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死を越えた花嫁は運命を取り戻す  作者: さくる
スノルピスとスノードロップ
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静かな兆し

春の茶会から数日が経ち、侯爵邸の空気には目に見えぬ余波が静かに染み込んでいた。

部屋の真っ白なカーテンが、あたたかな風に微かに揺れる。窓辺に腰掛けるリシェルは瞳を細め、冷えた紅茶に視線を落とした。


「……春の茶会の余韻は、どうやら宮廷に根を張りはじめたようです」


対面の席。

マルタが銀のティーセットに丁寧に手を添えながら、そう口にした。彼女の目は、温かさの奥に鋭い観察眼を宿している。リシェルの仕草ひとつ、言葉の端々までこの主侍女は見逃さない。


「お父様が?」


リシェルの問いにマルタは短く頷いた。


「お屋敷に届けられる文の数が、この次期にしては妙に多いのです。それに……旦那様のご表情が少しだけ、鋭くなりました」


「情報戦の匂いがする、とでも?」


「そう思っておいて間違いありません。旦那様の目が曇ることは、まずありませんから」


微笑と共に返された言葉に、リシェルは静かに瞳を伏せる。彼女の内にはこの数日、確かに高まりつつある違和感があった。言葉にならない記憶の残滓が、誰かの視線や口調、王都の空気の端々に滲んでいる。


(これは、前とは違う流れね。だからこそ……)


「お父様も気づいているのでしょうね。少しずつ、均衡が揺れてきていることに」


低く呟いたその声はどこかひんやりとしていた。

紅茶を口に含んでもどこか遠い味がする。

かつて毒に倒れた記憶。

優しく笑って裏切ったあの人。

人の死を嘲笑うあの姿。

王宮に満ちていた冷ややかな仮面と血に塗れた結末。


(──あの記憶を、なぞらせはしない)


リシェルはゆっくりと立ち上がり、カーテンを押し開いた。庭先に咲く色とりどりのカンパニュラが、朝日に応えて揺れている。


「マルタ。今日の装いは、少し違う色にしましょう」


「かしこまりました」


「たまには、予測できない色も悪くないでしょう?」


淡い紅色の瞳がほんの少しだけ笑った。

再び訪れる戦いの舞台に向けて、リシェルは静かに自らを整えてゆく。



王都を貫く並木道は柔らかな陽光に包まれ、王宮の白亜の塔が空へとすっと伸びていた。

カロル家の馬車が城門前に止まる。

リシェルはレースを施されたペールブルーのドレスの裾を整えながら、隣に座る父を見た。


「お父様……殿下からの呼び出しなのですね」


「そうだ。王ではなく、アレクシス殿下からの指名だ」


応じた声は低く落ち着いていた。

カロル侯爵家は王国随一の名門家にして、鋭利な筆と策を操る文官貴族。今日の彼は文官軍装ではなく、深い紺色の貴族礼服をまとっている。金の刺繍が胸元を飾り、気品の中に抑えた威厳を滲ませていた。


「殿下の意図は見えますか?」


リシェルが問うとレイナルトは目を細めた。


「……推測の域は出んがな。春の茶会以来、妙に静かすぎた。王宮というのは、嵐の前ほどざわつかぬものだ」


「……何かが動き出しているのですね」


「そして、それにお前が関わってくるのだろうな……」


侯爵は娘の瞳をじっと見据えた。

リシェルはそっと頷く。


「王宮に入ったら一度別行動になる。呼び出しは娘単独の名目だった。儀礼に則って、私が付き添ってから離れる」


「はい、心得ています」


扉が開き、純白の大理石の階段を父娘は並んで昇っていく。

王宮に響く靴音は、回帰前の記憶を呼び起こす。

裏切り、毒、冷笑。

そして失った命。

だが今は違う。

再び訪れたこの場所で、リシェルは運命を奪い返す覚悟を携えていた。


西翼、鏡月の間。

窓はなく、天井中央の天井から微かな光が差すのみ。壁に掛けられた巨大な月鏡と、対面式の応接室セットが置かれただけの部屋。その一つのソファーにアレクシスが座っていた。

漆黒の軍装に上着を留める銀色のフィブラ。

冷ややかな美貌と冷たいタンザナイトの瞳。


「カロル侯爵、ご息女。よくぞ参った」


声は低く、選ばれた者だけが言葉を発するにふさわしいとでも言うような威圧を含んでいた。

レイナルトが恭しく一礼する。


「殿下のご召喚、畏れ多くも光栄に存じます。娘リシェルをお連れいたしました」


「アレクシス第一王子殿下にご挨拶致します」


リシェルもまた深く一礼した。

その仕草に偽りはないが、内心ではアレクシスを細かく観察していた。

以前の彼より、ほんのわずかだが何かが違う。

それが何かはまだ言葉にできない。

けれど本能が告げていた。

この男は間違いなく、次の嵐を起こす中心にいる。

アレクシスは軽く顎を上げると、レイナルトにだけ目を向けた。


「侯爵。王国の中枢にあるいくつかの部署が、動いている。私はあなたの知略を信じている。だからこそ、あなたの娘にも役割(・・)を与える価値があると判断した」


「娘に……ですか?」


レイナルトの声が静かに低くなる。

対してアレクシスは、まるで当然のことのようにうなずいた。


「カロル家の娘は女官としてではなく、貴族令嬢として。そして監視の目(・・・・)として、王宮に必要だ。美しさ、気品、知識……そして冷静さ。貴方の娘にはそれがある」


リシェルはその言葉に軽くまぶたを伏せた。

ほめ言葉ではない。これは戦力としての認定であり、駒としての登用宣言。


「私が求めているのは、感情では動かない者だ。忠誠も情も不要だ。必要なのは、王国の未来のために己の意志を貫ける者──それだけだ」


静寂が辺りを包んだ。

誰も言葉を継がない。


「リシェル・フォン・カロル。君はそれに値する」


ついにその視線が、真正面からリシェルに注がれる。

凍てつくような瞳。だがその奥に確かに宿っていた、何かを試し見極めようとする王子の眼差し。

リシェルは少しも目を逸らさずに応じた。


「畏れながらお尋ねいたします。殿下が未来のためと仰るものの中に、私の意思も含まれているのでしょうか」


アレクシスの唇がほんの僅か動いた。笑みとも見えぬ、微細な表情。


「それを含められるかどうか。それを決めるのは、君自身だ」


その瞬間リシェルは悟った。

この男は、操るつもりでこちらを試している。けれどそれと同時に、自由な意志を認める余地も持っている。まるで彼女がどう動くかを楽しむように。

それは、かつての未来ではあり得なかったわずかな変化だった。


「心得ました、殿下」


リシェルは、胸の奥に冷たい水を流し込むようにして感情を抑え頭を下げた。

もう一度、過ちの輪を繰り返さないために。

謁見は終わった。

だがこれは始まりにすぎない。

アレクシス・レオナールは、リシェルを舞台に引き上げた。それが何を意味するのか、リシェルはこれから身をもって知ることになる。

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