薔薇の香りと夜の帳
静寂──。
まるで、時間さえ歩みを止めたかのような午後だった。淡い陽光が白のレース越しに差し込み、天蓋付きの寝台と白磁の壁をやわらかく照らす。けれどその光は、不思議とあたたかさを感じさせなかった。むしろ、背筋を撫でるようなひややかさが部屋を満たしている。
ここは西の離宮。
王宮のはずれにひっそりと建てられた小さな館で、かつて王家の血を引きながら政治の表舞台を退いた者、あるいは寵愛を失った者たちが余生を過ごす、事実上の終の住処。
そして今、その扉の内にいるのがリシェルだった。
王命により、静養を名目としてここに移されたのだ。
彼女は寝台に身を預けながら、そっと目を閉じた。
脳裏に浮かぶのは、ほんの数日前。
事務補佐の仕事を終え、アレクシスの執務室から退いた直後のことだった。陽が傾き始めた宮廷の廊下。冷たい石床を音もなく歩いていた彼女に、突然声がかかった。
「カロル侯爵令嬢。お時間を少しいただけますか?」
振り返れば、そこにいたのは王宮医師のバストン卿だった。年配で温厚そうな面立ちだが、その眼差しには冷たい光が宿っていた。
「殿下の事務にあたられていると伺いましたが、近頃少しお疲れのご様子だと耳にしました。短い時間で結構です。心身の健やかさは、王命に仕える上でも重要なことゆえ、簡単な問診だけでも……」
その言葉はどこまでも穏やかで、強制するものではなかった。だが断れば、不調を認めたとも取られかねない空気があった。
リシェルはほんの一瞬だけ迷い、そして頷いた。
その先で待っていたのは仕組まれた診断。簡単な問答ののち、バストン卿は確信めいた声で言い放った。
「ご令嬢は、明らかに精神の均衡を崩しておられます……。近頃の言動、表情の揺れ……。すでに軽度の異常を示していると判断できます」
診断室の壁の時計が乾いた音を刻む中、リシェルは静かに唇を閉ざしていた。何を言っても無意味だと悟っていたからだ。
そして翌日。
「慈悲深い王女」を演じるエリセが、病床の国王にこう進言したと噂が広まった。
『リシェル様は、かつてとはまるで別人のようだと耳にしましたの。ご令嬢としての覚醒なら結構なことですが、近頃の言動には目を見張るものがあります。もしバストン先生の診断が正しければ……いえ、だからこそ今静かなお時間を与えるべきかと……』
その語り口は憂いを宿した優しさに満ちていたと、侍女の一人が語っていた。純白のハンカチを胸元に抱き、声を震わせる様子に誰も疑念を抱く者はいなかった。
こうして王命が下された。
──「リシェル・フォン・カロルは心の静養のため、西の離宮にて当面の療養とするように」──
王の言葉は絶対である。
それが、たとえどれほど不自然な判断であっても。
「……お父様は、娘を護る力を封じられたのね」
寝台の上で、リシェルはぽつりと呟いた。
あのときの父の顔が脳裏に蘇る。
「大変、腹ただしい……だが王命とあらば従うほかあるまい」
彼はそう言い、拳を震わせていた。あれほど感情を表に出すことのない父の姿、あの瞬間をリシェルは生涯忘れないだろう。父は娘を奪われた……エリセの美しい仮面と、王命という鎖によって。
静かに目を開ける。
陽はすでに傾き、部屋の隅の影が長く伸びていた。窓際の花瓶に差された白い花がひとつ、うつむくように揺れている。
そのときだった。
扉の向こうから足音が響いた。
軽やかで馴染んだ気配。
「お嬢様……リィナでございます。お水をお持ちしました」
その声に、リシェルの胸の奥がふっとほぐれる。
離宮への移送が決まったとき、カロル家から帯同を許されたのはたった一人の侍女だけだった。
慣れない顔ぶれ、よそよそしい気配。
笑顔の下に潜む監視の目。
そんな誰が敵で誰が味方かも分からぬ環境でただ一人、傍に残ってくれた存在。
「ありがとう、リィナ。あなたがいてくれて、本当に良かったわ」
言葉にするのは初めてだった。
リィナは少し目を丸くしたあと、嬉しそうに頷いた。
「私のほうこそ……お嬢様のおそばにいられて、幸せです」
小さな笑みが、部屋にそっと灯る。
ここは、王宮という名の監獄。
だが、完全な孤独ではない。
わずかでも信じられる者がいる限り、心は折れない。
それが、再び生を得たリシェルの揺るがぬ誓いだった。
◆
その日、アレクシスは政務室で一人静かに書類へと目を落としていた。整えられた机の上には、王国のあらゆる事象を集めた紙束が山と積まれている。外交書簡、予算案、各地方からの治安報告、それらはどれも事務的で型通りの言葉に終始していた。
だがアレクシスの視線は、それらとは異なる一枚の報告書にとどまっていた。
西の離宮、静養中のリシェルに関する経過報告。
「……些細な異常の積み重ね、か」
低く呟く声が、静かな部屋に吸い込まれていく。
報告書には、外見上は何の問題もないと記されていた。侍女たちの勤務状況、離宮内の出入り記録……整った文面の裏に、アレクシスは意図的な沈黙を読み取っていた。
報せによれば、リシェルのもとには最低限の侍女が配置され、従者は付けられていない。その侍女たちも、必要以上の会話や接触を避け、ただ黙々と与えられた仕事をこなしている。まるでリシェルがいないかのように、形式だけの対応がなされている。
「孤立させ、観察し……試しているのか」
アレクシスは手の中の紙を静かに伏せ、ゆっくりと背もたれへ寄りかかった。その手前で音もなくティーカップが置かれる。ラウルがいつものようにすっと一歩下がる。
「ご判断を?」
老練な声音が、静かに尋ねる。
「……まだ、動く時ではない」
アレクシスは即答した。
その声にはわずかの揺れもなく、冷静な思考だけがあった。だが、ラウルは一歩も引かない。長年仕えてきた彼には、彼の心にわずかでも生まれた迷いの兆しを見逃すことはない。
「もし、あの令嬢が本当に危機にあるとしたら?」
「彼女は耐えるだろう」
短くそう言い切ったアレクシスの横顔は、硬く閉ざされたまま、感情を封じ込めた表情の下にどこか微かな影が差している。
彼は知っている。
リシェル・フォン・カロルという令嬢が、ただの貴族の娘ではないことを。その眼には、何かを知る者だけが持つ強さがことを。だからこそ彼女は、敵の掌にあっても沈まず、壊れずに立ち続けるだろうと信じていた。
「これは、むしろ好機だ」
アレクシスは小さく呟く。
「彼女が、この状況でどれほどの策を講じるのか……それを見極めることが王国の未来を知る鍵になる」
だがそれは、政としての理屈だ。
彼の胸の奥には、それとは別の感情が密かに芽生えていた。
(……もし、彼女が壊れてしまったなら)
その時、自分はどうするのか。政治的な利害や未来への選択を超えた、ただ一人の人間として、自分は彼女に何を望むのか。その問いに、アレクシスはまだ答えを持っていなかった。
「ヴィンセを離宮周辺に回せ。監視ではない。何か異変があれば即座に報せろ。気づかれぬようにな」
「……彼女を見守れ、ということですか?」
ラウルの問いに、アレクシスは否とも肯とも言わなかった。ただわずかに視線を上げ、政務室の窓の外へと目を向ける。
春の陽は、柔らかく中庭を照らしていた。けれどその穏やかな風景の中に彼の瞳は決して緩まない。静かに、しかし確かな意志を込めて彼は胸中で言葉を繋ぐ。
彼女はまだ壊れてなどいない。
ならば──。
(生きて証明してみせろ。リシェル・フォン・カロル)
王国の氷の王子は、静かに檻の鍵を手の中に収めながらただ時を待っていた。その眼差しの奥には王国の行く末と、ただ一人の令嬢の未来、その両方を見据える冷ややかな光が確かに宿っていた。
◆
かつて王妃たちの余生を静かに包み込んだその小宮殿は、今や静養という名を借りた幽閉の地となっていた。政から遠ざけられた者、表舞台から外された者がただ息を潜めて朽ちていく静寂の檻。
だがその静けさの中に、ひとつだけ異質な影があった。
離宮の裏手にある古びた管理小屋、屋根の上に男の姿があった。苔むした瓦の上に、まるで猫のように気ままな姿勢で腰を下ろし遠くを眺めている。
明るい赤茶の癖毛を無造作に後ろで束ね、陽に透ける琥珀の瞳を細めて彼は息をついた。
「……なるほどねぇ。こりゃまた、想像以上に静かだ」
ヴィンセは第一王子アレクシス直属の諜報員にして、影の任務を担う「情影の番犬」。彼がこの離宮に入り込んでから、すでに数日が経っていた。
足音を殺し、気配を断ち、人々の意識の隙間に潜む技術にかけては王都でも右に出る者はいない。この離宮の空気もまた、彼の観察に値するほど異様に整いすぎていた。
庭に響くのは風と鳥の声だけ。
使用人たちは必要最低限の足音で動き、顔を合わせても言葉を交わすことすらない。彼らの視線は常に曇り、目的地だけを見て通り過ぎていく。
(気配のない人間ほど、不気味なものはないね)
ヴィンセは頬杖をついたまま、視線を前方に移した。
石畳の中庭。午後の光に照らされるその中央を、ゆっくりと歩く一組の主従がいる。藤色の髪を持つ令嬢と、その傍らに従う侍女。二人の姿はまるで絵画のように静かで、けれどどこかその背中には緊張の糸が張りつめていた。
「……リシェル嬢、ね」
ヴィンセがアレクシスから下された命は、ただ一つ。
──『彼女を見てこい。危機があれば、即座に報せろ』──
(護衛じゃなくて観察……あの人らしいね、まったく)
苦笑まじりに呟いたものの、任務に関してヴィンセは常に本気だった。たとえ対象が王子のお気に入りであっても、甘い目は向けない。
(建物の配置、一部いじられてるな。監視に最適な動線……あの侍女、何者? 動きに癖がある。表の侍女じゃない)
彼の脳内にはすでに、離宮全体の空間配置と人の流れが詳細に描き出されていた。
三日もあれば十分だ。
全ての部屋の死角と侍女たちの足取りのリズム、庭の掃除が行われる時間帯まで把握している。だからこそ、そこを歩く令嬢の違和にすぐに気づいた。
リシェルがちらりと柱の影を見た。
偶然ではなく、明らかにこちらの存在を把握している。
(あーあ、やっぱバレてたか)
ヴィンセは小さく肩をすくめて笑った。
「こっちは気配を消したつもりだったんだけどね、お嬢さん」
藤色の髪を揺らしながら歩くその姿は、静かで穏やか。けれどその歩みの一歩一歩が、内に鋼を抱えているのが分かる。この数日で何を見て、何を選び、何を捨てたのか……その沈黙の背中が語っている。
(囚われの姫君ね。はっ、冗談じゃない)
あれは、ただ閉じ込められているだけの令嬢ではない。檻の中で牙を研ぎ、静かに反撃の機を窺う獣。どこまで気づき、耐え、どこまで戦うつもりなのか。
(下手に手を出したら噛まれるな。ま、そういうの嫌いじゃないけど)
ふと、リシェルが足を止めた。
振り返ることはない。
だがその首筋の緊張と微かに揺れたまつげが、彼女がすでにこの影にいる誰かを意識している証だった。ヴィンセはその様子を見届けると軽やかに身を起こし、ひとつ伸びをする。
風が花の香りを運んでいく。
「さて……氷の王子にご報告だ」
彼はぽつりと呟いた。
「あのお嬢さん、きっととっくに檻の鍵を作りはじめてる。いや、鍵どころか檻ごと切り崩す勢いかもね」
そう言って、ヴィンセは一度だけリシェルの背中に視線を送り、次の瞬間には風のように姿を消した。誰にも気づかれぬまま、影の中へと沈み込んでいく。
その歩みの先にあるのは、冷たい王子が待つ執務室。
そして今、静かに転がり出した盤上の一手。
それが誰の意志によるものなのか、王宮はまだ気づいていなかった。




