ユリウスの選択
絨毯に吸い込まれる足音が、やけに澄んで響いていた。
王宮の奥、いまや誰も使わぬはずの小客間。そこは今、監視付きの軟禁部屋として利用されている。
ユリウス・レオナールは、その扉の前で立ち止まった。
中にいるのは、かつて堂々と王妃の座を狙い、兄の隣に並び立った女。
エリセ・フェルデリア。
扉を開けた瞬間、すべてが終わるかもしれない。
あるいは、そこから始まるのかもしれない。
(……ま、どっちでもいいや)
そんなことを思いながら、彼はノックすらせずに扉を押し開けた。きしむ音が空気を裂き、驚いたように顔を上げたエリセと目が合う。
「ユリウス……」
その声は、縋るように震えていた。
ここでは唯一、彼だけが味方だと信じているのだろう。ユリウスは笑みも浮かべず、静かに部屋へ足を踏み入れる。
「久しぶりだね、エリセ」
名を呼んだ瞬間、彼女の表情がぱっと明るくなった。立ち上がる仕草は、かつての艶やかな女王候補ではなく、救いを求める哀れな人間のそれだった。
その光景に、ユリウスは一瞬だけ口元を引きつらせる。
「僕、言ったよね?」
不意の言葉に、エリセが小さく眉をひそめた。彼は首を傾げ、かつて彼女が愛した無垢な少年の仕草を真似る。
「『君は、何があっても僕の味方でいて。味方じゃないってわかったら、僕、拗ねちゃうから』って」
懐かしい記憶の断片が、彼女の瞳を揺らした。
「選んだわ……私は、貴方を選んだの。だから、アレクシス殿下を──」
そこまで言いかけて、言葉は喉で途切れた。
けれど、それで十分だった。
ユリウスは声を上げて笑った。あどけなく、無邪気に……まるで子供が秘密を打ち明けるように。
「だからさ、僕は言ったんだよ、『僕の味方で』って!」
「……なにが言いたいの?」
怪訝そうな顔。まだ理解が追いついていない。
ユリウスはふわりと歩み寄り、エリセの耳元へ唇を寄せた。
「君が本当に味方したのは──自分でしょ?」
その瞬間、彼女の身体がわずかに強張った。
「僕のこと、幼くて操りやすいと思ったんでしょ? だから、君の思い通りに振る舞ったよ。甘くて、優しくて、従順で……まるで、君の望むユリウスそのものだったよね」
「……違う……私は、そんなつもりじゃ──」
否定は震え、瞳の奥に別の感情が浮かぶ。
恐怖。
ユリウスはそれを理解し微笑んだ。
「ねえ、エリセ」
彼は唇の端を上げる。だが、その目は一滴の笑みも宿さない。
「君、僕のこと好きだった? それとも、自分を映してくれる鏡として気に入ってただけ?」
エリセの顔から血の気が引いていく。
「貴方……狂ってる……」
「うん。僕もそう思うよ」
あっさりと頷いてから、ユリウスは背を向ける。扉に向かって歩きながらふと立ち止まり、再び彼女を振り返った。
その笑みは、完璧だった。
エリセが愛してやまなかった優しいユリウスの仮面──その最終演技。
「僕はね、自分が一番好きなんだ。君のことなんて、最初から……ただのおもちゃ。愛してなんかないよ。勘違いしないで」
まるで、靴紐でも整えるようにさらりと。
そして──
「僕は君の求める、愛してやまないユリウスの仮面をかぶっただけさ」
エリセの叫びが響いた。
だが彼は振り返らず、静かに扉を閉める。
それを背に受けながらユリウスは一人、静かな廊下を歩く。どこか軽やかで、解放されたような足取り。それでも、心の奥底に渦巻くものはまだ名を持たなかった。
「兄上なら……分かってくれたかな? 僕のこと」
誰にも聞こえない問いかけ。
答えを期待しているわけではない。
ただ、胸の奥にちらついた微かな感情──安堵のようなものを、自覚したくなかった。
「やっぱり僕は……兄上の下にいるほうが、楽でいいや」
歩き出す足取りは軽く、それは皮肉なほど自由に満ちていた。
◆
夜は深く、王宮の空気は研ぎ澄まされていた。
アレクシスの私室に隣接する書斎では、燭台の炎がひときわ静かに揺れている。
紙の上を滑る羽ペンの音だけが、密やかに時を刻んでいた。手元の便箋には、整然とした筆跡で綴られた言葉が並ぶ。
──リシェル・フォン・カロル嬢へ。
それは公文書ではない。
だが、私的な情を記すほど、彼は自らの感情に正直ではなかった。それでも、一行だけ筆がわずかに揺れている。
《……君に話がききたい》
その一文を書き終えたとき、扉をノックする音が響いた。
静寂を破るように、けれど遠慮がちとは言えないよく通る音。
「入れ」
短く告げると、扉がゆっくりと開く。
そこに現れたのは金糸の髪を夜の光に揺らす青年、ユリウス・レオナールだった。
「こんばんは、兄上。まだお仕事中だった?」
いつもと変わらぬ調子で笑いながら入ってくるその姿に、アレクシスは羽ペンを置き、わずかに視線を上げる。
「お前……エリセ王女に会ってきたらしいな」
問いではなく事実の確認。
その言葉に、ユリウスは驚きもせず肩をすくめ、悪びれもせず微笑む。
「もう知ってたんだ。兄上の影って、本当に優秀だね」
無邪気な笑みを浮かべながら近づいてくるその弟に、アレクシスは無言のまま椅子から立ち上がる。
仮面をかぶったままの弟。
弟であろうとし続けた青年。
「お前の処分が決まった」
淡々とした声が、部屋の空気を凍らせる。
ユリウスは軽く瞬きをし、それから微笑んだ。
「はい」
返答は穏やかだった。
だが、次の言葉は容赦なく降り下ろされる。
「ユリウス・レオナール。王位継承権を剥奪する」
部屋に沈黙が落ちた。
それを最初に破ったのは、ユリウスの柔らかな声だった。
「かしこまりました」
まるで舞踏会で招待状を受け取ったような所作で、彼は胸に手を当て、最敬礼をする。その姿は、皮肉にも完璧な王族のそれだった。
アレクシスは、黙ってその様を見つめていた。ユリウスが顔を上げ、表情にわずかな笑みを浮かべる。
「兄上は変わったね。でも、変わらないところもある」
「何が言いたい?」
問いながらも、アレクシスの胸に微かな痛みが走る。ユリウスの笑みが深まり、声が一段低くなる。
「僕のことを、一番よく理解してくれてるってこと」
その目。
無邪気さの奥に潜む仄暗く冷たい感情。
アレクシスは、思わず目を伏せた。
幼い頃から一緒に育った弟。その笑顔に欺かれながら、それでもどこかで彼の本質に気づいていた。
(やはりな……)
「お前は……私の弟。ただ、それだけだ」
静かに、それだけを告げる。
その一言に、ユリウスの表情が一瞬だけ揺れた。
しかしすぐに笑みに戻る。
「……了解です、兄上」
扉が開き足音が遠ざかっていく。
残されたアレクシスは、しばし立ち尽くしていた。
風が揺らした書簡の端がめくれ、机に置かれた便箋が微かに震える。
アレクシスは深く息を吐き、再び羽ペンを手に取る。
インクが滲む先に、短い一文が書き足された。
《君にあいたい》
そう綴ってから封をした。
この夜──ユリウス・レオナールは王位継承権を失い、ただの王子として王宮に留まることとなった。
そしてアレクシスは、ひとつの情を断ち切り、その冷たくも確かな意志を抱いて次なる選択へと歩みを進める。




