仮面と四者の交錯
帰路の途中、リシェルはふと、足を止めた。
石畳の小径を抜けた先に広がる王宮内の中庭。午後の陽が淡く差し込むこの場所は、政務の喧騒から少し離れた、わずかに素顔を許される静かな空間だ。
そこにいたのは、三人の男女。貴族らしい立ち居振る舞いと、それぞれに纏う空気の違いがすぐに彼らの素性を物語っていた。最初にリシェルへと気づいたのは、金糸のような巻き髪を揺らす若い令嬢だった。
「まあ……お帰りのところかしら? カロル侯爵令嬢。ようやく、お会いできますのね」
リディア・フェルナンド。
古い名門であるフェルナンド公爵家の一人娘であり、王宮内でも「理想の貴族令嬢」として名高い存在。その口調は親しげだったが、リシェルの耳にはどこか遅れて登場した者へのさりげない序列づけが感じ取れた。
「ご挨拶が遅れて申し訳ありません。リディア様こそ、まるで花の女神のようなお召し物。お目にかかれて光栄ですわ」
リシェルは一歩も引かず微笑みを返した。
社交の場で仮面を外すことは許されない。
王侯貴族の娘であれば尚更、それは生きるための術となる。
リディアの瞳がわずかに細まった。たった今、自分が優位に立とうとして返された言葉に、微かに焦りを感じたのだろう。
「リシェル嬢」
続いて声をかけてきたのは、柔らかな金髪をたなびかせ、軽やかな所作と品を併せ持つタンザナイトの瞳を宿した青年。
「再びお会いできてうれしい。カロル侯の娘たる才色兼備、噂以上だよ」
ユリウス・レオナール。
現国王の次子にして、第二王子。
表の政治からはやや距離を置く立ち位置ながら、宮廷内では独自の人望と影響力を持つ人物だ。
彼の視線には、仄かな親しみが宿っていた。だがそれは軽薄な好意ではなく、まるで「愛されたい」と願う、内奥からの静かな訴えにも似ていた。
「もったいないお言葉です、殿下。恐れながら、私にご用件でも?」
「……実は、君の見識を少し借りたいと思っていたんだ」
言葉をかけながら、ユリウスの目がほんの少しだけ揺れた。何かを言いかけて言葉を選び直したように。
そのときもう一人の男が静かに一歩、前へと出た。
長身で物腰は静か。
けれどその背筋には、騎士としての緊張感が宿っている。
「セドリック・アルヴァン……殿下の護衛騎士ですの。公爵家の次男で、私と殿下の幼馴染でもありますわ」
リディアが軽く紹介する。
その声音にはどこか自然さを装いながらも、「自分は彼等と近しい」という印象を残そうとする意図が隠されていた。
「セドリック・アルヴァンと申します。お目にかかれて光栄です、リシェル嬢」
その声音は礼儀正しく表情も穏やか。
けれど彼の視線は、心の奥を探ろうとする観察者のものだとリシェルは感じていた。
まるで何があるのかを試しているように。
「こちらこそ、護衛騎士様とお話しする機会など滅多にございませんので……光栄ですわ」
瞬間、沈黙が四人を包む。
仮面の微笑の裏で、誰もが誰かを測っていた。
──この王宮において笑顔は刃。
その切っ先がどこに向くかは、まだ誰にも分からない。
「……さて、カロル侯爵のご令嬢。貴女は兄上の特別な命で宮廷に招かれたと聞いているよ」
静かにユリウスが切り込んだ。
リシェルは首を傾げるようにして微笑む。
「そのように伺っておりますが、私自身はまだ何も詳しいことは聞かされておりませんの」
「本当に?」
セドリックの問いかけは抑えた声でありながら鋭く、まるでその一言で仮面の裏を引きはがそうとしているかのようだった。リシェルは一瞬だけ目を伏せ、落ち着いた声で応じた。
「政にお詳しい方ならお分かりかと。知らないことが時に、最も強い盾になるときもございますのよ」
静寂が中庭に落ちる。
それを破ったのは、リディアの明るすぎる声だった。
「まあまあ。そんな固いお話より……このあいだの春の茶会、とても素敵でしたわね。リシェル様のお姿もとても印象的でしたわ」
その微笑には、やわらかいながらも一種の探りが含まれていた。「あれほど見事に振る舞える方が、なぜ他の場に顔を出さないのかしら?」とでも言うように。
リディアの言葉は讃辞に見せかけた社交界の慣例であり、警告でもあった。
「ありがとうございます。けれど私は幼少の頃より、王家主催以外の社交には出る機会がございませんでしたの。このように皆様とお会いできることが新鮮で、光栄に思っております」
それは事実であり仮面でもあった。
リシェルの笑みはごく自然なものだったが、言葉の端には自分のペースで動くという強い意思が滲んでいた。
リディアの眼差しが、ごくわずかに鋭くなる。
社交界での未出席は、時に『逃げ』や『格下』とも受け取られる。だがリシェルは、そうした解釈を拒否する言葉をたった一言で切り返した。仮面の微笑みが交差し、刃はまだ抜かれぬまま静かに研がれ続ける。
この場にいた四人のうち誰が本音を語っていたのか……その答えは、まだ誰にも分からない。
だがリシェルだけは確信していた。
この均衡が崩れるときこそが本当の試練の始まりなのだと。
◆
午後の陽が傾き始める宮廷の中庭。
淡く光をたたえた緑の風が、植え込みの葉を優しく揺らしていた。けれどその柔らかさとは裏腹に、そこに流れる空気には、確かな緊張があった。
リシェルの背後から、少し距離をあけて影のようにその姿を追うのは侍女ネーヴァ。言葉少なく、表情もないその顔に気づく者はほとんどいない。
けれど彼女はただの侍女ではない。
その存在は、カロル侯爵家によって与えられた影の護衛。主が気づかぬところで静かに盾となり、刃となるためにおかれていた。
今、その鋭敏な視線が向けられていたのは、リシェルを取り囲む三人の男女。何気ない会話に見えるやりとりの中に隠された刃の存在を、ネーヴァの目は見逃さない。
まず目を引いたのは、リディア・フェルナンド。
金糸を巻いたような髪を揺らし、誰に対しても完璧な笑みを浮かべる公爵令嬢。柔らかな物腰と華やかな装い、それは確かに理想の貴族令嬢そのものだった。
けれどネーヴァにはわかる。
あの微笑みには境界がない。誰にでも同じように向けられる笑顔は、本心を隠す仮面でしかない。そして彼女の目は笑っておらず、言葉の端々に紛れ込んだ序列意識。まるでリシェルを、新参者として軽くあしらおうとするような抑えた圧力。
それに対しリシェルは、一歩も引かず穏やかに返す。
そのやり取りを、ネーヴァは無言のまま冷静に見つめていた。
続いて視線を移したのは、ユリウス・レオナール。
現国王の次子にして第二王子。
公式の場に姿を見せることは少なく、表の政務からはやや距離を置いていると言われているが、その目は人を測っていた。仄かな親しみをにじませながらも、あの王子の声には意図がある。とりわけ「兄上の特別な命で招かれたのだろう?」という問いかけには、会話の流れを逸らすための軽口ではなく、明確な探りの手が混じっていた。
そして最後にネーヴァの視線が留まったのは、セドリック・アルヴァン。
リシェルと軽く言葉を交わしただけで、それ以上は多くを語らなかった青年。
だからこそ不気味で危うい。
控えめな所作に隠された異質な鋭さ。あの男の目には、礼節の奥に観察の色があった。言葉を抑えることで相手の反応を引き出そうとするのは、尋問官や情報士官に見られる特性。ただの近衛騎士とは到底思えない。
(……彼は目だ)
ネーヴァは静かに判断する。
セドリックはユリウスの護衛であると同時に、その目として働いている。リシェルの返答に感情の揺れがあるか、仮面の奥にほころびがないか。
彼の視線は常にそこを探っていた。
そんな中でも、リシェルの背中を見ると胸の奥に確かな感覚が芽生える。
かつてのリシェルは、守られるべき箱入りだった。
だが今は違う。
ひとつひとつの言葉を選び、礼を守りながらも自分の意志で場を制している。その姿にネーヴァは微かに誇らしさを覚えた。
(……お嬢様はもう、守られるだけではない)
だからと言って、自分の役割が変わるわけではない。
むしろ、より研ぎ澄まされなければならない。リシェルが自ら立つことを選んだ今、敵はそれに気づき牙を剥く。
リディアの背後に控える侍女が一人。
控えめに見えるその仕草の中に、わずかな違和感。
口を開かず、しかし耳は研ぎ澄まされている。
こうした物言わぬ耳こそが、王宮では最も厄介だ。
この宮廷には、沈黙こそが最大の武器になる者たちが潜んでいる。
敵か味方かは関係ない。
それが王宮という場所であり、戦場なのだ。
ネーヴァは静かに一歩、影へと下がる。会話はまだ続いているが、彼女の仕事はすでに始まっている。
観察し、見抜き、備える。
(どこまでも、ついていく)
それは命令でも義務でもない。
ただ、この人を守りたいと思った。その気持ちだけが彼女を動かしていた。
風が一筋、回廊を渡る。
光が伸び影がそれに続く。
リシェルの歩む先にいつか訪れる嵐を予感しながら、ネーヴァはまた一つ、沈黙の奥に身を沈めた。
◆
陽光がやわらかく降り注ぐ午後、王宮の東の離宮はひときわ静寂に包まれていた。中庭に面した広間には、雪を思わせる純白のカーテンが風にふわりと揺れ、淡く光を受けて透き通る。
黒薔薇を模した香炉から立ちのぼる香りが、空間全体に漂っていた。凛と気高い香りはまるで、この離宮の主を象徴するかのような気配だった。
エリセ・フェルデリアは、飾りのない椅子に静かに腰掛けていた。白磁のような肌に、銀糸のごとき髪。王太子妃候補にふさわしい気品を宿したその姿は、見る者すべてを魅了する。しかしその美貌とは裏腹に、窓の外を見つめる視線は凍てつくように冷ややかだった。
「……殿下のご機嫌はいかがだったかしら?」
エリセが問いかけたのは、彼女の傍らに控える専属侍女クラリッサ・ヴェール。フェルデリア王国からの忠実なる随行者であり、かつてはエリセの母にも仕えた、無言の影のような存在だ。
「アレクシス殿下は、リシェル嬢に礼を尽くす姿勢を見せておられました。ごく形式的な範囲において、ですが」
淡々と告げる声には、感情の起伏は一切なかった。だがその一言に、エリセの指先が机の縁をわずかに叩いた。
「形式ね……。私には義務だけを与えておきながら」
吐き捨てるような声音。
その口元には、皮肉にも似た笑みと凍るような微笑みと慈愛の仮面を剥いだ王女の素顔をうかべていた。
その時、重厚な扉が音もなく開き文官服に身を包んだ青年が姿を現した。
ノエル・サリヴァン。
レオナール王国の文官でありながら、エリセ個人に仕える政治顧問にして信奉者でもある。
「殿下は、あなたの価値に気づいておられない……その愚かさが、かえって好都合では?」
彼の声音は静かで穏やかだったが、その眼差しには狂信にも似た光が宿っていた。ノエルにとってエリセは、ただの王子の婚約者ではない。理想の秩序そのものであり、統べる者としての正しき象徴だった。
「リシェル嬢の浮上は一時的です。持ち上げているのは周囲であり、いずれ足元の砂は崩れ落ちます」
エリセは冷ややかに目を細めると、手元の香水瓶の蓋をそっと開けた。芳しい雪の香りが、離宮の空気を再び満たす。それは彼女にとって己を形作る象徴であり、同時に呪縛でもあった。
「……あの子は、私の真似をしているだけよ。言葉遣いも、微笑の角度も、いったい誰に教わったのかしら」
それは哀れみではなく、断罪に近い響きを含んでいた。
「けれど、仮面だけではこの宮廷を渡りきることはできないの。美しさや優雅さだけでは誰も従わない。従わせるもの……それは力と意志よ」
彼女の言葉は、誰にでも向けられたものではない。だがこの場にいる者たちは、それがリシェルに向けられた宣戦布告であることを、誰よりも理解していた。
「ところで、フェルナンド家の令嬢は?」
ふと視線を戻し、クラリッサに問いを投げる。
クラリッサは変わらぬ調子で答えた。
「リディア嬢は今のところ、中立の立場を保っています。ですが、今後の動きは注視すべきかと」
「ふふ……リディアは優等生だもの。誰にも与せず、最後に勝者の側に立つつもりなのでしょう」
エリセの声には、どこか楽しげな響きが混じる。だがその微笑の裏には、勝者が誰であるかを疑っていない冷然たる自信があった。
「……マティアスの準備は?」
「例の書簡は、既に王宮の数か所に届けられました。殿下の知らぬ動きも含め、風向きは変わりつつあります」
クラリッサの言葉に、ノエルが小さく頷く。
マティアス・ロウエル──エリセの命を受け、密かに王宮を巡る諜報役にして、彼女に忠誠を誓った剣。専属護衛騎士の地位にありながら、誰よりも静かに深く刺さる刃を持つ。
「……ええ、そろそろ風を吹かせましょう」
エリセは立ち上がった。
ドレスの裾が静かに揺れ、白い光がその姿を縁取る。
その一歩には決意と、支配者としての矜持が宿っていた。
『美しさは武器。知性は刃。愛されることは、最大の権力』
それがエリセ・フェルデリアいう女の、揺るぎなき信条だった。
エリセはゆるやかに椅子を離れ、窓辺へと歩を進める。純白のカーテンが彼女の動きに呼応するようにふわりと揺れ、午後の光が彼女の横顔を柔らかく照らした。
「……王宮の空気も、少しずつ変わっていく気がするわ」
それは独白のような呟きだった。
だがその瞳は、すでに未来の形を見据えている。
記憶の深淵を覗くような色を宿して。
「変えるなら、今。気づかれる前に、形を整えなければ」
「──離宮の受け入れは、すでに整っております」
クラリッサが応じる声もまた、冷静だった。
「侍女たちはすべて、あなた様に忠誠を誓った者のみ。カロル侯爵令嬢の周囲も、必要な者だけを残しております」
エリセはくすりと笑った。
「その中に……あの子は?」
「……はい。彼女だけは残してあります」
クラリッサの答えにエリセは笑みを深くするが、それ以上は何も言わず静かに椅子へと戻った。
「ならば、しばらくは観察の時。花は焦って咲かせるものではないわ」
そう言って、彼女は再び窓の向こうを見つめた。
その視線の先には、やがて再誕の令嬢が歩む道の気配が確かにあった。




