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死を越えた花嫁は運命を取り戻す  作者: さくる
スノルピスとスノードロップ
57/59

託された鍵

コン、コン──。

規律を刻むような二度のノックが、執務室の静寂を破った。アレクシスは軽く視線を上げ、控えていたラウルに無言の指示を送る。ラウルは静かに頷き、足音を一切響かせぬよう扉のもとへ向った。重厚な扉を開くとそこに現れたのは、濃紺の上着に白金の縁取りが美しい高位文官の制服を隙なくまとった男──ゼノ・フォン・カロルだった。


「ご機嫌麗しゅうございます、王太子殿下」


「……この状況を見ても、そう思えるか?」


アレクシスは机上の書類の山に視線を落としながら、淡々と答えた。その視線を追ったゼノは、小さく口元を綻ばせて言う。


「相変わらず、殿下のご執務ぶりは圧巻です」


アレクシスは眼鏡を外し、こめかみを押さえながら低く言った。


「要件は?」


「国王陛下より、王太子殿下の叙任の儀とご婚礼の儀を、同日に執り行うとのご沙汰を預かってまいりました」


ゼノは臙脂のリボンで封じられた王印付きの書簡を恭しく差し出す。アレクシスは一瞥だけくれ、封を切らずに机上に置いた。


「……随分と詰め込んできたな」


「おや、これは意外ですね。合理を尊ぶ殿下が、そのような不満を口にされるとは」


冗談めかした声音。

しかしその目の奥には、冷えた洞察の光が宿る。

アレクシスはわずかに目を細め、静かに名を呼んだ。


「ゼノ・フォン・カロル」


「はい、殿下」


「君がリシェル嬢の血縁者だということがよくわかった……あの家の者は、揃いも揃ってよく似ている」


その呟きに、ゼノは笑みを深める。そして懐から、もう一通の手紙を取り出した。


「これは……?」


「こちらは我が兄、カロル侯爵閣下からの親書となります。内容を一言でまとめるならば──『娘との結婚は認めるが、産まれた子どもの一人に侯爵の爵位を継がせよ』……と」


その場に控えていたカミルが、思わず顔を引きつらせた。だがゼノは飄々とした笑みを崩さず、どこか愉快そうに肩をすくめる。


「とはいえ兄もまだまだ健在ですし、私も当面はつなぎとして侯爵家を支えるつもりです。その先のことまでは、そう急ぐ必要もありません。ですので殿下……どうぞ、ご健闘をお祈りいたします」


アレクシスは半ば呆れたように片眉を上げた。


「貴殿が継げば済む話だろう」


「申し訳ありませんが、年を重ねるほどに面倒事(・・・)には腰が重くなるものでして。それに、我が家の後継ぎを引き抜いたのは、ほかならぬ殿下ご自身です。自ら獲得されたのであれば責任も含めて、どうか引き取っていただきたく」


皮肉と本音を絶妙に織り交ぜた言葉に、アレクシスは静かに眉間を揉んだ。ゼノはそこでわざとらしく一つ息を吐くと、ほんの少しだけ声の調子を変えた。


「……余談はこれくらいにしておきましょうか」


その一言に、カミルがぼそりと呟く。


「……今のが、余談……?」


すかさずラウルが視線でたしなめ、カミルは唇を噛んで黙り込む。アレクシスが軽く手を振ると、ラウルとカミルは無言で一礼し、静かに部屋を後にした。

扉が閉まり室内が静寂に戻った瞬間。

アレクシスは椅子に深く腰を沈め、髪を後ろに払った。そして鋭く本題を切り込む。


「──で、カロル侯爵家は何を秘している?」


ゼノの表情から笑みが消え、薄暗い空気が流れた。

言葉が一つずつ慎重に選ばれる。


「殿下は、リシェルにルヴェール(・・・・・)の血が流れていると承知のうえで、王家に迎えようとしておられる」


「またルヴェールか……」


アレクシスの低い声が静かに響いた。

ゼノは頷き、淡々と続けた。


「それほどまでにあの家系は特別であり、そして異質なのです。代々にして王家と距離を保ち、高位貴族との婚姻を嫌い、距離を置いてきた──それがルヴェール家の方針でした」


「だが、亡き侯爵夫人は直系の令嬢だった」


「ええ。そして、例外中の例外でもありました。兄上に夢中でしたからね……彼女は。結婚を認めないなら家と縁を切ると宣言し、絶縁書に署名して生家へ送りつけたのです。そしてその足で、我が家へと押しかけてきた」


アレクシスの口元に微かな笑みが浮かぶ。


「ずいぶんと果断な女性だったようだ」


「ええ、その通りです。慌てた彼女の父上が、承諾書を持って侯爵邸を訪れました。あのルヴェール家が、あれほどまでに狼狽するとは……私たちも相当驚きましたよ」


アレクシスは頬杖をつき、冷たく問う。


「──そのとき、何か定約が交わされたのだろう?」


ゼノは静かに頷き、ゆっくりと言葉を選んだ。


「はい。我が家とルヴェール家の間で、一つの約定が結ばれました。それは──『セラフィーナ様が産んだ()には、【封印された記録庫】を決して覗かせてはならない』というものです」


アレクシスの眉が微かに動いた。


「子ではなく……()に?」


「ええ、はっきりと明記されていました。()と」


ゼノの目が細められる。


「殿下。あなたは、決して開けてはならぬ聖櫃を手にしてしまわれたのです。その蓋を開けてはなりません。そして、あの子に記録庫を見せてはいけない」


静かな声が、室内の空気を凍らせる。

ゼノは穏やかな笑みを再び貼りつけ、扉の前で立ち止まった。


「……あの子は義姉上によく似ております。何をしでかすか、予想のつかないところが……。これから侍女が一人、殿下のもとへ同行することになるでしょう。ですが、どうか殿下もあの子から目を離さないでいてやってください」


そして、最後にぽつりと囁く。


「ここは……記録庫の()を探し始めるには、あまりに相応しすぎる場所ですから」


静かに扉が閉まり、足音もなくゼノの姿は消える。

残されたアレクシスは、沈黙の中でただひとり思考を沈めた。

雨音のような微かな鼓動が、執務室に響いていた。



静かな雨が、カロル侯爵家の私邸を包んでいた。

窓の外では天から降り注ぐ細やかな雫が青葉を濡らし、地を潤していく。この季節の雨にしては冷たく、そしてどこか寂しい匂いを含んでいる。

その静寂の中で、レイナルトは自室の書斎にただ一人佇んでいた。木製の棚に囲まれた室内は、古い書物の香りと淡い香の薫りに満ちている。そして壁に掛けられた一枚の肖像画が、彼の視線を静かに受け止めていた。


「……君の言った通りになったな、フィーナ……」


彼が静かに呟いた声は室内の空気に溶け、絵の中の女性に届くかのようだった。

描かれているのは柔らかく波打つ淡金の髪と、桜花色の瞳を持つ若い女性。その微笑みは陽だまりのように優しく、見ている者の胸を締めつけるほどに美しかった。それは、この世にはもういないレイナルトの最愛の妻、セラフィーナの姿だった。


胸の奥にかすかに残る、声の記憶がよみがえる。

あの日の会話。夫として、そして父としての想いが交錯したあの時間。


『レイ様、決めたの……』


『だがっ!』


『ごめんなさい。でも、私はこの子の母親だから……だから、幸せになって欲しいの』


『……っ、君は俺の妻でもあるだろう! 他の方法を考えよう。俺も一緒に考えるから……』


『レイ様……』


『だから……俺を置いていかないでくれ……フィーナ』


『貴方は一人じゃないわ。ゼノ様もシェルもいる。私は少し先で、レイ様を待ってるだけよ……』


『……君は、本当に勝手だな……』


『ええ、でもそれが私だから。だからどうか、あの子が自分の人生を選ぶその日まで、見守ってあげて……』


『ああ……君がそれを望むのなら……』


『ありがとう。レイ様……ずっと、ずっと愛してるわ──』


いつしか閉じていたまぶたを、ゆっくりと開く。

肖像画の中、永遠に変わらぬ笑みを浮かべたセラフィーナが、今にも語りかけてきそうに思えた。

その時──背後の空気が僅かに揺れ、気配が一つ現れた。


「……ネーヴァ」


その名を呼ぶと、静かに一歩を踏み出して現れたのは影のように仕える無口な侍女。リシェルの傍を影として守るべく、セラフィーナによってこの家に呼び寄せられていた。


「……リシェルには、絶対に記録庫を開けさせるな。特に再封印を施した書庫には、決して近づけてはならん」


その言葉に、ネーヴァは無言で頷いた。彼女に問い返すことは必要なかった。既にすべてを承知していることが、互いの目を通じて伝わっていた。


「フィーナが……お前を呼んだ意味が、ようやくわかった気がする」


レイナルトは微かに笑う。

それは愛する者への嘆息であり、父としての諦念でもあった。


「……フィーナは分かっていたんだ。娘の性格が、自分に似ることを」


そっと息を吐きながら、彼は絵に視線を戻す。


「今になって、ルヴェール家がなぜあそこまで娘を手放すのを渋ったのか……ようやく理解した。何をしでかすか分からない娘を持つ親の気持ちというやつをな……」


その言葉に、ネーヴァがごくわずかに肩を揺らした。息を短く吐いたその仕草に、控えめな共感と同調がにじむ。

レイナルトは、ふと目を細めて窓の外へと目をやった。

雨は変わらず降り続いていた。濡れた木々の若葉が風に揺れ、季節がまたひとつ巡ろうとしている。


「娘を……シェルを、どうか頼む」


その声に込められていたのは、当主としての命令ではない。

一人の父がたった一人の娘を思う切実な願いだった。

ネーヴァは一礼し、音もなくその場を後にする。影のように現れ、影のように消える彼女の背を見送ることなく、レイナルトは再び天を仰いだ。

しばし目を閉じ大きく息を吐く。

再び視線を戻した先にあるのは、あの日と変わらぬ笑みを浮かべる、最愛の妻の面影だった。


そして──彼は微笑んだ。


「……君はやっぱりずるいよ、フィーナ……」


微かに口角を上げながら、レイナルトはただ妻の微笑みに見入っていた。

時が止まったかのような静けさの、窓の向こうで雨に揺れる花弁が、一枚、また一枚と静かに散っていった。

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