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死を越えた花嫁は運命を取り戻す  作者: さくる
スノルピスとスノードロップ
56/59

二人で紡ぐサクラリス

冬が終わりを告げた。

長く厳しい白霜の帳が静かに解け、やがて巡る新たな季節。スノードロップは役目を終えて土へ還り、かわりに地上は色とりどりの花々で満たされていく。やわらかな陽光が世界を包み、春が静かに始まった。それはリシェルが過去から戻って迎える、二度目の春。

庭園の奥。

朝の風に髪をなびかせながら、リシェルは一本の木の前に立っていた。数日前まで固く閉じていた蕾が、いまは陽を浴びてほころび、淡い紅を帯びた花弁が風に舞う。


この木の名は、サクラリス。


花の色は白と薄紅が溶けあうように淡く、光を受けるたびに周囲の空気ごと染め上げる。その可憐さには、見る者の胸に静かな痛みとぬくもりを残す不思議な力があった。

最近になって、リシェルの脳裏にはある光景が浮かぶ。この季節になると、父レイナルトがこの木の前に立ち尽くしていたこと。


「お父様はきっと、この花にお母様の面影を見ていたのね……」


かすかに微笑みながら、リシェルはつぶやいた。

サクラリスは希望を象徴する花でありながら、惜しまれるように散る。ある人は、セラフィーナをこの花にたとえたという。

リシェルには母との記憶はほとんどない。ただ、陽だまりのような温もりだけが時折、彼女の心にふと差し込む。


(……これも回帰(・・)の影響なのかしら?)


ふと、あの日のアレクシスの言葉が甦る。


『……君はいったい、いつの時に戻ってきた?』


似ているようで、どこか違うこの世界。自分が変わったことで周囲の運命もまた変わったのだと、ネーヴァは言っていた。


(そもそも、なぜ私は戻ってこられたの?)


ただの偶然か神の思し召しか。

けれどリシェルには、これはもっと複雑な因果の糸が絡み合った、避け得ぬ運命(・・)なのだという気がしてならなかった。

柔らかな風が吹き抜け、花弁がはらはらと舞う。

その瞬間、背後から低く澄んだ声がした。


「……ここで、何をしている」


振り返れば、そこに立つのはアレクシスだった。ダークブルーの髪をハーフアップにまとめたその姿。いつもの威厳ある佇まいの中に、どこか穏やかな空気が混じっていた。


(……なぜ、ここに?)


疑問がよぎるよりも早く、胸の奥に浮かぶのは遠い記憶の断片。


「……王太子殿下に、ご挨拶を申し上げます」


リシェルは裾を摘み、優雅に礼を取る。


「……サクラリスが綺麗だったので、見ておりました」


彼女の言葉に、アレクシスは無言でサクラリスを見やった。風に揺れる花弁、葉の擦れる音、鳥たちのさえずり。 自然の音だけが二人のあいだを満たしてく。

やがてアレクシスの視線が、そっとリシェルへと移る。


「君の瞳は……似てるな。サクラリスの色に」


不意にこぼれただろう言葉に、リシェルは思わず目を見開いた。 アレクシス自身もその発言に驚いたように、口元に手をあてた。柔らかな光が、二人のあいだに舞い降りる。


「殿下……私たち、幼い頃にお会いしたことが?」


「……ああ。母上の日記を読んで、初めて知った。正直、当時の記憶はもう……曖昧だ」


いつもの無機質な声色。

だが、リシェルには感じ取った。

その瞳の奥に宿る、わずかな感情の動きを。


「私もです。回帰以前の記憶は曖昧で……母との記憶も、ほとんどありません」


リシェルは風になびく髪を抑え、ふっと微笑んだ。

青空の下で咲くサクラリスの淡い花。

その風景の中アレクシスは一歩、また一歩と彼女に近づいた。そして、リシェルの頬に静かに触れる。


そのまま彼の顔が近づき── 唇がそっと重なる。


ウィステリアとダークブルーが、あたたかなの風にまざり合う。 音が消え世界が静止した。

そっと目を閉じたリシェルの後頭部を、アレクシスの掌がやさしく支える。長いようで短い、二人だけの時間。やがて彼はゆっくりと身を離し、リシェルの視界にその瞳が映った。


「……作ればいい」


「え……?」


「ないなら、また作ればいい──今度は、二人で」


リシェルはそっと笑みをこぼした。

花のように、春そのものの笑顔だった。



ふわりと香る紅茶の香りが、カロル侯爵邸のドローイングルームに優しく満ちていた。 午後の陽が斜めに差し込む広間の中央に設えられた応接セット。その柔らかなソファには、アレクシスとリシェルが並んで腰かけていた。


「……なにあれ? 本当に俺たちが知ってる殿下かよ。あんな自然にくっついて座っちゃって……」


窓辺のカーテンの陰から様子をうかがっていたヴィンセが、目を丸くしてひそひそと呟く。


「お黙りください。騒ぐなら、ここから追い出しますよ」


そっと立って控えていた侍女服姿のネーヴァが無表情に返す。聞き耳を立てていたリシェルは、そのやり取りに思わず赤面し、恥ずかしさをごまかすようにうつむいた。 一方のアレクシスは、いつもと変わらぬ涼やかな表情でティーカップを口元に運び、優雅な仕草で紅茶を口にしていた。

カチャンとカップとソーサーが触れ合う澄んだ音が、静かな室内に小さく響く。


「今日、侯爵は?」


静かに投げかけられたアレクシスの問いに、リシェルは少し驚いたように顔を上げた。


「父は領地に戻っております。母のお墓があるので……」


アレクシスはその言葉を受けて、しばし考えるように視線を遠くにやった。


「……侯爵夫人が亡くなられたのは、冬だったはずだ」


「ええ、そうです。でも父は、毎年この季に墓参りをするんです」


「なぜだ?」


問いかけながら、アレクシスの視線が自然とリシェルに向けられる。リシェルは少し迷いながらも、侍女として控えていたネーヴァに視線を向ける。ネーヴァの瞳が、わずかに細くなる。まるで笑っているかのように。


「ふふ、母との約束なんですって」


「約束?」


「『私の大好きな花を持って会いに来て。あなたの辛気臭い顔なんて、見たくないわ』って……母がそう言ったそうです」


リシェルが微笑みながらそう言うと、背後でなにやら「ぷっ」と吹き出す音と、金属製のトレイがベコッと凹むような鈍い音が重なった。見るとヴィンセが頭を抱えてうずくまり、その横に立ったネーヴァの持つトレイが凹んでいた。

アレクシスはわずかに口元を緩めた。


「なるほど。夫人の好きな花は……ウィステリアだろう?」


「はい。私たちの髪の色と同じだからと……」


「……ああ、夫人の気持ちも、分かる気がするな」


「へっ?」


間抜けな声が二つ、同時に上がった。言うまでもなく、リシェルとヴィンセである。

沈黙を破ったのは、これまで控えていたネーヴァだった。


「奥様は、愛する方々の色を宿しているから特別お好きなのだと…そうおっしゃっておりました」


その言葉にアレクシスはふっと笑みを漏らし、わずかに目を細める。


「……そういえば奥様のご友人は、ハイドレンジアを好んでおられましたよ。サクラリスよりも、もっと……特別に」


ネーヴァの何気ないようでいて意味深な言葉に、リシェルははっと目を見開く。ちらりとアレクシスの横顔をうかがえば、彼はそっと目を閉じ、深く小さな息を吐いていた。 聡明な彼なら、ネーヴァの言葉の意味に気づいたはずだ。


「……あんた、わかってて言ったよな?」


ヴィンセがむくりと起き上がり、抗議の声を上げる。


「何のことでしょう?」


「いや、なんかずるいって! 俺だって、ご主人様にあんな顔させてやりたいのに!」


「なら、させればいいじゃないですか」


「だからさ、やっぱりわかってて言ってるよね!?」


「お黙りください。うるさいです。本気で追い出しますよ」


またもや冷たい一言。

そのやり取りを聞きながら、リシェルは無意識にアレクシスの手の上に、自分の手をそっと重ねていた。


(私たちは、きっと……愛に臆病すぎたのね)


愛を捨てて心を守ったアレクシス。愛を信じて傷ついたリシェル。 けれど今、こうして触れる温もりは過去ではなく未来のものだった。アレクシスは重ねられた手をそっと包み込み、指先で優しくリシェルの手をなぞる。

その温もりにリシェルの心が揺れる。


「……結婚式は、夏が終わる頃にしよう」


「え……? 夏って……あと半年もないじゃないですか。そんな短期間で戴冠の準備なんて……」


慌てて言い募るリシェルの顎を、アレクシスは指先でそっと持ち上げた。視線が絡み合う。


「私たちの結婚式だ。戴冠式とは別になる」


「で、でも……」


「それに、戴冠式は三年後だ」


静かな一言にリシェルは驚きで言葉を失った。


「リシェル嬢。私たちには、お互いを知る時間が必要だ。それに──共に生きる時間を積み重ねたい」


アレクシスは彼女の耳元に顔を寄せ、低く囁いた。


「……君とは、血の通った夫婦になれたらと……そう、願っている」


その声にリシェルの頬が淡い紅に染まった。


(今世では、もう愛や恋に振り回されるのはこりごりと思っていたのに……)


思わず赤く染まった顔を両手で隠し、息を吐き出すリシェル。 その横顔を、アレクシスはじっと見つめていた。瞳の奥に、誰にも見せたことのない微笑を湛えて。

窓の外。

庭の奥に咲き誇るサクラリスの花が、風に揺れていた。その淡い花びらはまるで、ここから始まる二人の未来を祝福するかのように光の中でやさしく舞っていた。

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