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死を越えた花嫁は運命を取り戻す  作者: さくる
スノルピスとスノードロップ
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星降る夜の邂逅

庭のスノードロップが満開を迎え、冬の名残を押しのけるように白く咲き誇っていた。春の訪れを告げるその光景の中で、リシェル・フォン・カロルは新しい運命を告げられる。

ユリウス・レオナール王子との婚約が、正式に整ったのだ。

温和で穏やかなユリウスは、王子妃教育のために離宮を訪れるたび、必ずリシェルに声をかけてくれた。「頑張ってるね」と微笑みながら自ら茶を淹れる姿に、侯爵家の令嬢として育ったリシェルの心は柔らかな光に包まれ、淡い恋心を抱くのはごく自然なことだった。


やがて、リシェルの住まいは王城の敷地内にある小さな離宮へと移された。そこは王家に嫁ぐ者のための王子妃の館。

教育も大詰めを迎え、王室の歴史に儀式、語学や外交、経済、慈善活動──そして、極めつけは閨の心得。侯爵家で教養を積んだリシェルですら、その過酷さに心が少しずつ削られていった。

鏡に映る自分の瞳が、日に日に色を失っていくのがわかる。

それでも、周囲の誰もが「エリセ殿下のように」と言った。

目の前には常に『完璧な次期王妃』と称される王太子妃・エリセの存在。すべての教育係が彼女を基準に、リシェルを測る。

公務で民の信頼を得ているエリセは、国内外の評判も高く誰から見ても理想の王太子妃だった。


(あの方のように、なれというの……?)


そうして、季節はいつの間にか夏を迎えていた。

星が降るように瞬く夜、リシェルは眠れぬまま庭園を歩いていた。静寂の中で、満開のハイドアレジアが淡く月光を反射している。その花弁に指を伸ばした、その瞬間──。


「……こんなところで、何をしている」


背後から響いた低く落ち着いた声。

驚いて振り返ったリシェルの目に映ったのは、王太子アレクシス・レオナールの姿だった。長いダークブルーの髪をハーフアップにまとめ、凛とした姿のまま静かに佇んでいた。


「……王太子殿下に、ご挨拶を申し上げます」


礼を取る声が、微かに震えた。リシェルは曖昧な笑みを浮かべ答える。


「……ハイドアレジアが綺麗だったので、見ておりました」


嘘ではない。だが、花だけを見ていたわけではなかった。この夜、彼女は何かを失い始めている自分から逃げたくて、ここに来たのだ。

アレクシスは無言で花に一瞥をくれ、静かに言葉を落とす。


「……見事な咲きっぷりだな」


思いがけない言葉だった。

冷徹と謳われる王太子が、花に言及するなど──。

リシェルは驚きに言葉を失う。

返事を探す間もなく、彼は背を向けた。


「励めよ」


たった一言。

その背中が遠ざかっていく。

けれど、なぜか胸の奥が温かくなった。

誰にも見えない努力を、誰かが見てくれている──。

それだけで、世界が少しだけ輝いて見えた。

それからも、アレクシスとは時折顔を合わせた。いつも無表情で、ただ「励め」とだけ言う男。

だがリシェルにとってそれは、何よりも深い励ましだった。

一方で、ユリウスとの関係も順調に見えた。

彼の袖から漂う甘く冷たい香り。撫でられるたびに感じたその香りが、なぜか心に残っていた。


(男の人なのに、こんな香りが好きなのね)


そう微笑んだ日々が、永遠に続くと思っていた。

──だが、それは唐突に崩れ去る。

聖夜祭の準備が佳境を迎える中、宮廷を震撼させる報せが届いた。


「王太子殿下が……執務室で、ご逝去されました」


耳を疑った。

あの強く、揺るがぬ存在が──まさか。

リシェルは知らせを聞くや否や、急ぎ執務室へ向かった。

そこで感じた違和感。


(……この香り──あの、甘く冷たい……)


あの夜、庭園でアレクシスとすれ違った香りとは異なるもの。だがその違和感は、部屋の中心で机にもたれるように眠るアレクシスの姿にすぐ掻き消された。

その瞳は閉じられ、永遠に戻ることはなかった。

その日を境に、事態は怒涛のように進んでいく。

王国を導くはずだったアレクシスの死。そして、代わって新たな王太子に任じられたのは、ユリウスだった。

当然、リシェルとの婚儀は延期されると思われた。


だが──。


「国王陛下の容態を鑑み、予定通り執り行う」


誰かがそう告げたとき、リシェルは胸の奥に小さな違和を覚えた。国を民を思い続けた人の死を悼む間もなく、新たな慶事を迎える。

何かがおかしい。

何か、大きな歯車がずれている──。


(……本当に、これでいいの?)


そんな不安に寄り添うように、ユリウスは優しく微笑んでくれた。「キミなら大丈夫」と言い、時には抱きしめてくれるその腕の中で、リシェルは安堵した。 それでも、どこかに残る影。心の片隅には、「励め」とだけ言ってくれた男の姿があった。


迎えた婚礼の朝。

大聖堂には王侯貴族が一堂に会していた。

王太后カトリーヌや重鎮、そして──エリセの姿。

アレクシスの死によって王室からの離籍が決まっていたエリセは、端の席に静かに座っていた。

扉の前で、リシェルはレイナルトと並んでいた。深紅の絨毯を前に、レイナルトが語りかける。


「リシェル。この結婚に……悔いはないか?」


「……え……?」


「お前の幸せが、私たちの願いだ」


その言葉にリシェルの心は波立つ。

返事をする間もなく扉が開き、荘厳な賛美歌が満ちる。深紅の絨毯の先には、純白の礼服に身を包んだユリウス。誰もが憧れる完璧な王子の、唯一の花嫁となる日。


(……私は幸せ、なのよね?)


そう、信じていたはずだった。

けれど──。


「それでは誓いの口づけを……」


司祭の声が響く。

ベールの向こうで、ユリウスが穏やかに微笑んだ。


「上の空って感じだね……体調が悪い?」


ベールが持ち上がり、彼の手が頬に添えられる。

優しいキス……軽く、温かい。


──何かが、違った。


次の瞬間、胸の奥に冷たい痛みが走った。

喉が締めつけられ、呼吸ができない。

必死に空気を求めても肺は凍りついたように動かず、視界がゆらめく。


(あ……毒──)


そう悟ったときには、すでに身体が冷たい石の床へと崩れ落ちていた。遠ざかる意識の中で香ったのは、あの甘く冷たい香り。そして視界の奥に浮かんだのは、ほくそ笑むあの女の姿。

そのすべてが闇に沈むその瞬間まで消えなかった。




「……これが、私の覚えている最期の記憶です」


静かに語り終えたリシェルに、部屋の空気が凍りついた。若き令嬢が経験するには、あまりにも過酷で残酷な過去。

ぬるくなった紅茶を口に含み、彼女は小さく息を吐く。その目に宿るのは、『過去を語る者』ではなく『未来を選び取る者』の光だった。


「……なるほど、な」


沈黙を破ったのは、アレクシスだった。

冷ややかな声に、リシェルはまっすぐ顔を上げる。


「……信じてくださるのですか?」


リシェルの問いに、アレクシスはまっすぐに淡い紅色の瞳を見つめる。


「信じる、信じないの話ではない」


「え……?」


「君が語ったことは、すべて真実。そうだろう」


彼は低く息を吐き、ネーヴァへと一度視線を向けたのち、再びリシェルへと目を戻す。


「だが、矛盾がある。今の君はユリウスと婚約していないし、私も結婚などしていない。君は……いったい、いつの時に戻ってきた?」


その問いに、リシェルの思考が止まる。

そして彼は、淡々と矛先を変えた。


「それに、そこにいる忠実な侍女が、君をそう易々と殺させるだろうか?」


(……そうだ。ネーヴァが、私を──)


なぜ過去のネーヴァが、自分を守りきれなかったのか。そもそもなぜその記憶がないのか。思考の迷路に入りかけたそのとき、アレクシスの視線が鋭くネーヴァを射抜いた。だが当の本人は、まるでそれすらも予期していたかのように小さくため息を吐き、静かに口を開いた。


「……変わったからでしょう」


「変わった?」


「今世でのお嬢様がお変わりになったように、周囲もまた……変わらざるを得なかったということです」


彼女の言葉に空気が再び凍りつく。緊張を和らげたのは、ヴィンセの軽い声だった。


「いや、俺はさ、別にリシェル嬢を疑ってるわけじゃ──って! やめて!その殺気、俺に向けないで!」


慌てて両手を振るヴィンセに、リシェルがネーヴァへと目をやると、彼はようやくため息をついて続けた。


「はあー……あの人ホントこわ。俺が言いたいのはだよ? アレクシス殿下の周りには俺やラウル、カミルがいたんだよ。それなのに、まんまと殺されてるって……俺たちマヌケすぎない?」


思わず、リシェルは目を見開いた。忘れていた過去の記憶が、ふと脳裏をよぎる。


「そういえば……あの頃、シュタイナー卿は静養の地へ向かわれる陛下に随行されていて、王都にはおられませんでした」


「ほお」


「ルーエン卿も辺境伯のご令嬢との婚約が整い、婿入りされていて……そちらの影さんについては……知りません」


言葉を濁すリシェルに、カミルは唸るように目を閉じたまま眉をひそめ、ヴィンセは天を仰いで肩をすくめる。


「そりゃあ、ガバガバですわな……」


そのやり取りを黙って聞いていたアレクシスは、背もたれに深く身を預け静かに呟いた。


「……つまり、実権はすでに他に渡っていたということか」


彼の声に、場の空気がぴんと張り詰める。


「……ラウルでなければ、私の側にいたのは誰だった?」


そう問うたアレクシスにリシェルは一呼吸置き、まっすぐに顔を上げて答えた。


「──ベルンハルト・グラント卿です」


その名が落ちた瞬間、部屋の空気がさらに冷えた。

アレクシスは目を細め、低く呟く。


「……グラント伯爵は、カスティア公爵家の傍系だったな」


ラウルが静かにうなずく。


「はい」


「……そうか。ベルンハルトも、一枚噛んでいたか」


その言葉を最後にアレクシスは目を閉じ、何も語らなくなった。誰もが言葉を失い、それぞれの思考の海へと潜っていく。リシェルもまた、胸の奥にざわつくものを感じていた。


(……私、とんでもないものに……触れてしまったのでは……)


そろそろ限界かもしれない。リシェルはそっとネーヴァに視線を送った。だがネーヴァは、わずかに首を横に振る。


(……え、ここで退席、ダメ……?)


ネーヴァの無言の制止に、リシェルは肩を落とし、そっと深呼吸をひとつついたのだった。

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