紅玉は稲香村とうこうそんへ向かったが、途中で晴雯せいぶん綺霰きせん碧痕へきこん紫綃ししょう麝月じゃげつ、侍書、入画にゅうが鶯児おうじらの一団に出会った。晴雯は紅玉を見るなり言った。

「あなた、遊び歩いてばかりね! 部屋の花に水もやらず、鳥に餌もやらず、茶釜の火も熾さずに、外でほっつき歩いて」

紅玉は答えた。「昨日、宝玉さまが、今日は水やりはいい、一日おきでいいと仰いました。鳥の餌をあげた時、晴雯さんはまだ寝ていらしたわ」

碧痕が言った。「茶釜はどうしたの」

「今日は私の当番じゃありません。お茶があろうとなかろうと、私に聞かないで」

綺霰が言った。「まあ、口の減らないこと! ほっておきなさいよ、遊びに行かせてあげれば」

紅玉は言った。「私が遊んでいるかどうか、よく聞いて。鳳姐のおば様に使いを頼まれているのよ」

そう言って巾着を見せると、皆は黙り、それぞれの道へ別れた。晴雯は冷笑して言った。

「道理でね! 高い枝に登りつめて、私たちのことなんて眼中にないわけだわ。一言二言言葉を交わして、名前を覚えてもらったくらいで、そんなに得意になっちゃって! たかだか一、二度の使いで偉そうに。これからはもっと大変よ。本当に力があるなら、今日にでもこの園を出て、いつまでも高い枝に留まっていればいいじゃない」

そう言い捨てて去った。

紅玉はこれを聞いて言い返したいのをこらえ、鳳姐を捜した。李紈の部屋に行くと、果たして鳳姐はそこで話をしていた。紅玉は報告した。

「平さんの話では、おば様がお出かけになった後、すぐ銀子を収めたそうです。張さんの女房が取りに来たので、目の前で量って渡したとのことです」

そう言って巾着を差し出すと、さらに続けた。

「平さんからの伝言です。先ほどおうさんが指示を仰ぎにきましたが、平さんがおば様のお考え通りに伝えて帰したそうです」

鳳姐は笑って聞いた。「平さんはどういう風に伝えたの?」

「平さんの話では、『うちの奥様(鳳姐)から、こちらの奥様によろしく。うちの旦那(賈璉)が不在で、二日ほど遅れましたが、どうぞご安心を。五番目のおば様(賈瑞の母)の具合が良くなったら、また五番目のおば様を連れてお見舞いに伺います』とのことです。また、『先日、五番目のおば様のところから使いがあり、あちらの叔母様(王熙鳳の兄弟の妻)からの便りがあったそうです。こちらの叔母様にもよろしくとのこと。それから、こちらの叔母様へ、延年神験万全丹を二丸ほど融通してほしいとのことです。もしあれば使いを出してください、こちらでお預かりします。明日、向こうへ行く者がいるので、ついでに届けておきます』とのことでした」

話し終わると、李紈が言った。

「まあまあ、さっぱり分からないわ。『奥様』だの『旦那様』だの、ごちゃごちゃして」

鳳姐は笑った。「義姉さんが分からないのも無理はありません、複雑な親戚同士の話ですから」

そして紅玉に向かって笑った。

「いい子ね、よくこれだけ正確に伝えられたわ。どこかの誰かみたいに、蚊の鳴くような声でもじもじしたりしないで。義姉さん、今の侍女たちは、私の身の回りの子たちを除けば、話をするのも嫌になるんですよ。一言を二つ三つにぶった切って、一文字ずつもったいぶって、鼻にかかった声でふにゃふにゃ言うんです。こっちはイライラして火が出そうなのに。うちの平児も昔はあんな風だったけれど、私が言ったんです。『蚊の鳴くような声で喋るのが美人だと思っているの?』って。何度も叱って、ようやくまともになったんですよ」

李紈は笑った。「みんなあなたみたいに威勢がいいのがいいわね」

鳳姐は言った。「この子はいいわ。さっきの二度の使いでも、言葉は少ないけれど、要領がよくて簡潔だもの」

そして紅玉に言った。

「明日から私に仕えなさい。私の養女にしてあげる。私が仕込んであげれば、すぐに一人前になれるわよ」

紅玉は思わず吹き出した。鳳姐が言った。

「何を笑うの? 私は若いし、あなたと年もそう変わらないから、母親になるのはおかしいって? 夢を見てるんじゃないわよ! 巷じゃあなたより年上の人たちが、こぞって私を『お母様』と呼んで慕っているのよ、私は相手にしてあげないけれど。今日はあなたを引き立ててあげようって言ってるの」

紅玉は笑って答えた。

「いえ、そうじゃありません。おば様が世代を間違えていらっしゃるので。私の母は、おば様の養女なんです。なのに今度は私を養女にするなんて」

「あなたの母親は誰なの?」

李紈が笑って言った。「あら、知らないの? この子は林之孝りんしこうの娘よ」

鳳姐は驚いて声を上げた。

「まあ! 林之孝のところの子だったの」そして笑いながら続けた。「林之孝夫婦といえば、錐で刺しても声一つ出さないような連中。いつも私が言っていたのよ、天につんぼ、地におし、まさにお似合いの夫婦だって。それが、こんなに利口な子を産んでいたなんて! あなた、いくつ?」

「十七です」

「名前は?」

紅玉こうぎょくと申しましたが、宝玉さまの名と重なるので、今は紅児こうじと呼ばれています」

鳳姐は眉をひそめ、振り返って言った。

「嫌なことね。なんでも『玉』を付ければいいと思っているのかしら、あっちも玉、こっちも玉」

そして言った。「私のところへ来たいなら、お母さんに言っておくわ。『最近はらいさんのところが忙しくて、屋敷の中の誰が誰だか分からない。あなたが私に良い侍女を二人選んで頂戴』と頼んだら、引き受けてくれたくせに。自分では選ばず、この子を他のところへやるなんて。私に仕えるのが嫌なわけ?」

李紈は笑って言った。「またそんな邪推をして。この子が先に入って、あなたの話は後のこと。お母さんを責めるのはお門違いよ」

鳳姐は言った。「それなら、明日宝玉に言って、別の人を寄こすからこの子を私にくれと頼みましょう。……ところで、あなた本人は嫌じゃない?」

紅玉は笑った。「嫌だなんて、そんなこと言えません。ただ、おば様のおそばにいれば、世間の立ち回りも学べますし、さまざまな出来事を見聞きして見識を深めることができますから」

そこへ王夫人の侍女が呼びにきたので、鳳姐は李紈に暇を告げて去った。紅玉は怡紅院へと戻った。

さて、林黛玉は夜中に眠れなかったため、翌朝は起きるのが遅くなった。姉妹たちが皆、園内で餞花の会をしていると聞き、怠け者だと思われるのを恐れて、急いで身支度をして外へ出た。

中庭に出ると、宝玉が入ってきて笑いかけた。

「林の妹さん、おはよう。昨日は私のことを(父上に)言いつけたりしなかったよね? 心配で一晩中落ち着かなかったよ」

黛玉は宝玉を無視し、振り返って紫鵑を呼んだ。

「部屋を片付けて、網戸を一枚下ろしておいて。大きな燕が戻ってきたら簾を下ろして、獅子の重しで押さえて。香を焚いたら火鉢に蓋をして」

そう言いながら外へ歩き出した。宝玉は彼女のこの態度を、まだ昨日の昼間の出来事のせいだと思い込んでいた。昨夜の門前の騒動のことなど露ほども知らず、手を合わせてお辞儀をしながら機嫌を取ろうとした。

しかし黛玉は目もくれず、院の門を出て姉妹たちのところへ行ってしまった。宝玉は心中穏やかではなく、怪しんだ。

「この様子じゃ、昨日のこと(昼間のいたずら)のせいではないようだ。でも昨夜は帰りが遅かったし、彼女に会ってもいない。不機嫌にさせるような心当たりはないのだが」

そう考えながら、思わず彼女の後を追った。

あちらでは宝釵と探春が鶴の舞を眺めていた。黛玉がそこを去ると、三人は一緒に立ち話をしていた。宝玉が近づくと、探春が笑って言った。

「宝玉お兄様、お元気? まる三日も会わなかったわね」

「探春妹さんも元気かい? 先日、李紈おば様のところで君のことを聞いたばかりだよ」

探春は言った。「お兄様、こっちへ来て。お話があるの」

宝玉は彼女に従い、宝釵と黛玉から離れて、一本の石榴ざくろの木の下へ行った。探春が尋ねた。

「この数日、お父様に呼ばれたことはなかった?」

「いや、なかったよ」

「昨日、お父様がお呼びだと、かすかに聞いたような気がしたのだけれど」

「それは誰かの聞き間違いだろう、呼ばれてはいないよ」

探春は笑って続けた。

「ここ数ヶ月で、またお小遣いを十両(十吊)ほど貯めたの。それを持って行って、今度お出かけの時に、良い書画とか、洒落た小道具とか、私のために買ってきてくれない?」

宝玉は言った。「街中や大きなお寺を歩き回っているけれど、新しくて精巧なものなんて滅多にないよ。せいぜい、行き場を失った古道具の金玉や銅器、磁器か、あとは絹織物や食べ物ばかりだ」

「そんなものが欲しいんじゃないわ。以前買ってきてくれたような、柳の枝で編んだ小さな籠や、竹の根を彫った香箱、粘土で作った風炉、あんなのがいいの。私はとても気に入っていたのに、皆が欲しがって、宝物みたいに奪い合って持って行ってしまったわ」

「ああ、あんなものが欲しいのか。あれなら大した価値もない。小姓に五百銭も渡せば、車一杯に積んで持ってこさせるよ」

探春は言った。

「小姓たちに何が分かるっていうの。あんな風に、素朴だけれど俗っぽくなく、真っ直ぐだけれど不器用でないもの。そんなものを、たくさん私のために選んできて。そうしたら、また前みたいに靴を縫ってあげるわ。今度はもっと手間をかけて作るから、どうかしら?」

宝玉は笑って言った。

「靴の話で思い出したよ。あれを履いていた時、運悪くお父様に会ってしまったんだ。お父様は不機嫌になって、誰が作ったのかと聞かれた。まさか『三番目の妹です』なんて言えないから、誕生日に伯母様(母の兄の妻)から頂いたものだと答えたよ。お父様は伯母様からの贈り物だと聞くと、それ以上は何も言えなかったけれど、しばらくして仰ったんだ。『何ということを。人手を無駄にし、絹織物を粗末にして、こんな物を作るなど』と。戻って襲人に話したら、襲人は『それならまだいいわ。ちょうおば様(探春の生母)がひどく不満を漏らしているんですもの』と言っていたよ。『実の弟(賈環)の靴や靴下がボロボロでも誰も見向きもしないのに、あんな物を作るなんて!』ってね」

探春はこれを聞くと、たちまち顔を曇らせて言った。

「なんて愚かな話かしら! 私は靴を作る係だとでもいうの? かんには環の決まった支給があるでしょうし、世話をする人もいるはずだわ。着るものは着るもの、靴や靴下は靴や靴下。侍女や女中が部屋中に溢れているのに、なぜそんな不平を言うの! 誰に聞かせるつもりかしら。私はただ暇な時に一つ二つ作るだけで、それをどの兄さんに、どの弟にあげようと、私の自由だわ。誰に文句を言われる筋合いもない。八つ当たりもいいところよ」

宝玉は頷いて笑った。「君は知らないだろうけれど、あの方にはあの方なりの考えがあるんだよ」

探春はますます腹を立て、顔を背けて言った。

「お兄様までそんな馬鹿なことを! あの人の考えなんて、卑しく浅ましい見識に決まっているわ。あの人がどう思おうと、私はお父様とお母様のお二人だけを敬い、他は一切関知しません。兄弟姉妹の間でも、仲の良い人と仲良くするだけ。本妻の子だの妾の子だの、私には関係のないことよ。道理からいえば母のことを悪く言うべきではないけれど、あまりに分別がなさすぎるわ! まだ笑い話があるの。前回、あなたにお金を渡して小道具を買ってきてもらったでしょう。二、三日して彼女に会ったら、お金がなくて困っていると愚痴をこぼされたけれど、私は取り合わなかったわ。後で侍女たちが下がった後で、彼女は不満をぶちまけたんですって。『貯めたお金をなぜあの子(宝玉)のために使うのか、なぜ環に使わないのか』って。それを聞いて、おかしくもあり、腹立たしくもあって、そのままお母様(王夫人)のところへ行ってしまったわ」

二人が話していると、宝釵が遠くから笑って声をかけた。

「お話は終わった? こっちへいらっしゃい。さすが実の兄妹ね、他をほったらかして内緒話なんて。私たちには一言も聞かせられないことかしら!」

探春と宝玉は笑いながら彼女たちの方へ戻った。

宝玉は、黛玉の姿がないので、どこかへ隠れたのだと察した。考え直し、いっそ二、三日置いて、彼女の気が静まってから会いに行こうと決めた。

ふと足元を見ると、鳳仙花や石榴などの色とりどりの落花が、錦のように地面を埋め尽くしている。彼は嘆息した。

「彼女は腹を立てて、この花を片付ける気も起きないのだな。よし、私が運んでいってあげよう。明日にでも彼女に聞いてみよう」

宝釵たちが外へ行こうと誘うと、宝玉は「すぐ行くよ」と答えた。二人が遠ざかるのを待って、彼は落花を裾に集めた。山を登り、水を渡り、木々を抜け、花をくぐって、いつか黛玉と一緒に桃の花を葬った、あの場所へと向かった。

花の塚に差し掛かろうとした時、岩山の向こうからむせび泣く声が聞こえてきた。一言一言、言葉を紡ぎながら、この上なく悲しげに泣いている。宝玉は思った。

「どこの部屋の侍女が、辛い目に遭って、こんな場所まで来て泣いているのだろう」

足を止め、耳を澄ますと、その泣き声はこう歌っていた。

花謝花飛花満天、紅消香断有誰怜?

花は萎れ、花は舞い、天を満たす。紅は失せ、香は絶え、誰が憐れもう。

游糸軟系飄春榭、落絮軽沾扑繍帘。

陽炎は柔らかに春の館に纏わり、柳の綿は軽やかに刺繍の垂れ幕に触れる。

閨中女儿惜春暮、愁緒満懐無釈処。

部屋に閉じこもる乙女は春の暮れを惜しみ、愁いは胸に満ちて晴らす術もない。

手把花鋤出繍閨、忍踏落花来復去。

手に花の鍬を持って部屋を出て、散り敷く花を踏むに忍びず、行ったり来たり。

柳糸楡莢自芳菲、不管桃飄与李飛。

柳の糸や楡の実が勝手に青々と茂っても、桃や李が散り飛ぶのを構いはしない。

桃李明年能再発、明年閨中知有誰?

桃や李は来年もまた咲くだろうが、来年、部屋に誰がいるのかは誰も知らない。

三月香巣已塁成、梁間燕子太無情!

三月、燕は梁に香り高い巣を築くが、梁の燕はあまりに無情。

明年花発雖可啄、却不道人去梁空巣也傾。

来年、花が咲けばまた啄むだろうが、人は去り、梁は空ろに、巣も傾くことを知らない。

一年三百六十日、風刀霜剣厳相逼。

一年三百六十日、風は刀、霜は剣となって厳しく迫る。

明媚鮮妍能幾時、一朝飄泊難尋覓。

美しく鮮やかに咲けるのはいつまでか、ひとたび漂い散れば見つけることも難しい。

花開易見落難尋、階前悶殺葬花人。

咲く花は目につきやすいが、散る花は探し難い。階段の前、花を葬る私は悩み死にしそう。

独倚花鋤涙暗灑、灑上空枝見血痕。

一人、鍬にもたれて涙を零せば、空の枝に降りかかり、血の跡となる。

杜鵑無語正黄昏、荷鋤帰去掩重門。

ホトトギスも黙り、たそがれ時は訪れる。鍬を担いで帰り、重い門を閉ざす。

青灯照壁人初睡、冷雨敲窓被未温。

青い灯が壁を照らし、ようやく眠りについても、冷たい雨が窓を叩き、夜具も温まらない。

怪奴底事倍傷神、半為怜春半悩春。

なぜこれほどまでに心を痛めるのか。半分は春を憐れみ、半分は春を恨むから。

怜春忽至悩忽去、至又無言去不聞。

春がふいに来るのを憐れみ、ふいに去るのを恨む。来る時も言わず、去る時も聞こえない。

昨宵庭外悲歌発、知是花魂与鳥魂?

昨夜、庭の外から聞こえた悲しい歌は、花の魂か、それとも鳥の魂か。

花魂鳥魂総難留、鳥自無言花自羞。

花の魂も鳥の魂も留めることはできない。鳥は語らず、花はただ恥じらって散る。

願奴脅下生双翼、随花飛到天尽頭。

願わくは、私の脇に翼が生え、花に連れ添って天の果てまで飛んでいきたい。

天尽頭、何処有香丘?

天の果てよ、どこに香り高い丘(墓)があるというのか。

未若錦囊収艶骨、一抔浄土掩風流。

いかにも錦の袋にその骸を収め、ひとすくいの浄らかな土で風流を覆ってしまいたい。

質本潔来還潔去、強于汚淖陥渠溝。

清らかな身でこの世に来たのだから、清らかなまま帰りたい。汚れた泥や溝に落ちるよりはまし。

爾今死去儂収葬、未卜儂身何日喪?

今、あなたが死んだので私が葬ってあげるが、私の身がいつ滅びるかは分からない。

儂今葬花人笑痴、他年葬儂知是谁?

私は今、花を葬って人に馬鹿だと言われるが、いつか私を葬ってくれるのは誰かしら。

試看春残花漸落、便是紅顔老死時。

春が終わり花が散っていくのを見れば、それこそが、美しき人が老いさらばえて死ぬ時。

一朝春尽紅顔老、花落人亡両不知!

ひとたび春が尽き、美貌が衰えれば、花が散り、人が死ぬ。どちらも知る者はいない。

宝玉はこれを聞き、我を忘れて呆然と立ち尽くした。

内容の要約

この回は、林黛玉の繊細な心情と、大観園の賑やかな日常、そして世俗的な駆け引きが描かれています。

黛玉は、宝釵が宝玉に挨拶する場面を見て嫉妬と不安に駆られ、一人悲しみに暮れます。彼女の憂鬱な性格は周囲にも理解されつつも、深くは詮索されない日常が続きます。

翌日、「芒種」の祭りが行われ、大観園の少女たちは散りゆく花々を飾り付けて花神を送り出します。皆が楽しむ中、黛玉の姿がないことに気づいた宝釵は、彼女を呼びに行きます。その途中、宝玉が黛玉の部屋に入るのを目撃し、二人の関係を慮って引き返します。


その後、宝釵は蝶を追いかけて「滴翠亭」にたどり着き、そこで宝玉の侍女・紅玉と別の侍女が、ある男性(賈芸)を巡る密談を盗み聞きしてしまいます。宝釵は身の危険を感じ、「金蝉脱殻きんせんだっかく」の計を使い、黛玉を呼ぶふりをしてその場をやり過ごします。紅玉たちは黛玉に密談を聞かれたと誤解し、不安に駆られます。

一方、紅玉は王熙鳳に使いを頼まれ、その要領の良さが鳳姐に気に入られます。鳳姐は紅玉を養女にし、自分の側で働かせようと誘います。これにより、紅玉は宝玉の侍女という立場から、鳳姐の腹心へと昇進するチャンスを得ます。


その頃、遅れて起きてきた黛玉は、宝玉の冗談にも冷たい態度を取り、皆のいる場所へと向かいます。宝玉は黛玉の不機嫌の理由が分からず、彼女の後を追います。

探春と宝玉の会話では、探春が宝玉に「素朴で洒落た小道具」の買い物を依頼し、その返礼に靴を縫ってあげるという姉弟の親密なやり取りが描かれます。しかし、宝玉がその靴を履いたことで父親に叱られ、実母である趙おば様(趙姨娘)が不満を漏らしたことを話すと、探春は激怒します。妾の子である探春は、出自による差別や母親の卑しい言動に嫌悪感を抱き、能力や人徳を重んじる自身の価値観を主張します。


その後、宝玉は散りゆく花びらを集め、かつて黛玉と桃の花を葬った場所へと向かいます。そこで彼は、黛玉が花を葬りながら歌う悲しい「葬花吟」を耳にするのです。黛玉は、散りゆく花と、いずれ老い死んでいく自らの運命を重ね合わせ、深い絶望と孤独を歌い上げていました。宝玉はその歌を聞いて、ただ呆然と立ち尽くすのでした。


この回を通じて、作者は封建社会、特に賈府という貴族社会の多層的な現実を浮き彫りにしています。


時代背景と封建制度:

厳格な身分制度: 紅玉が侍女でありながら、その才覚を見出されて鳳姐に引き立てられる場面は、才能があれば身分を超えて出世する可能性を示唆しつつも、普段は身分による厳格な支配があることを前提としています。

男尊女卑と女性の立場: 探春が妾の子であることに苦悩し、自身の価値を認めさせようとする姿は、当時の女性が置かれた立場、特に正妻と妾の子の間の差別を明確に描いています。また、黛玉の繊細さと社会への適応の難しさも、女性が精神的な自由を得にくい環境を表しています。

家族制度と儒教思想: 探春が「お父様とお母様のお二人だけを敬い、他は一切関知しません」と語る部分は、家父長制と儒教における親孝行の思想を基盤としつつ、その中で個人の尊厳を保とうとする女性の葛藤を示しています。


政治と通俗貴族の営み:

貴族社会の閉鎖性: 大観園という貴族の子女のための空間は、外部の世界から隔離された一種の「理想郷」でありながら、その内部には嫉妬、駆け引き、権力闘争の萌芽が潜んでいます。紅玉と墜児の密談、鳳姐の権力欲、探春の出自への反発など、貴族社会の裏側にある通俗性や人間関係の複雑さが描かれています。

贅沢と退廃: 芒種の祭りの華やかさや、貴族たちの生活の余裕は、その贅沢さを示唆しています。しかし、その根底には、世襲制による権力維持の難しさや、経済的な問題(鳳姐が銀子の管理をしていることからも伺える)も伏線として存在します。

世俗的な駆け引き: 鳳姐の聡明さと人を操る手腕は、貴族社会における政治的な駆け引きの縮図と言えます。彼女は才覚と計算高さで家政を牛耳り、自身の地位を確立しています。紅玉を引き立てるのも、彼女の才能を見抜いた上での「投資」であり、より大きな権力構造の中での駒として利用しようとする意図が見え隠れします。

民衆の営みとの違い:

この回では直接的に民衆の生活は描かれていませんが、貴族たちの贅沢な生活や精神的な葛藤は、彼らとは対照的な民衆の厳しい生活を暗に示唆しています。賈府の運営を担う下級使用人である林之孝の娘・紅玉の存在は、貴族と民衆を繋ぐ唯一の接点であり、彼女の出世欲や才覚は、貴族社会への上昇を夢見る民衆の一部の姿とも捉えられます。


文化的な側面:

「情」の重視: 黛玉の「葬花吟」は、中国文学における「傷春しょうしゅん」(春の終わりを悲しむ感情)の伝統を色濃く反映しています。美しさの儚さ、人生の無常、そして情の深さを詠い上げることで、読者の共感を呼び起こします。これは、当時の知識人や貴族階級に広く共有されていた美意識や世界観です。

典故の多用: 「楊貴妃は彩蝶と戯れ、趙飛燕は残紅を泣く」という回題自体が典故(故事)であり、登場人物の運命や心情を暗示しています。楊貴妃は美貌と寵愛を誇りながらも悲劇的な最期を遂げ、趙飛燕は美しくも儚い存在でした。黛玉の悲劇的な運命を予感させる、深い文化的背景が込められています。

社会における女性の役割と限界: 黛玉の「葬花吟」に見られるような、女性の美しさや才能が世俗の評価や男性の寵愛に左右される悲哀は、当時の女性が精神的な自立や自己実現の機会に乏しかった文化的な背景を示しています。

宗教的な側面:

仏教・道教の影響(無常観): 黛玉の歌には、「紅は失せ、香は絶え、誰が憐れもう?」「花開易見落難尋」「花落人亡両不知!」といった、この世の全てが移ろい、やがては消え去るという無常観が強く表れています。これは仏教思想の影響であり、物質的な豊かさや世俗的な栄華も、いずれは滅びゆくものであるという諦念を含んでいます。

世俗からの超越への願望: 黛玉が「願わくは、私の脇に翼が生え、花に連れ添って天の果てまで飛んでいきたい」と願う部分は、世俗の苦しみやしがらみから解放され、より純粋で精神的な世界へと昇華したいという願望の表れです。これは、道教的な仙境への憧れとも通じるものがあります。


それぞれの深層

紅玉の「玉」と黛玉・宝玉の「玉」の対比:

紅玉はもともと「紅玉」という名でしたが、宝玉の名と重なるため「紅児」と呼ばれています。鳳姐が「嫌なことね。なんでも『玉』を付ければいいと思っているのかしら、あっちも玉、こっちも玉」と皮肉る場面は示唆に富んでいます。

「玉」は、賈宝玉が生まれる際に口に含んでいた霊的な玉であり、彼らの出自と特別な運命を象徴するものです。紅玉の「玉」は、単なる美しい宝石を意味しますが、この対比は、天から与えられた「霊的な玉」(宝玉・黛玉)と、世俗的な「努力で掴み取る玉」(紅玉の才能)という二つの異なる価値観を示しています。紅玉は、自身の才覚によって鳳姐という権力者のもとで出世の道を開き、ある意味で世俗的な成功を収めようとしています。これは、宿命に囚われる黛玉や、世俗を超越しようとする宝玉とは異なる、現実的な「玉」の物語を語っていると言えるでしょう。


「滴翠亭」の密談と「金蝉脱殻」の計の深層:

滴翠亭での密談は、賈府の奥深くにも、若い男女間の秘められた情事や世俗的な駆け引きが存在することを露わにします。ここで密かに交わされる手ぬぐいのやり取りは、単なる恋のさや当てに留まらず、賈府という大きなシステムの中で、それぞれの立場にある者がいかに巧妙に、あるいは無邪気に、自己の欲求を満たそうとしているかを示しています。


宝釵が用いた「金蝉脱殻」の計は、危機を巧みに回避する賢さを示すものですが、同時に彼女の世俗的な知恵と計算高さを浮き彫りにします。彼女は単に危機を避けるだけでなく、黛玉に疑いを向けさせることで、自身の立場を巧妙に守り、あるいは利用しようとしたとも解釈できます。この一連の出来事は、貴族社会の表面的な優雅さの裏に潜む、人間の本能的な欲望と、それを隠蔽・操作するための知略を描き出していると言えるでしょう。宝釵のこの行動は、後の物語における彼女の役割、特に宝玉との関係性において、彼女の「現実主義者」としての側面を強く印象づける伏線ともなっています。


探春の「妾の子」としてのアイデンティティと反骨精神:

探春が実母(趙姨娘)の言動に激怒する場面は、単なる親子喧嘩ではありません。彼女は自身が妾の子であるという出自を恥じ、それゆえに世俗的な欲望や卑しい振る舞いから距離を置こうと努力しています。彼女の「お父様とお母様のお二人だけを敬い、他は一切関知しません」という言葉は、出自による差別を受け入れず、個人の品格と能力によって評価されるべきだという強い自立の意志の表れです。これは、貴族社会の閉鎖的な身分制度に対する、彼女なりの反骨精神と抵抗の表明であり、儒教的な家族制度の中でいかに自己の尊厳を保つかという問いを投げかけています。彼女のこのような性格は、後に賈府の立て直しに尽力する彼女の姿と繋がり、物語全体における重要なテーマの一つとなっています。

この回は、一見すると貴族たちの日常や恋愛が描かれているように見えますが、その根底には、封建社会の構造、人間の本質的な欲望、そして精神的な苦悩が緻密に織り込まれており、それぞれの登場人物が自身の運命といかに向き合うかという、普遍的なテーマが潜んでいます。

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