氷の底に芽吹くもの
カチャン──。
乾いた音が、沈黙の部屋に微かに響いた。
銀の縁を持つティーカップとソーサーが触れ合っただけの音。それなのにその一瞬が、アレクシスを深い思索の底から引き戻すには十分だった。
視線の先では、リシェルが所在なげに指先を弄んでいた。交差させた指先が小さく動き、まるで少女のように落ち着かない。
「……リシェル嬢」
名を呼ぶと、彼女は肩を震わせて顔を上げた。長い睫毛がふるりと揺れ、淡い紅色の瞳がこちらを見た。
「どうやら君は……王宮という、渦巻くものの中心に放り込まれてしまったらしいな」
その言葉に、リシェルは表面上こそ礼儀正しく笑みを浮かべていたが、瞳の奥には「迷惑です」とでも言いたげな微細な揺らぎが見えた。それが可笑しくて、アレクシスは心の内で一つ静かに笑った。
(……この表情だ)
アレクシスの胸の奥で、何かがわずかに動く。
強さと拒絶、そして僅かな恐れを湛えたその瞳。
人が自らの意思で立ち向かおうとする瞬間にしか現れない、純粋な光。
それを見逃すほど、彼は鈍感ではなかった。
「だからと言ってはなんだが、そんな君に一つ、提案がある」
「……提案、ですか?」
警戒が、その声ににじんだ。
だが、怯えではない。理をもって向き合う者の静かな抵抗だった。
(さて、これを言ったら君はどう反応する──)
好奇にも似た感情が、久しく凍りついていた心の表層をくすぐった。
「リシェル・フォン・カロル。君を──王太子妃、ひいては王妃の座に命じよう」
静かな宣言。
その瞬間、部屋の空気が凍りついた。
リシェルの目が見開かれ、次の瞬間には鋭い声が放たれる。
「……嫌です!」
リシェルは即座に立ち上がり鋭い声で言い切った。
「丁重にお断り申し上げます!」
一拍の沈黙。
そして──。
「……ふっ」
アレクシスは小さく息を漏らした。
次の瞬間、低い声が喉の奥で震え、笑いが零れ落ちた。
「く……ふ、ふははっ……」
肩がわずかに揺れ、口元を手で押さえる仕草さえも、彼の中にある素の表情をかきたてる。声は低く、どこかくぐもっていてそれでも堪えきれずに滲み出る笑い。
それは決して人をあざけるものでも、作られた演技でもない。ただただ、込み上げてきた感情に抗えずこぼれ落ちた、本物の笑いだった。
リシェルは信じられないというように目を瞬かせた。
「……え? アレクシス殿下が、笑って……?」
ぽつりと呟いた彼女の言葉に、すかさずヴィンセが反応する。
「まさか……明日、天変地異でも起きるんじゃ……? 槍とか降ってくるとか、国が爆ぜるとか……」
「ヴィンセ、控えろ」
カミルがすかさずたしなめるが、その声もどこか呆けたようで力がない。ラウルさえ、驚きを隠そうともせずアレクシスを見つめていた。
やがてアレクシスは静かに息を吐き、笑いを収めた。彼は軽く額に手を添え、肩をすくめながらぼそりと呟いた。
(こんな感覚……いつ以来だ?)
頬の筋肉がわずかに軋む。
笑うという動作を、身体が忘れかけていた。
「……失礼。久方ぶりに笑ったせいか、顔が……つるな」
まるで自嘲のように、どこか懐かしい感情を確かめるように呟いたその声音は、これまでの彼が見せたことのない「人間の温度」を帯びていた。
誰もが言葉を失った。
ただそこにはかすかな余韻が残る。氷にひびが入ったような、けれど温かい余韻。リシェルは思わず曖昧な笑みを浮かべたが、その目は揺れていた。まるで今、目の前にいる人物が氷の王子ではなく、一人の青年として「笑う」姿を初めて見たかのように。
「……先ほどの発言も、冗談だったのですか?」
ようやく問いを口にしたリシェルに、アレクシスはふるりと首を横に振った。
「いや。私は、真剣に言っている」
穏やかにしかしその目だけは変わらず鋭い。
まるでさっきまでの笑いが幻だったかのように……けれど、そこにぬくもりが残っていた。
「では……なぜ、私を?」
リシェルの問いに、アレクシスは一拍の静寂を挟んでから、はっきりと答えた。
「君が語った過去とは異なる未来へ我々は進んでいる。そしてその中で、私が必要とするのは『過去の記憶』ではない」
タンザナイトの瞳がまっすぐに彼女を捉える。その眼差しは、迷いも揺れもない。
ただ冷静で強い。
「私にはすでに、剣も盾も揃っている。カミルも、ラウルも、ヴィンセも。王族の義務を果たすための力なら、こと足りている」
アレクシスは淡々と告げる。
けれどその言葉の奥に、確かにある何かが見えた。
「だが、それだけでは足りない」
その一言は、まるで鋭い刃のように空気を切り裂いた。
「私は常に、王国の未来のために冷酷であることを選んできた。感情を捨て、情を断ち、誰よりも合理的であることを求められてきた」
彼の言葉には、一切の悲嘆も戸惑いもない。そうすることが当然であり正義だった──そう語る者の声音。
「私の弱さで、民を危険にさらすわけにはいかない。だからこそ、私は徹底して強く在り続けた」
言葉に込められたのは、決して自分を憐れむための吐露ではない。それは、王としての覚悟と責任を背負い続けてきた者の静かな宣言。
「だが、国を守るために冷酷であらねばならぬのなら……私はその刃を振るう手を、誰より確かな鞘に収めておくべきだと、今はそう思う」
リシェルの呼吸が少しだけ浅くなる。
言葉の意味を理解し、目の奥が揺れた。
「慰めや情だけではない。必要なときに私の心を正す者。冷たさに溺れぬよう、理だけに堕ちぬよう、私を導く者──それが私にとっての『妃』の在り方だ」
アレクシスはゆっくりと、だが確実な意志を持ってリシェルへ言葉を投げかける。
「私はただ美しい妃でも、血を継ぐ器でもなく、この国と民を思い、己を投げ打ってでも未来を守ろうとする者を隣に迎えたい」
誰も言葉を挟まなかった。カミルも、ラウルも、ヴィンセさえも。まるで誰一人として、この静かな宣言に割って入ることを許されていないかのように。
「リシェル・フォン・カロル侯爵令嬢」
その名を静かに、だが厳粛に呼ぶ声に、リシェルははっとして身じろいだ。
「私と同じ高さから、この国を見てほしい。時に叱咤し、共に思考し、歩む先を共に決めてくれる存在として……私の傍に立ってくれ」
アレクシスの言葉には、命令も懇願もなかった。ただ、真っ直ぐな願いがあった。王としての責務を背負ったまま、それでもなお「共にあること」を望む強い意志が。それは誰よりも強く、同時に誰よりも孤独な男の、心からの提案だった。
静寂の中、リシェルの吐息がひとつ淡く空気を震わせた。長い思考の果てに彼女はゆっくりと瞳を上げ、そして静かに唇を開く。
「……私は、もう恋や愛に振り回されたくはありません」
その言葉には、過去を切り捨てるような冷たさが宿っていた。
「そうだろうな」
アレクシスの声は柔らかかった。
その苦みを、彼もよく知っていた。
「そして……私を裏切り、死に至らしめた王宮と再び関わるなど、まっぴらごめんです」
語気を強めて言い切ったその声音に、室内の空気がぴんと張りつめる。カミルが眉をひそめ、ヴィンセは居心地悪そうに身じろいだ。だが、アレクシスだけは動じなかった。ただ、変わらぬ沈黙と眼差しで、彼女の言葉をすべて受け止めた。
その静けさに支えられるようにリシェルは息を吸い、揺れる声で言葉を継ぐ。
「……でも」
その一言が小さく、確かに彼女自身の内側に生まれた矛盾と、決意の火種を語っていた。
「でも?」
アレクシスが問うように促す。
その声は決して強くない。
ただ、彼女の意志を聞くための静かな導きだった。
「……今を生きる私は、過去を変えた責任があります。命をもう一度与えられたなら、それを全うしなければならないと思っています」
その声音は弱くない。迷いながら、それでも歩き出そうとする者のまっすぐな強さがあった。
まるで彼女の奥にある覚悟を見抜くように、タンザナイトの瞳が細められた。その視線にリシェルもまた、しっかりと正面から向き合う。
「……アレクシス殿下。あなたの隣で、あなたが築く国を、この目で見届けたいと思います」
そう言った彼女の瞳にはもう、昔の恋に揺れた少女の影はなかった。
静かに立ち上がる。
ゆるやかにスカートの裾を手で持って足を一歩引き、そして優美な所作で膝を折る。
カロルの名に恥じぬ、侯爵令嬢としての見事なカーテシー。
「至らぬ点も多いかと存じますが──アレクシス王太子殿下の命、謹んでお受けいたします」
その言葉は、もはや命令に従う返答ではなかった。未来を共に歩むと決めた、ひとりの人間としての、自らの意思による『誓い』だった。
その瞬間、誰も言葉を発せなかった。
凛とした彼女の姿にカミルが息を呑み、ラウルはゆっくりと目を閉じ、ヴィンセでさえも言葉を飲み込んだまま肩を落とす。
そして、アレクシス──彼はリシェルを見ていた。
まるで何かを確かめるように 深く、静かに……。
(この目を……私は、知っている)
失望や裏切りを越えた先に宿る、折れない心の光。
それは、かつて自らが捨てた希望と同じ輝きだった。
アレクシスの胸に、微かな灯がともる。
氷の底に閉ざされていた小さな焔が、静かに息を吹き返す。
アレクシスは、わずかに視線を伏せた。
そしてその心の奥で言葉にならない何かが、音もなく動き出した。




