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死を越えた花嫁は運命を取り戻す  作者: さくる
スノルピスとスノードロップ
54/59

氷の王子の笑みと涙

夜が深まり、王都の喧騒がまるで幻だったかのように静まり返る頃。王宮の一角にある重厚な書斎には、橙の揺らめきがゆるやかに壁を照らしていた。

薪が静かに燃える暖炉の前に並ぶ二脚の椅子。その片方に、アレクシスが脚を組み、グラスを片手に座っている。シャツのボタンは胸元まで外され、長い髪を無造作に垂らしたその姿は、昼間の王太子とは別人のようだった。


「……貴方のその姿、先ほどのカロル侯爵令嬢にも見せてやりたいものですな」


隣に控えていたラウルが、わずかに呆れを滲ませて言った。アレクシスは視線を動かさず、グラスを傾ける。


「時間の問題だろうな」


肯定とも否定ともつかぬ声音。

それが逆に、彼の内に芽生えつつある何かを告げているように思えてラウルは静かに息を吐いた。

『完璧な王妃』──誰が言い出した言葉だったか。

思考が静かに揺らいでいく。先ほどの記憶が、否応なく脳裏に蘇った。


にわかには信じがたい話だった。

過去──否、未来の記憶を語るカロル侯爵令嬢リシェル。

もし何か一つでも違えば、あり得たかもしれない現実。そのすべてを背負い、彼女は今を生き直そうとしていた。それが一介の貴族令嬢にはあまりに過酷な宿命であることを、ラウルは理解していた。

恋に破れ命を奪われるという絶望。

祝福されるべき婚礼の場で裏切られるという、耐え難い苦悶。そして何より驚いたのは、それを聞いたアレクシスが、「信じる」と言い切ったことだった。

彼が誰かの感情(・・・)に、あれほどまでに正面から向き合った姿を、ラウルはかつて一度たりとも見たことがなかった。


「殿下……」


「……何だ?」


「なぜ、あのご令嬢をお選びになったのですか?」


アレクシスはグラスを傾けたまま、視線を窓の外に向けた。答えを探しているのか、それとも既にある真実を見据えているのか。


「……なぜだと思う?」


逆に問い返されたラウルは、慎重に言葉を選んだ。


「令嬢の話を聞く限り……彼女が受けていた教育は、王子妃ではなく王妃としてのそれだったように思われます。であれば、政治的合理性や家柄を踏まえてのご選定と考えるのが妥当でしょう」


「……だが、お前は納得していない」


「ええ」


静かに微笑みを浮かべ、ラウルは言葉を重ねた。


「アレクシス・レオナール。貴方、初めて感情で決断しましたね」


沈黙。

その言葉に、アレクシスは表情ひとつ動かさなかった。だがグラスを傾け一息に飲み干す仕草が、そのすべての答えだった。


「令嬢には……お伝えにならないのですか?」


「言えば逃げていくだろう。あの子は」


「……そうでしょうな」


「情というのは、まったく面倒だ」


アレクシスは小さく呟き、ぼんやりと窓の外へと視線を流した。そんな彼を、ラウルは静かに見つめる。

彼がまだ「王の器」と呼ばれる以前、自分がその教育係に任じられた日のことをふと思い出していた。


アレクシスが三歳の頃。

その聡明さと理性は幼くして頭角を現し、誰もが「次の王はこの子だ」と疑わなかった。

だが、彼の容姿は王妃イレーネに酷似していた。

王に似たのは、あのタンザナイトのような瞳だけ。

それだけの理由で、一部の保守的な貴族は彼を忌避した。その流れを決定づけるように、王に瓜二つの容姿を持つ第二王子ユリウスが誕生した。ユリウスを喜々として抱き上げた王太后カトリーヌの姿を、ラウルは今でも忘れていない。


そして、その嫌な予感は見事に的中する。


イレーネ王妃からユリウスを取り上げたカトリーヌは、自身の腹心を彼の乳母と教育係に据えた。

未だ宮廷で絶大な影響力を持つ王太后──その危うさに気づいた国王は、逆にアレクシスに過酷な期待をかけた。

そして、周囲もそれに倣う。

ラウル自身も例外ではなかった。

容赦のない規律と過剰なまでの自制。

完璧こそが王たる者のあるべき姿だと信じて。


だが──。


アレクシス唯一の心の拠り所であった母イレーネが亡くなったとき、彼の中の「感情」という名の色彩はすべて消え去った。

冷酷無慈悲、氷の王子──そう呼ばれるようになったのは、ほんの数年のことではなかった。

その姿を見て、ラウルはようやく己の過ちに気づいた。だからこそ決めたのだ。彼が心を失ったのならば、自分がその代わりになるしかないと。情の代弁者であり、盾であり、導く声であろうと──なのに。


「……悔しいものですな」


思わず漏れたつぶやきに、アレクシスはグラスを傾けたまま、小さく息を吐いた。

そして──。


「……貴方には、感謝しているよ」


不意に返された一言に、ラウルは思わず目を瞬いた。

それは、これまでに一度も聞いたことのない素直な言葉。ラウルは胸に手を当て、深く頭を垂れる。


「……光栄です」


顔を上げたラウルの胸中には、静かにある問いが浮かんでいた。『完璧』とは誰が言い、誰が求め始めたものだったのか。カロル侯爵令嬢が捧げた、誇り高く美しい誓い。そして冷たい殻を破って初めて見せた、アレクシスの感情。


それは欠けた器を補い合うのではない。

一人では届かなかった完全を、二人で築こうとする意志。完璧とは最初から定まったかたちではなく、歩みの果てに見出される『共の形』なのだと。

ラウルはそっと目を伏せ書斎の奥、暖炉の揺らめきの先に国の未来にさす光を見つめていた。



ラウルが静かに頭を下げ、扉の向こうへと姿を消す。重たい扉が閉まる音と共に、静寂が書斎を支配した。

アレクシスはしばらく椅子に身を沈めたまま、炎の揺らぎを見つめていたが、やがてゆるやかに立ち上がると机へと歩を進める。

引き出しを開けると、そこには一冊の日記が収められていた。淡い紅色の五弁花──サクラリスの印が、封印として押されている。それは先ほど、リシェルが自らの手で彼に手渡したものだった。


「これは……王妃様が貴方に遺した記録かと」


「私に?  王妃の子は私だけではない」


「もちろん承知しております。ですからこれは……完全なる()です」


「……勘、だと」


「お嬢様の勘は、ほとんど当たります」


「ほとんど、だろう?」


呆れ混じりの視線をリシェルと控える侍女へ向けた彼に、侍女は黙って無表情のままうなずき、リシェルはおかしそうに微笑んでいた。


「似たもの主従だな」


ぽつりと呟いた彼の言葉に二人は顔を見合わせ、わずかに微笑を交わしたようだった。




アレクシスは封印の上でペーパーナイフを滑らせ、自らの指先を傷つけた。盛り上がった鮮血がぽたりと落ちると、封印が静かに光りカチリと音を立てて解かれる。


ふわり──。


風もないはずの部屋で、書物の頁が自然に捲られていく。

最初の頁には、淡い筆跡でこう綴られていた。


『アレクシスが生まれた。私に似た子だ。目元も髪も、声の響きまで私に似ている。王宮という場所でこの子がどれほどの困難に立ち向かうことになるか……それでも私は、愛しいとしか思えない。あの人も同じ。私に似たこの子を、目に入れても痛くないほどに可愛と……』


ページが進むごとに綴られるのは、母としての心の記録だった。ユリウスの誕生、カトリーヌによって引き裂かれる家族。 過剰な教育と孤独の中、心を擦り減らしていくアレクシスの姿。筆跡は次第に力を失い、掠れ始める。

──そしてある頁でまた、ふと文字が躍るように語る。


『どうか、あの子に小さな光を……。そう願って私は、春の頃、こっそりとある場所へ赴いた。花々に囲まれた邸。笑う少女と穏やかな庭。あのとき、アレクシスはその子の瞳を見てこう言った。『……似てる。サクラリスの色に』あれはきっと、私が見せてあげたかった世界』


アレクシスの眉がかすかに動く。記憶の底に眠っていた、幼い日のひとかけらがふと呼び起こされた。

そして、最後の頁に差しかかったとき。

アレクシスの瞳が見開かれる。

そこには、一つのメッセージが綴られていた。


『親愛なるアレクシスへ。

この手紙を読むあなたが、どのような時を生きているのか、私にはわかりません。けれど、一つだけ確かに言えることがあります。セラフィーナは、あなたとその傍にいる彼女のために、何か(・・)を超えてしまった。そして、それが彼女の娘にも歪み(・・)を残すとしたら……。

アレクシス。

あなたには二つの責任があります。

一つ、決して【封印された記録庫】をリシェルに開かせてはなりません。あれは過去と未来の区切りであり、秩序を越えてはならないもの。

そしてもう一つ。

あなたは彼女の剣ではなく、盾であってください。彼女が選ぶとき、あなたはそれを奪わず、支える者でいてください。


なぜなら、リシェルは“選ぶ者(・・・)なのですから。


──永遠にあなたの誇りである母より』



アレクシスが何度かその文面を指でなぞった瞬間、文字が光となり、サクラリスの花びらのように舞い上がって……そして消えた。


「……母上。貴女は、いったい……」


呟きは誰にも届かず、ただ暖炉の火が小さく揺れた。

その視線がふたたび書物へと戻ると、最後の頁に静かに浮かび上がる文字。


『私は母だった。誰よりも母として子ども達を愛していた』


アレクシスの頬を一粒の雫が静かに伝い落ちる。

表紙に落ちた涙が柔らかく波紋を広げた。

彼はゆっくりと本を閉じる。

胸の奥で何かが確かに変わっていた。


(母上……貴女はひとつ読み違えている)


彼女は母が思うほど弱くはない。

だが、もしこれが本当にイレーネの遺言(・・)であるならば──。


「……私は、剣ではなく盾に。だがそれは、彼女がそれを望むのなら……だ」


──選ぶ権利は彼女にある。


そして今、アレクシスは初めて心からそう信じられる気がしていた。

暖炉の炎がふっと揺れた。

天井に映る影が、いつしかやさしい面差しを帯びていたことに、彼は気づかないまま、静かに目を閉じた。

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