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死を越えた花嫁は運命を取り戻す  作者: さくる
スノルピスとスノードロップ
9/59

静寂に沈む 

濃紺をまとう曇り空の下、リシェルは西の離宮の中庭を囲む回廊を今日もまた静かに歩いていた。

天気は崩れる気配を見せながら風ひとつ吹かず、葉も揺れない。その張り詰めた無音の世界は、かえって空気の異変を際立たせていた。耳を澄ませば、遠くで鳥の羽音すら聞こえそうなほどの静けさ。

けれど、リシェルは知っている。

この沈黙が本物でないことを。


「……今日も、見てるわね」


声は、ひとりごとのように小さく響く。けれどその瞳は、微かな変化すら見逃すまいと周囲の空気を鋭く読み取っていた。リシェルはごく自然に耳にかかる髪を払った。その動きに紛れて、視線を斜め後方の植え込みへと滑らせる。

人目につかない廃井戸の影。

何度も歩いた回廊の中で唯一、風の流れが違う一角。そこに誰かがいる……確信にも近い感覚だった。


──三日前、視線が重なる気配を感じた。

──五日目には、毎朝八の刻に決まって気配が生まれると知った。

──昨日は水差しの位置をわざと変えて、反応を探った。


そのどれも、言葉にはならない。けれど重ねられた無言のやり取りは、確実に形を成していた。

そして今朝、リシェルは一つの仕掛けを試した。回廊の石をほんの少しだけずらし、定位置にいる者の足取りに引っかかるよう細工したのだ。

だが──今朝は動きがなかった。


「……気づいたのね。こちらが気づいていることに」


その静けさは沈黙ではなく警戒。観察していた何者かが彼女の視線に気づき、動きを止めた。すなわち、相手もまた観察されることを恐れているということ。

回廊の柱に、リシェルはそっと手を添えた。

ひんやりとした石の感触。

呼吸を整えて視線を廃井戸のほうへ一瞥し、わずかに唇を上げる。

そこにいる誰かの正体はわからない。

けれど、確かにこの離宮には()がある。

ただの幽閉ではないがために、彼女の行動ひとつひとつが何者かに観察されている。それはもはや疑いようのない事実だった。

その時、傍らに控えていたリィナがそっと近づいた。


「お嬢様……寒くはありませんか? 今日は風がどこか冷たい気がして」


その声に、リシェルはふと微笑む。優しい侍女の気遣いに応えるように、柔らかな声で言葉を返した。


「ありがとう、リィナ。でも、寒さよりも、気配のほうが気になるの」


「気配……ですか?」


リィナはきょとんとした顔を見せたが、次第にその表情に不安がにじむ。リシェルが時折回廊の隅に目を向ける理由に、ようやく気づいたのかもしれない。


「しばらく前からずっと、何かが見ている気がしていたの。最初は偶然かと思ったけれど……毎日同じ場所、同じ時間……」


リィナの喉が小さく音を立てた。

けれどリシェルは微笑みを崩さない。

恐れる気配はないが、その瞳だけが深く静かに戦う者の色を帯びていた。


「でも今日からは立場を変えるわ。見られているふりはもう終わり。これからは、私が見る側に立つの」


「お嬢様……まさか、危険なことを……?」


問いかけるリィナの声に、不安が滲む。

だがリシェルはゆるやかに首を振った。


「いいえ。これは戦いじゃない。でもこれは、手を伸ばしていいという合図だと思うの。向こうが気づいたということは、こちらにも選択肢がある」


監視者の正体も、目的も分からない。

それでも、リシェルは感じていた。

見えない相手が、ただの無機質な目ではないことを。彼女の反応と思考を、判断を見極めようとしている……まるで試されているような視線。

ならば応えるのが礼儀だ。

リシェルはそっと歩みを再開した。その足取りは囚われの姫のものではない。静かに、観察者としての一歩を踏み出す者のそれだった。

誰が見ていようともかまわない。

何を仕掛けられようとも恐れはしない。

この手の中で戦況を読み、主導権を奪い返す。

それが、回帰を果たした令嬢としての選択だった。


曇り空の下、檻の中にいるはずの彼女はゆっくりと自らの鎖を解き始めていた。



濃灰色の雲が空を覆う早朝、風はほとんどなく離宮の中庭には重たい静寂が漂っていた。

その静けさの裏で、一人の男が息を潜めていた。ヴィンセは古井戸の陰、苔むした石壁に背を預けていつものように中庭を眺めていた。

だがそのいつもが今朝は違っていた。


(……動かない、だと?)


視界の先ではリシェルが回廊を静かに歩いていた。

慎ましく、品を忘れず、けれど妙に整いすぎた足取り。まるで導線を計算してなぞるかのような、そんな正確さだった。


(いや、これは……誘導か)


胸の内に警鐘が鳴る。

数日前まで、彼女はこちらの視線に気づく素振りすらなかったはずだ。だが、ここ数日ほどで小さな変化がいくつも積み重なっていた。

立ち止まる位置。

微妙に傾いた顔の角度。

そして昨日は定点に置いていた鉢が、ほんの指一本分ずらされていた。偶然ではなく、明らかにこちらの気配を探っている。

そして今朝。

リシェルは何の前触れもなく立ち止まり、こちらの方角を見やった。その頬に浮かぶのは、穏やかだが明らかに意味を含んだ微笑み。


(……やりやがったな)


ヴィンセは静かに目を細めた。

あの笑みは、無知な囚われ人が浮かべるものではない。盤上の一手を放ち、それが相手に届いたと確信した者の笑みだった。


(こっちの手札を……半分くらいは読まれてるか)


彼女の眼差しには、恐れも迷いもなかった。

そこにあったのは「理解」と「意志」。自分を見ているのは誰なのか、なぜ見られているのか、それすらも測った上で次の手を繰ろうとしている。

石壁に背を預けながら、ヴィンセは小さく笑った。


「……やるじゃん、マジで。こりゃあ、面白くなってきたぜ」


今までの観察対象は、すでに観察者へと変わり始めている。

駒ではなく盤を読む者。

囚われた姫ではなく牙を研ぐ獣。


(さて……どう応じるべきか)


懐から取り出したのは、アレクシスへの報告用のメモ。記していた文章を数行引き裂き、書き直す。


《報告更新:カロル侯令嬢、行動に変化あり。警戒度 引き上げを推奨。》

《観察対象、意図的な逆探知を開始。》


墨跡が乾く前に彼はそれを巻き取り、風に紛れて姿を消した。

目の前の令嬢はもはや、籠の鳥ではない。

この局面、次に仕掛けるのはこちらの番だった。




第一王子政務室。

分厚い帳が窓を覆い、昼間だというのに灯りの炎が頼りなく揺れていた。しとしとと静かに降り続ける雨は、まるで王城の空気ごと冷やしているかのように陰鬱な湿り気を運んでくる。

窓を打つ雨音が、書類をめくる音をかき消していた。

その音の中でアレクシスは無言のまま、卓上に置かれた一枚の報告書に目を落とす。

差出人はヴィンセ・マルグリット。

離宮に幽閉されたリシェルに関する最新の報告だった。


《報告更新:カロル侯令嬢、行動に変化あり。警戒度 引き上げを推奨。》

《観察対象、意図的な“逆探知”を開始。》


タンザナイトの瞳が、無表情のまま数度だけ行をなぞる。アレクシスは何も言わず、ただ数度瞬きをしてから視線を宙に外す。


「……予想より少し早いな」


囁くようなその声には、驚きも困惑もなかった。むしろ微かに愉悦の色すら滲んでいた。ぴたりと止まっていた万年筆を置き、アレクシスは静かに椅子を離れる。窓辺へ歩み寄ると、帳の隙間からわずかに外の景色が見えた。雨に煙る中庭の先、石畳の輪郭がぼやけ、木々が細く揺れている。その景色に視線を重ねながら、彼は記憶を辿った。


リシェル・フォン・カロル。

表向きには心労による静養という名目で、離宮に移された。だが、実際には王宮から距離を取らせることで周囲の目を遮断し、彼女が何者かを見極めるための隔離だったのだろう。

その彼女が動いた。


(いや……正しくは、仕掛けた)


観られていることを悟り、その意図を計ろうとする逆探知。試すような視線を向けられているのは、自分のほうだと彼は薄々気づいていた。

本棚の奥から一冊のファイルを引き抜く。

リシェルの記録だ。過去の言動、使用人、服薬歴、交友関係……その中に、何か決定的な変化の痕跡があるはずだ。


「やはり、変わったのはあの時からか」


あの時(・・・)──アレクシスがそう呼ぶのは、突然彼女が謁見を求めてきたあの日のこと。

言葉の選び方。

視線の強さ。

沈黙の使い方。

それは偶然や成長では説明できない変化をはらんでいた。


(何かを知ったのか?)


そう問いかけながらも、彼は答えを急がない。

アレクシス・レオナールという男は拙速を嫌う。手を出すのではなく、観察し、分析して勝機が満ちるまで動かない。

だから今、必要なのは応答ではなく布石だ。

思考の糸が張りつめていく。

それは冷徹な戦略家の顔でもあり、どこか愉しげな観察者の目でもあった。


「……ラウルを呼べ」


控えていた文官が短く返事をし、扉の向こうへと姿を消す。残されたアレクシスは再び窓に目を向けた。

雨脚は少しだけ強まっていた。

沈黙を支える静寂。

言葉の裏にある真意を研ぎ澄ませる音。


リシェル・フォン・カロル。

かつては従順で目立たぬ、典型的な貴族令嬢だったはずの女。

だが今や──。


「観察者……か、ならばこちらもそれに相応しい目を向けるまで」


冷たい声。

だがその底には微かに熱を孕んだものがある。

それは警戒か、期待か、あるいは別の何かか。

帳の向こう雨の彼方。物語の盤上は音もなく、だが確実に駒が動き始めていた。


そしてアレクシスはその盤面の鍵を握る者として、静かに眼差しを研ぎ澄ませる。

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