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私説 紅楼夢への夢  作者: 光闇居士


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第二十五回:魘魔法に姉弟、五鬼に遭い 通霊玉、双真に邂逅す

挿絵(By みてみん)

「狂乱に光」

朱と碧、華やぐ館に

黒き魔、美を狂わす。

嘆き渦巻く闇の底、

通霊の玉、光を放ち、

僧と道士、静かに立つ。

鎮まる心、清き朝を待つ


【しおの】

物語は小紅(紅玉)の胸の内に秘めた恋心から幕を開けます。彼女は心ここにあらず、想い人に焦がれるあまり、いつしかまどろみへと誘われました。夢の中、賈芸かうんに手を引かれそうになり、身を翻して逃れようとした拍子に門檻しきいにつまずいて転んでしまいます。その衝撃に驚き、はっと目を覚ますと、それは夢まぼろし。紅玉は、現実と夢の狭間で一晩中、寝返りを打ち続け、結局、朝まで眠ることができませんでした。

翌朝、夜が明け、紅玉が起き上がると、数人の下女たちが掃除や洗顔の水汲みに誘いに来ます。紅玉は髪もとかず、鏡に向かって無造作に髪を束ね、手を洗うと、腰に汗取りの帯を締め、すぐに屋敷の掃除に取りかかりました。

一方、宝玉は、前日見かけた紅玉のことが頭から離れませんでした。彼女を指名して呼び寄せれば済むことですが、襲人しゅうじんたちが気を悪くするのではないかと案じ、何よりも紅玉がどのような娘かまだ分かりません。もし気立てが良ければ良いのですが、そうではなかった場合、後で追い返すのも厄介だと考えました。

そんな思いから、宝玉も心が晴れず、朝起きても身なりを整えず、ただぼんやりと座っていました。しばらくして窓を下ろし、薄絹の網越しに外を伺うと、数人の下女たちが掃除をしています。皆、紅を差し白粉を塗り、かんざしを挿したり柳の枝を飾ったりして着飾っていますが、昨日見かけたあの娘の姿だけが見当たりません。

宝玉は靴を突っかけ、花を見るふりをして部屋を出ました。あちこちを眺め回していると、ふと西南の回廊の欄干に誰かが寄りかかっているのが見えました。しかし、目の前の海棠かいどうの花が邪魔をしてはっきり見えません。一歩場所をずらして注意深く見ると、やはり昨日のあの娘が物思いにふけっています。声をかけようかと思いましたが、それもはばかられます。そうして迷っているうちに、碧痕へきこんが洗顔の催促に来たため、仕方なく部屋へ戻りました。

さて、物思いにふけっていた紅玉でしたが、襲人が手招きするのを見て、歩み寄りました。襲人はにこやかに言いました。「こちらの噴霧器がまだ片付いていないの。りんお嬢様のところへ行って、向こうのをお借りしてきてちょうだい」紅玉は承知して瀟湘館しょうしょうかんへ向かいました。翠煙橋すいえんきょうに差し掛かり山の方を見上げると、高い場所まで幕が張られています。「ああ、今日は職人たちが木を植えに来ているのだわ」と思い出し、振り返ると、遠くで人々が土を掘っており、賈芸が築山の石に座っているのが見えました。

紅玉はそちらへ行きたいと願いましたが、勇気が出ません。結局、沈んだ気持ちのまま瀟湘館で噴霧器を借りて戻り、精気のない様子で自分の部屋にこもってしまいました。皆は、少し体調が悪いのだろうと思い、特に気にも留めませんでした。

翌日は王子騰おうしとう夫人の誕生祝いの日でした。賈母かぼ王夫人おうふじんも招かれていましたが、王夫人は賈母の体調が優れないのを見て、出席を見合わせました。代わりに薛姨媽せついま鳳姐ほうけい、そして宝釵ほうさいら姉妹たち、宝玉が連れ立って出かけ、夜遅くに戻ってきました。

ちょうどその頃、王夫人は賈環かかんが学業を終えて戻ったのを見て、彼に『金剛呪こんごうしゅ』を書き写して唱えるように命じました。賈環は王夫人の寝台に座り、仰々しく書き写し始めます。やがて、彩雲さいうんにお茶を入れさせたり、玉釧ぎょくせんに蝋燭の芯を切らせたり、金釧きんせんに「影が邪魔だ」と文句をつけたりと、威張り散らしました。

下女たちは日頃から彼を嫌っており、相手にしません。ただ、彩霞さいかだけは彼と気が合い、お茶を運んできました。王夫人が他の人と話している隙に、彩霞はそっと賈環に囁きました。「少しはおとなしくしていなさいな。なぜ、そうやって皆に嫌われるようなことばかりするの」賈環は答えました。「分かっているさ。お前だって宝玉と仲良くして、俺を相手にしないんだろう。見ていれば分かるさ」彩霞は唇を噛み、賈環の額を指で小突いて言いました。「恩知らずね!良かれと思って言っているのに」

二人が話しているところへ、鳳姐が祝いの席から戻り、王夫人に挨拶しました。王夫人が今日の客の顔ぶれや芝居、料理の出来などを尋ね、二言三言かわしていると、宝玉も入ってきました。

宝玉は王夫人に形式的な挨拶を済ませると、すぐに冠を脱ぎ、礼服を脱ぎ捨てて、王夫人の懐に飛び込みました。王夫人は愛おしそうに彼の手足や顔を撫で、宝玉も甘えて話し始めます。王夫人は言いました。「おやおや、またお酒を飲みすぎて顔が火照っているわ。そんなに動き回っては、酔いが回りますよ。そこでおとなしくしていなさい」そう言って枕を持ってこさせました。宝玉は王夫人の背後に横になり、彩霞に背中を叩かせます。宝玉が彩霞に冗談を言いますが、彩霞はそっけなく、目は賈環の方ばかり向いています。

宝玉は彼女の手を引いて笑いました。「良い姉さん、僕の相手もしておくれよ」彩霞は手を振り払い、小声で言いました。「ふざけないで。騒いだら大声を上げますよ」

この様子を見ていた賈環は、日頃から宝玉を恨んでいましたが、彩霞にまでちょっかいを出すのを見て、いよいよ怒りが抑えられなくなりました。公然と立ち向かう勇気はありませんが、隙を突いて宝玉の目を潰してやろうと企みました。そして、わざと手元を狂わせたふりをして、油のたっぷり入った灯籠を宝玉の顔に向かって突き飛ばしたのです。

「熱い!」宝玉の悲鳴に、座にいた人々は飛び上がりました。慌てて灯りを持ってくると、宝玉の頭から顔まで油まみれです。王夫人は驚きと怒りで、宝玉の介抱を命じながら、賈環を激しく叱り飛ばしました。

鳳姐もすぐさま駆け寄り、宝玉の様子を見ながらにこやかに言いました。「三男坊(賈環)は相変わらず慌て者のチキンね。やっぱり大きな舞台には出せないわ。ちょう姨娘も、もう少し厳しくしつけなさいな」この一言に王夫人はハッとして、矛先を趙姨娘に向けました。「こんな道理の分からぬ邪悪な種を育てておいて!これまで何度目をつぶってきたと思っているの。思い上がるのもいい加減になさい!」

趙姨娘は日頃から鳳姐と宝玉を妬ましく思っていましたが、表には出せずにいました。しかし、息子の賈環が不祥事を起こし、散々罵倒されたため、屈辱に耐えながら宝玉の介抱を手伝わねばなりませんでした。

見ると、宝玉の左頬には火傷の火ぶくれができていましたが、幸いにも目は無事でした。王夫人は胸を痛め、明日賈母にどう説明すべきか悩み、再び趙姨娘を責め立てました。その後、宝玉を慰め、解毒と消炎の薬を塗らせました。宝玉は言いました。「少し痛むけれど、たいしたことはありません。明日お祖母様に聞かれたら、自分で不注意でやったと言いますから」鳳姐は微笑みました。「自分でやったと言ったところで、周りの者がなぜ注意していなかったのかと怒られますよ。どのみちお小言は避けられませんから、明日は好きなように仰いなさいな」

王夫人が宝玉を部屋へ送り届けさせると、襲人たちはその怪我を見て慌てふためきました。

林黛玉りんたいぎょくは、宝玉が一日中出かけていたので、話し相手がおらず退屈していました。夜になり、戻ったかどうか二、三度確認させて、ようやく戻ったと思えば火傷をしたと聞きました。黛玉が慌てて見舞いに行くと、宝玉は鏡に向かって薬を塗った顔を覗き込んでいます。

黛玉が心配して「見せてちょうだい」と言うと、宝玉は顔を隠し、手で遮って見せようとしません。彼女が潔癖症で、汚れたものを見るのを嫌うことを知っていたからです。黛玉もその気遣いを知り、微笑んで言いました。「どこを怪我したのか見せて。隠すことなんてないでしょう」そう言って無理やり宝玉の顔を覗き込み、具合を尋ねました。宝玉は「一、二日休めば治るよ」と答え、黛玉はしばらく座っていましたが、沈んだ気持ちのまま自分の部屋へ戻りました。

翌日、宝玉は賈母に会い、自分の不注意だと言い張りましたが、案の定、付き添いの者たちは賈母に叱られました。

その翌日、宝玉の養母(名義上の乾母)である道婆という道教の祈祷師が、挨拶にやってきました。宝玉の顔を見て驚いたふりをし、ため息をつきながら宝玉の顔に指でまじないを書き、何事か唱え始めました。「これで大丈夫。これは一時的な不運ですわ」そして賈母に向かって言いました。「お祖母様、ご存知ですか。経典にもありますが、貴族の御曹司には、生まれつき密かに多くのいたずら鬼(五鬼)が憑いているのです。隙あらばつねったり突き飛ばしたりして、成長を邪魔しようとするのですわ」驚いた賈母は、「何か防ぐ方法はないのか」と尋ねました。馬道婆は答えました。「簡単なことですわ。善行を積むのです。西方には『大光明普照菩薩』という方がおられ、邪悪なものを照らし出してくださいます。この菩薩を供奉くほうすれば、お孫様は健やかに過ごせましょう」賈母がその方法を尋ねると、馬道婆は言いました。「香や蝋燭の他に、一日に数斤の香油を供え、『大海灯』という灯明を昼夜絶やさず点し続けるのです。これが菩薩の化身なのですわ」賈母は「一日にどれほどの油が必要か」と具体的に尋ねました。「それはお志次第ですわ。南安なんあん郡王の家では一日四十八斤もの油を供え、甕のような大きな灯明を点しております。錦田侯の家では二十四斤。一斤や三斤の家もございます。貧しい家でも数両は供えますわ」賈母は考え、馬道婆はさらに付け加えました。「ただ、宝玉様のためにあまり多く供えすぎると、かえって福を損ねるかもしれません。一日に五斤ほどが適当でしょう」賈母は納得し、「それでは一日に五斤として、一ヶ月分をまとめてお支払いしましょう」と約束しました。馬道婆は「ありがたや」と拝み、賈母はさらに「宝玉が外出する際は、僧侶や貧しい者に施すための小銭を常に持たせなさい」と命じました。

馬道婆はその後、各部屋を回って挨拶し、趙姨娘(賈環の母)の部屋へやってきました。趙姨娘は下女にお茶を出させ、寝台で靴を作っていました。馬道婆が靴の材料に端切れをねだると、趙姨娘はため息をつきました。「ご覧なさい、まともな布なんて一つもありませんよ。良いものは私の手元には回ってこないんです。これでも良ければ持っていきなさい」馬道婆は数枚を選んで懐にしまいました。

趙姨娘が「先日、薬王様へのお供えとして送った五百文は届いたかしら」と聞くと、馬道婆は「もう供えておきました」と答えました。趙姨娘は嘆きました。「ああ、お金に余裕があればもっと供えたいのに。思うようになりませんわ」馬道婆は言いました。「ご安心なさい。賈環様が大きくなって出世すれば、大きな功徳も積めましょう」趙姨娘は鼻で笑いました。「とんでもない。今の様子を見なさいな。私たちはこの屋敷の誰よりも軽んじられている。宝玉さえいなければ……あの子はまるで本物の龍のように扱われて、大人は彼ばかりを可愛がる。私はどうしても納得がいきませんわ」そう言って指を二本立てました。馬道婆は察して、「二番目の若奥様(鳳姐)のことですわね」と尋ねました。趙姨娘は慌てて口を塞ぎ、外に人がいないか確認してから囁きました。「恐ろしい、あの女!この屋敷の財産をすべて実家へ運び出してしまうつもりですよ」

馬道婆は彼女の様子を見て、鎌をかけました。「お察ししますわ。あなた様が何もおっしゃらず、なすがままにさせているのは、お優しいからですわね」趙姨娘は憤慨しました。「なすがままにするしかないでしょう。誰があの女に刃向かえるというのです」馬道婆は鼻で笑い、しばらくして言いました。「罪深いことを申しますが、それはあなた様に度胸がないからですわ。表立ってできなければ、影で手を打つ方法もあるというのに」趙姨娘はこれを聞いて内心喜び、尋ねました。「影で手を打つとは?私もそうしたいと思っていましたが、確かな方法を知りませんでした。もし教えてくださるなら、必ず十分なお礼をします」馬道婆はわざと白々しく言いました。「ああ、おそろしい。私にそんな恐ろしいこと、聞かないでください」趙姨娘は食い下がりました。「あなたは困っている人を助けるお方でしょう。私たち母子がいたぶられるのを黙って見ているのですか」馬道婆は微笑んで言いました。「あなた様を助けたいのは山々ですが、お礼と言われても……あなた様に私を動かせるほどの何がありますの?」趙姨娘は相手が折れてきたのを見て言いました。「あなたのようなお利口な方が、何を仰います。もし霊験あらたかな方法で、あの二人を消してくだされば、この屋敷の財産は私のかんのもの。その時になれば、何でも差し上げますわ」馬道婆は俯いて考え、言いました。「事が成就した後、証拠もなしにお礼をいただけるという保証がありませんわ」趙姨娘はすぐに五百両の借用書を作成し、自分の指印を押し、さらに手元にある銀子をいくつか差し出しました。「これは祈祷の費用として先に受け取ってください。残りは後で必ずお支払いします」馬道婆は銀子と借用書をしっかり懐にしまい込むと、腰から紙で切った五つの鬼の形と、二つの紙の人形を取り出し、趙姨娘に教えました。「この人形に二人の生年月日(八字)を書きなさい。そして五つの鬼と一緒に、彼らの寝台の下に隠すのです。私は家で呪術を行います。決して人に見られぬよう、慎重になさい」そこへ王夫人の下女が呼びに来たため、二人は密談を終えて別れました。

その後、火傷のために外出を控えていた宝玉は、林黛玉としばしば一緒に過ごしていました。ある日の昼下がり、黛玉は退屈を紛らわせようと外へ出ました。怡紅院を通りかかると、下女たちが回廊で画眉鳥ガビチョウの水浴びを見ています。部屋の中から笑い声が聞こえたので中へ入ると、李紈りかん、鳳姐、宝釵が集まっていました。

鳳姐が先日届けたお茶の味を尋ねると、宝玉は「あまり良くない」と言い、宝釵は「色は良くないが味は軽い」と評しました。黛玉が「私は美味しいと思ったわ」と言うと、鳳姐は微笑んで言いました。「そんなに気に入ったなら、もっと送りましょう。その代わり、明日、お願いがあるの」黛玉は笑いました。「お聞きなさいな。お茶のお礼に人をこき使おうとしているわ」鳳姐はさらに冗談を重ねました。「うちのお茶を飲んだのだから、うちの嫁に来る気はないの?」皆がどっと笑い、黛玉は顔を赤らめて黙り込んでしまいました。鳳姐はさらに宝玉を指差して言いました。「見てごらんなさい、これほどの美男子で、家柄も財産も申し分ない。誰の不名誉になるというの」

黛玉は怒って席を立とうとしましたが、宝釵が引き止めました。そこへ趙姨娘としゅう姨娘が見舞いに来ました。鳳姐は彼女たちを完全に無視し、黛玉とばかり話しています。やがて王夫人の下女が呼びに来たため、人々は引き上げていきました。宝玉は黛玉に「少し待って、話があるんだ」と呼び止めました。鳳姐は「誰かさんが話があるそうよ」と黛玉を部屋へ押し込み、自分は李紈と去っていきました。

宝玉は黛玉の袖を掴み、ニヤニヤと笑いながら何か言いたそうにしていましたが、言葉が出てきません。黛玉が恥ずかしくて逃げようとしたその時、宝玉が突然叫びました。「痛い!頭が割れる!」そして「死ぬ、死ぬ!」と叫びながら、三、四尺も飛び上がり、狂ったように暴れ始めました。驚いた下女たちが慌てて賈母や王夫人を呼びに行きました。

人々が駆けつけると、宝玉は刃物を振り回し、死ぬと言って暴れ回り、天変地異のような騒ぎになりました。賈母や王夫人は腰を抜かし、声を上げて泣き叫びました。騒ぎを聞きつけて、賈家の一族郎党が園内に集まり、現場はパニック状態に陥りました。そこへさらに鳳姐が鋭い鋼刀を手に、鶏や犬、目に入るものすべてを斬り殺そうと狂ったように乱入してきました。人々はさらに驚き、周瑞の妻たちが総出で鳳姐を取り押さえ、刀を奪って部屋へ担ぎ込みました。平児へいじたちは泣き崩れ、賈政かせいらもどうしてよいか分からず困惑しました。

混乱の中、薛蟠せつばんは母親や妹が押しつぶされないか、愛妾の香菱こうりょうが男たちにいたずらされないかと、一人で大忙しでした。その最中、ふと風に吹かれる黛玉のはかなげな美しさに目を奪われ、魂を抜かれたように立ち尽くしていました。

人々は祈祷師を呼んだり神頼みをしたりと、あらゆる手を尽くしましたが、全く効果がありません。日が暮れ、翌日になっても容体は悪化する一方です。二人は意識を失い、体は火のように熱く、うわ言を繰り返し、誰も近づけません。王夫人の部屋に二人を運び、賈芸たちが交代で見張りをしました。賈母たちはただ見守り、泣き明かすしかありませんでした。

四日目の朝、賈母たちが宝玉を囲んで泣いていると、宝玉が目を開けて言いました。「もうこの家にはいられない。早く支度をして、僕を帰してくれ」この言葉に賈母は心を引き裂かれる思いでした。傍らにいた趙姨娘が囁きました。「お祖母様、もうあの子は助かりません。いっそ死に装束を着せて、楽に旅立たせてあげましょう。無理に引き止めても、あの世で苦しむだけですわ」言い終わらぬうちに、賈母は彼女の顔に唾を吐きかけ、激しく罵りました。「この腐れ舌の女!誰がそんな口を叩けと言った!あんたたちが無理に勉強を押し付けて怖がらせたから、あの子はこんな目に遭ったんだ。あの子が死ぬのを願っているんだろうが、そうはいかないよ!」賈政がその場を収めましたが、人から棺の用意ができたと報告されると、賈母はさらに逆上して荒れ狂いました。

その絶望的な混乱の最中、どこからか木魚の音が微かに響き、読経の声が聞こえてきました。「南無、怨念を解く菩薩なり。災厄に見舞われた家、邪悪な呪いに苦しむ者、我らこれを見事に治めん」賈母と王夫人は藁をも掴む思いで、すぐにその者たちを招き入れました。

入ってきたのは、一人の「はげ頭の僧」と「足の不自由な道士」でした。僧は鼻が高く、目は明星のように輝き、破れた服をまとい、頭にはかさだらけの異様な姿。道士は片足が短く、全身泥まみれですが、どこか浮世離れした風貌でした。

賈政が「符水(ふすい、祈祷の水)はあるか」と尋ねると、道士は微笑みました。「この家に世に稀な宝玉があるというのに、なぜ我らに聞くのです?」賈政が、生まれ持ってきた宝玉が何の役にも立たないと言うと、僧は答えました。「それは今、持ち主が欲に目が眩んでいるため、霊験が失われているのです。その玉をこちらへ出しなさい。我らが持誦じじゅすれば、きっと治りましょう」

賈政が宝玉の首から玉を外して手渡すと、僧はそれを掌に乗せ、長いため息をつきました。「青埂峰せいこうほうで別れてから、はや十三年か。塵世の縁が満ちるのも、指を弾く間のようなものだな。お前のあのかつての自由な境遇が羨ましい」そう言って、こう詠じました。

天にも地にも縛られず、心に喜びも悲しみもなかった。

しかし霊を宿して鍛えられた後、人間界に降りて是非を求め始めた。

さらに今の境遇を嘆いて詠みました。

白粉や脂が宝の光を汚し、夜も昼も女の部屋に閉じ込められている。

深い夢はいつか覚めるもの。因縁を清算し、さらばと去るがよい!

僧がまじないを唱えて玉を撫でると、それを賈政に返して言いました。「この玉は再び霊力を宿しました。決して汚さぬよう、寝室の鴨居に吊るしなさい。二人を同じ部屋に寝かせ、母親と妻以外、穢れた者を近づけてはなりません。三十三日後には、必ず元通りになりましょう」そう言うと、二人は瞬く間に姿を消してしまいました。

二人の指示通りに玉を吊るすと、その晩、宝玉と鳳姐は徐々に意識を取り戻し、空腹を訴えるまでになりました。賈母や王夫人は宝物を手に入れたように喜び、米湯(重湯)を飲ませました。二人の精神は落ち着き、邪気も消え、家中にようやく安堵の色が広がりました。

外で様子を伺っていた黛玉は、宝玉が重湯を飲み意識が戻ったと聞くやいなや、思わず「ありがたや(阿弥陀仏)」と神に感謝しました。すると宝釵が彼女をじっと見つめ、思わず「くすっ」と微笑みました。惜春せきしゅんが「宝お姉様、何を笑っていらっしゃるの?」と聞くと、宝釵は答えました。「如来様もお忙しいものだと思ってね。経を読み衆生を救うだけでなく、宝玉や鳳姐が病気になればその面倒を見、今度は林お嬢様の縁結びまでお世話にならなきゃならないんですもの」

黛玉は顔を真っ赤にして言い返しました。「あなたたちは本当に意地悪ね!鳳姐さんの口の悪さばかり真似して」そう言って、黛玉はぷいとカーテンを撥ね除けて出て行ってしまいました。

簡潔な要約

この回は、賈家の若き当主候補である宝玉と、その親戚で屋敷の実質的な女主人である鳳姐が、突如として原因不明の狂乱に陥るという衝撃的な出来事が描かれています。この狂乱は、賈環の母である趙姨娘が、自らの子を重んじられない不満と、鳳姐や宝玉への嫉妬から、道教の祈祷師である馬道婆に依頼して行った呪詛が原因でした。

屋敷中がパニックに陥り、あらゆる治療法が試されるも効果がない中、突如として現れた謎の僧侶と道士が、宝玉の生まれ持った宝玉(通霊玉)を用いることで、二人を正気に戻します。この奇跡的な出来事を目の当たりにした人々は安堵しますが、同時に玉が持つ神秘的な力と、世の無常さを改めて感じさせられる回となっています。


この回の解読

この第二十五回は、単なる物語の進行以上の、深い社会批評と哲学的なメッセージを含んでいます。

1.時代の閉塞感と貴族社会の頽廃:

当時の清朝社会、特に貴族階級の内部は、外見の華やかさとは裏腹に、嫉妬、権力闘争、迷信といった負の感情が渦巻いていました。趙姨娘が呪詛に走る背景には、嫡子ではない賈環が冷遇され、自身も正妻である王夫人や、才覚ある鳳姐に劣るという、身分制度に起因する深い不満があります。これは、個人がどれだけ努力しても覆せない厳然たる身分格差、そしてそれから生じる人々の鬱屈した感情を象徴しています。貴族たちは富と権力を享受する一方で、精神的には満たされず、表面的な享楽や迷信に溺れていました。

2.宗教と通俗貴族の関わり方:

賈家の人々は、困った時に神仏に頼るという、当時の一般的な信仰形態を示しています。しかし、その信仰は往々にして表面的なものであり、「困ったら祈祷師に大金を払う」「善行はお金を払って済ませる」といった、裕福な階級ならではの、功利的な側面が強く描かれています。馬道婆が賈母に莫大な油代を要求したり、趙姨娘が個人的な怨恨のために呪詛を依頼したりする様子は、宗教が権力者によって都合良く利用され、本来の精神性からかけ離れていく様を示唆しています。本物の僧と道士が現れた時、彼らが「通霊玉」という、宝玉自身が持つ「内なる輝き」を引き出すことを説いたのは、表面的な信仰や外部の力に頼るだけではなく、内面の修養こそが重要であるという、作者からのメッセージと解読できます。

3.民衆と貴族の「営み」の違い:

この回に直接民衆の営みは描かれていませんが、貴族たちの生活ぶりと比較することで、その違いが浮き彫りになります。貴族は、日々の生活のほとんどを下女や召使いに任せ、時間を持て余しています。その余暇は、華やかな宴や、あるいは今回のように嫉妬と陰謀、迷信に費やされがちです。対して、名もなき民衆は、生きていくために日々労働に追われ、このような貴族特有の煩悩とは無縁の、別の苦悩を抱えていたことでしょう。作者は、貴族社会の内側を描くことで、その華やかさの裏にある虚無と、民衆との間に横たわる深い溝を示そうとしていたと考えられます。


内容の深掘りと文化性

1.「通霊玉」の象徴性:

宝玉の首にかけられた通霊玉は、単なるお守りではありません。それは、彼がこの世に生まれ落ちる前に、仙界にいた頃から持っていた「本体」であり、彼の純粋な魂や、俗世に染まらない本質を象徴しています。しかし、物語の冒頭で「何の役にも立たない」と嘆かれるように、人間界の欲望や感情にまみれる中で、その霊験は失われていました。僧と道士が玉を清め、再び霊力を宿らせたのは、宝玉が俗世の誘惑や煩悩から解放され、本来の清らかな精神を取り戻すことの暗示です。これは、人間が生きる上で、表面的なものに囚われず、内なる真の価値を見出すことの重要性を説いていると深読みできます。

2.「五鬼」と「魘魔法」の文化的背景:

馬道婆が語る「五鬼」とは、中国の民間信仰に登場する邪悪な存在です。富を象徴する五路財神の逆の存在として、疫病や不幸をもたらすと信じられていました。また、「魘魔法えんまほう」とは、相手の夢を侵食し、苦痛を与える呪詛の一種です。当時の人々にとって、このような呪術は現実的な脅威として信じられており、作者はそれを用いることで、登場人物たちの心の闇や、閉鎖的な貴族社会に蔓延する不信感をリアルに描いています。現代の読者から見れば迷信ですが、当時の文化的背景を考慮すると、これは「目に見えない悪意や嫉妬が、いかに人を蝕むか」を具象化した表現と捉えることができます。

3.僧と道士の登場が示す「救済」の普遍性:

狂乱の極限に達した時、突如として現れる僧と道士は、まるで神話の世界から舞い降りたかのようです。彼らは特定の宗派に固執せず、仏教的な表現(南無、怨念を解く菩薩)と道教的な表現(道士)を併せ持ち、彼らの言葉は世俗の煩悩を超越した普遍的な真理を説きます。これは、儒教を重んじる当時の中国社会において、仏教と道教が人々の心の拠り所として深く根付いていたことを示しています。また、彼らが賈家の財産や身分に一切関心を示さず、ひたすら「玉」の霊力を回復させることに専念したのは、真の救済は物質的な豊かさではなく、精神的な清浄さにあるという、作者からの強いメッセージであると深掘りできます。

この回は、華やかな『紅楼夢』の世界の裏に潜む人間の業と、それを乗り越えようとする精神性を、巧みに描き出した重要なエピソードと言えるでしょう。

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