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死を越えた花嫁は運命を取り戻す  作者: さくる
スノルピスとスノードロップ
53/59

氷の底に芽吹くもの

カチャン──。

乾いた音が、沈黙の部屋に微かに響いた。

銀の縁を持つティーカップとソーサーが触れ合っただけの音。それなのにその一瞬が、アレクシスを深い思索の底から引き戻すには十分だった。

視線の先では、リシェルが所在なげに指先を弄んでいた。交差させた指先が小さく動き、まるで少女のように落ち着かない。


「……リシェル嬢」


名を呼ぶと、彼女は肩を震わせて顔を上げた。長い睫毛がふるりと揺れ、淡い紅色の瞳がこちらを見た。


「どうやら君は……王宮という、渦巻くものの中心に放り込まれてしまったらしいな」


その言葉に、リシェルは表面上こそ礼儀正しく笑みを浮かべていたが、瞳の奥には「迷惑です」とでも言いたげな微細な揺らぎが見えた。それが可笑しくて、アレクシスは心の内で一つ静かに笑った。


(……この表情だ)


アレクシスの胸の奥で、何かがわずかに動く。

強さと拒絶、そして僅かな恐れを湛えたその瞳。

人が自らの意思で立ち向かおうとする瞬間にしか現れない、純粋な光。

それを見逃すほど、彼は鈍感ではなかった。


「だからと言ってはなんだが、そんな君に一つ、提案がある」


「……提案、ですか?」


警戒が、その声ににじんだ。

だが、怯えではない。理をもって向き合う者の静かな抵抗だった。


(さて、これを言ったら君はどう反応する──)


好奇にも似た感情が、久しく凍りついていた心の表層をくすぐった。


「リシェル・フォン・カロル。君を──王太子妃、ひいては王妃の座に命じよう」


静かな宣言。

その瞬間、部屋の空気が凍りついた。

リシェルの目が見開かれ、次の瞬間には鋭い声が放たれる。


「……嫌です!」


リシェルは即座に立ち上がり鋭い声で言い切った。


「丁重にお断り申し上げます!」


一拍の沈黙。

そして──。


「……ふっ」


アレクシスは小さく息を漏らした。

次の瞬間、低い声が喉の奥で震え、笑いが零れ落ちた。


「く……ふ、ふははっ……」


肩がわずかに揺れ、口元を手で押さえる仕草さえも、彼の中にある()の表情をかきたてる。声は低く、どこかくぐもっていてそれでも堪えきれずに滲み出る笑い。

それは決して人をあざけるものでも、作られた演技でもない。ただただ、込み上げてきた感情に抗えずこぼれ落ちた、本物の笑いだった。

リシェルは信じられないというように目を瞬かせた。


「……え? アレクシス殿下が、笑って……?」


ぽつりと呟いた彼女の言葉に、すかさずヴィンセが反応する。


「まさか……明日、天変地異でも起きるんじゃ……? 槍とか降ってくるとか、国が爆ぜるとか……」


「ヴィンセ、控えろ」


カミルがすかさずたしなめるが、その声もどこか呆けたようで力がない。ラウルさえ、驚きを隠そうともせずアレクシスを見つめていた。

やがてアレクシスは静かに息を吐き、笑いを収めた。彼は軽く額に手を添え、肩をすくめながらぼそりと呟いた。


(こんな感覚……いつ以来だ?)


頬の筋肉がわずかに軋む。

笑うという動作を、身体が忘れかけていた。


「……失礼。久方ぶりに笑ったせいか、顔が……つるな」


まるで自嘲のように、どこか懐かしい感情を確かめるように呟いたその声音は、これまでの彼が見せたことのない「人間の温度」を帯びていた。

誰もが言葉を失った。

ただそこにはかすかな余韻が残る。氷にひびが入ったような、けれど温かい余韻。リシェルは思わず曖昧な笑みを浮かべたが、その目は揺れていた。まるで今、目の前にいる人物が氷の王子ではなく、一人の青年として「笑う」姿を初めて見たかのように。


「……先ほどの発言も、冗談だったのですか?」


ようやく問いを口にしたリシェルに、アレクシスはふるりと首を横に振った。


「いや。私は、真剣に言っている」


穏やかにしかしその目だけは変わらず鋭い。

まるでさっきまでの笑いが幻だったかのように……けれど、そこにぬくもりが残っていた。


「では……なぜ、私を?」


リシェルの問いに、アレクシスは一拍の静寂を挟んでから、はっきりと答えた。


「君が語った過去とは異なる未来へ我々は進んでいる。そしてその中で、私が必要とするのは『過去の記憶』ではない」


タンザナイトの瞳がまっすぐに彼女を捉える。その眼差しは、迷いも揺れもない。

ただ冷静で強い。


「私にはすでに、剣も盾も揃っている。カミルも、ラウルも、ヴィンセも。王族の義務を果たすための力なら、こと足りている」


アレクシスは淡々と告げる。

けれどその言葉の奥に、確かにある何か(・・)が見えた。


「だが、それだけでは足りない」


その一言は、まるで鋭い刃のように空気を切り裂いた。


「私は常に、王国の未来のために冷酷であることを選んできた。感情を捨て、情を断ち、誰よりも合理的であることを求められてきた」


彼の言葉には、一切の悲嘆も戸惑いもない。そうすることが当然であり正義だった──そう語る者の声音。


「私の弱さで、民を危険にさらすわけにはいかない。だからこそ、私は徹底して強く在り続けた」


言葉に込められたのは、決して自分を憐れむための吐露ではない。それは、王としての覚悟と責任を背負い続けてきた者の静かな宣言。


「だが、国を守るために冷酷であらねばならぬのなら……私はその刃を振るう手を、誰より確かな()に収めておくべきだと、今はそう思う」


リシェルの呼吸が少しだけ浅くなる。

言葉の意味を理解し、目の奥が揺れた。


「慰めや情だけではない。必要なときに私の心を正す者。冷たさに溺れぬよう、理だけに堕ちぬよう、私を導く者──それが私にとっての『妃』の在り方だ」


アレクシスはゆっくりと、だが確実な意志を持ってリシェルへ言葉を投げかける。


「私はただ美しい妃でも、血を継ぐ器でもなく、この国と民を思い、己を投げ打ってでも未来を守ろうとする者を隣に迎えたい」


誰も言葉を挟まなかった。カミルも、ラウルも、ヴィンセさえも。まるで誰一人として、この静かな宣言に割って入ることを許されていないかのように。


「リシェル・フォン・カロル侯爵令嬢」


その名を静かに、だが厳粛に呼ぶ声に、リシェルははっとして身じろいだ。


「私と同じ高さから、この国を見てほしい。時に叱咤し、共に思考し、歩む先を共に決めてくれる存在として……私の傍に立ってくれ」


アレクシスの言葉には、命令も懇願もなかった。ただ、真っ直ぐな願いがあった。王としての責務を背負ったまま、それでもなお「共にあること」を望む強い意志が。それは誰よりも強く、同時に誰よりも孤独な男の、心からの提案だった。

静寂の中、リシェルの吐息がひとつ淡く空気を震わせた。長い思考の果てに彼女はゆっくりと瞳を上げ、そして静かに唇を開く。


「……私は、もう恋や愛に振り回されたくはありません」


その言葉には、過去を切り捨てるような冷たさが宿っていた。


「そうだろうな」


アレクシスの声は柔らかかった。

その苦みを、彼もよく知っていた。


「そして……私を裏切り、死に至らしめた王宮と再び関わるなど、まっぴらごめんです」


語気を強めて言い切ったその声音に、室内の空気がぴんと張りつめる。カミルが眉をひそめ、ヴィンセは居心地悪そうに身じろいだ。だが、アレクシスだけは動じなかった。ただ、変わらぬ沈黙と眼差しで、彼女の言葉をすべて受け止めた。

その静けさに支えられるようにリシェルは息を吸い、揺れる声で言葉を継ぐ。


「……でも」


その一言が小さく、確かに彼女自身の内側に生まれた矛盾と、決意の火種を語っていた。


「でも?」


アレクシスが問うように促す。

その声は決して強くない。

ただ、彼女の意志を聞くための静かな導きだった。


「……今を生きる私は、過去を変えた責任があります。命をもう一度与えられたなら、それを全うしなければならないと思っています」


その声音は弱くない。迷いながら、それでも歩き出そうとする者のまっすぐな強さがあった。

まるで彼女の奥にある覚悟を見抜くように、タンザナイトの瞳が細められた。その視線にリシェルもまた、しっかりと正面から向き合う。


「……アレクシス殿下。あなたの隣で、あなたが築く国を、この目で見届けたいと思います」


そう言った彼女の瞳にはもう、昔の恋に揺れた少女の影はなかった。

静かに立ち上がる。

ゆるやかにスカートの裾を手で持って足を一歩引き、そして優美な所作で膝を折る。

カロルの名に恥じぬ、侯爵令嬢としての見事なカーテシー。


「至らぬ点も多いかと存じますが──アレクシス王太子殿下の命、謹んでお受けいたします」


その言葉は、もはや命令に従う返答ではなかった。未来を共に歩むと決めた、ひとりの人間としての、自らの意思による『誓い』だった。


その瞬間、誰も言葉を発せなかった。


凛とした彼女の姿にカミルが息を呑み、ラウルはゆっくりと目を閉じ、ヴィンセでさえも言葉を飲み込んだまま肩を落とす。

そして、アレクシス──彼はリシェルを見ていた。

まるで何かを確かめるように 深く、静かに……。


(この目を……私は、知っている)


失望や裏切りを越えた先に宿る、折れない心の光。

それは、かつて自らが捨てた希望と同じ輝きだった。

アレクシスの胸に、微かな灯がともる。

氷の底に閉ざされていた小さな焔が、静かに息を吹き返す。

アレクシスは、わずかに視線を伏せた。

そしてその心の奥で言葉にならない何かが、音もなく動き出した。

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