信じるという名の告白
冬の気配が色濃く残る回廊に、小さな音がこだましていた。カツン、カツン──控えめなヒールの音が、高い天井に反響して、ひそやかな旋律を奏でる。音の主はリシェル。肩を落とさず、背筋をすっと伸ばして歩くその姿は、氷の静けさの中でひときわ際立っていた。
彼女がこうして王宮へ向かうことになったのは、ほんの数日前のこと。
事の発端は、カロル侯爵邸に届けられた一通の手紙だった。封蝋に刻まれていたのは、ローレルリースの中心に花弁が幾重にも重なるピオニーの紋章。それは、この国でただ一人、アレクシス・レオナールを示す印だった。
「アレクシス殿下の……紋章、よね?」
指先で封を撫でながら、リシェルは小さく呟いた。
侍女たちは息を飲み、部屋の空気がひとつ張り詰める。
「お嬢様、とりあえず開封してみては? こちらをどうぞ」
リィナが差し出すペーパーナイフを受け取り、リシェルは封を切る。切り口からふわりと立ち昇ったのは、ハーブのような清涼感に渋みとほのかな甘さを含んだ香りだった。
(この香り、アレクシス殿下の……)
確信と共に、リシェルの胸に淡い波紋が広がら。文字を追ううちに、心臓の鼓動が早まった。
「……会いたい、ですって……?」
驚きに目を見開き手紙を手に立ち上がると、くるりと後ろに振り返る。
「ねえ、私の見間違いかしら、リィナ?」
「えっと、どれどれ……はい、そう書いてあります!」
「……ネーヴァ?」
「書かれています」
「…………マルタ……?」
頼るように視線を向けると、主侍女マルタは柔らかく微笑み、静かに頷いた。
「ええ、お嬢様。間違いなく『会いたい』とございます」
「……『召し出す』ではなく?」
「お嬢様、いい加減になさいませ」
呆れ交じりの微笑と共にマルタに窘められ、リシェルは改めて手紙を見つめる。形式に則りながらも、そこには確かに私的な色がある。誰かの意志が、温度を帯びて伝わってくる。『話が聞きたい』『会いたい』。その言葉に、胸の奥が妙にざわついた。
(この感じは、何……?)
ドレスの色を決める声や、髪型についての囁きが背景で交わされる中、リシェルは胸にそっと手をあてた。
そして今──。
王宮の長い廊下を進む彼女の前で、近衛の騎士がぴたりと立ち止まった。リシェルが問いかけるより先に、視線の先に揺らめく金の光が目に入る。風をはらんだように歩いてくるのは、第二王子ユリウス・レオナール。まるで舞台に立つ役者のように鮮やかで、影を纏っていた。
「ごきげんよう、リシェル嬢」
柔らかな笑みの裏に、冷えた色が滲む。傍らの護衛セドリックが無言で頭を下げた。
「ごきげんよう、ユリウス殿下」
礼儀正しく一礼を返しながら、リシェルはその目に宿る何かにわずかに身を固くした。
「ああ、どうぞ楽にして。兄上のところへ向かうのかな?」
「ええ……」
ユリウスはリシェルをじっと見つめ、口元の笑みを消す。
「不思議だなあ……君は、どこまで僕を知っているんだろうね?」
「え……?」
「僕のこと……避けてるよね? それに、その目……」
「目、ですか?」
「そう、その目はまるで……先を知って──」
言葉と共に手が伸びる。指が頬に触れようとした、その刹那──。
「ユリウス殿下」
低く引き締まった声が響く。
リシェルに触れる寸前でユリウスの手は止まり、彼は静かに引いた。リシェルが目を開けると、そこにはカミル・ルーエンの姿があった。アレクシスの忠実なる護衛であり近衛騎士。
「カロル侯爵令嬢は、王太子殿下のご来客です。お戯れはご遠慮いただきたい」
鋭い声音とともに、すっとリシェルの前に立つ。
「セドリック・アルヴァン」
「はっ」
「お前の責務を果たせ」
カミルの鋭い叱責に、セドリックは肩を震わせながらユリウスの腕を引くようにしてその場を後にする。
その一部始終を見届けていたリシェルは、ふとネーヴァを見遣る。
「……貴方も、ご自身の責務を果たすべきです」
無感情な声色で放たれた言葉が、今度はカミルに向けられる。
「もう少し遅ければ、わたくしが対処していました」
カミルの表情がわずかに歪み、次の瞬間には片膝をついた。
「お迎えが遅れ申し訳ありません。ここからはカミル・ルーエンがご案内いたします」
「ルーエン卿、ありがとうございます。よろしくお願いしますね」
その一言に、カミルはわずかに微笑みを浮かべた。
皇太子執務室は、変わらぬ場所にあった。ただその名称が、第一王子のそれから王太子のものへと変わっただけである。
濃紺の絨毯と木の家具に囲まれたその室内のソファに、リシェルは静かに腰を下ろしていた。目の前にはティーカップ、そしてアレクシスの姿がある。
今日の彼は、黒のシャツの上から大ぶりなカーディガンを羽織り、ダークブルーの髪を緩く編み片側に流していた。眼鏡をかけ、黙々と書類に目を通している。
「……もう少しで終わる」
「お構いなく」
静かな会話の傍らで、スコーンとラズベリージャムがが運ばれてくる。
「好きでしょ? ラズベリーのジャム」
「まあ、あなた……何でも知っているのね」
「まあね」
軽口を叩くヴィンセに微笑を返すと、無表情なネーヴァが冷ややかに補足した。
「ラズベリーは二番目に好きなものでございます。一番はマーマレードです」
どこまでも無表情に、それでも的確に答えるネーヴァ。ヴィンセが文句を言う間もなく、ラウルの拳骨が振り下ろされる。
その様子を微笑ましく眺めながら、リシェルはアレクシスの背後、窓の外を見つめた。
(……平和、なのよね?)
過去の記憶は遠のき、アレクシスも自分も今を生きている。ユリウスは変わらぬままだが、あのエリセの影はもうどこにもない。
なのに、なぜ。
胸の奥でざわめくものの正体がわからなかった。
手を胸元に当てると、微かに漂う香りが鼻をくすぐる。
──渋みと甘さを含んだハーブの香り。
ああ、これが……この部屋本来の香りであり、アレクシスの香りなのだ。そう実感したとき、リシェルの胸にはまたひとつ新たな波紋が広がった。
「……リシェル嬢」
低く落ち着いた声に、リシェルははっと意識を引き戻された。目を開けば、そこにはソファに腰かけたアレクシスの姿がある。
「お仕事は、もう……?」
「急ぎのものは、終わった」
すでに眼鏡を外した彼はラウルから手渡された紅茶を一口含み、正面に座るリシェルと向き合った。
そして丁寧に姿勢を正し、深く頭を下げる。
「リシェル・フォン・カロル侯爵令嬢。この度のこと、心より感謝申し上げる」
その姿にリシェルは息を呑み、慌てて立ち上がる。
「ア、アレクシス殿下! お顔をお上げください。私などに……!」
慌ただしく座ったり立ったりする姿に、アレクシスはごく微かに笑みを浮かべた。
「いや。君のおかげで、私は今ここにいる」
その言葉は静かに、だが確かにリシェルの胸に届いた。
「……本当に、よかった。あなたが……生きていてくれて」
震えるような小声を、アレクシスは丁寧に受け止める。
「だからこそ、君に尋ねたい」
「……え?」
「これまでの君の言動を見て、私はある仮説に辿り着いた」
静寂が室内を満たす。
「君は……未来を視たのではない。未来を生きてきたのではないか?そして──戻ってきた」
世界が凍りついた。
呼吸が止まり、瞳が揺れる。
「……でん……か……」
喉が詰まり言葉にならない。
怖かった。
疑われるのも否定されるのも。
「教えてくれないか」
(……あなたは、信じてくれない。だって、あなたはいつだって──)
「信じる」
ぱっと顔を上げる。
アレクシスはまっすぐに彼女の瞳を見つめていた。
一言、短く真っ直ぐな声。
「君の言葉なら、私は信じよう」
まっすぐに見つめるタンザナイトの瞳。
その視線に、リシェルの中の何かがほどけていく。
静寂の中、二人は見つめ合ったまま──。
リシェルは大きく息を吸い、そしてゆっくりと吐き出した。
覚悟を帯びた瞳で、そっと口を開く。
──未来を語るために。




