氷の傍に立つ影
「……美しき花には棘がある……ですかね?」
突然の声にアレクシスは微かに目を細めた。誰よりも静かに、誰よりも自然に背後へ忍び寄れる男ヴィンセ・マルグリット。赤茶の癖毛をひとつにまとめた諜報員は、口元に笑みを湛えながら、アレクシスの隣へと現れた。
「……報告は?」
「ああ、俺の言葉は無視ですか。なるほど、了解です」
軽口を叩きながらも、ヴィンセの琥珀色の瞳は場を鋭く走査していた。
「カロル侯爵令嬢、やはり普通ではありません。視線の流し方、立ち居振る舞い、周囲の観察……すべて計算されている。特にあの方へは、予期していたかのように動いていました」
「……フェルデリアの王女か」
「あたり。令嬢はあの王女に微笑みを向けながらも、心はまったく笑っていない。目線に交わらぬ緊張がありました」
アレクシスは黙したまま中央を見やる。
淡い陽光の中、花を模した菓子が並ぶ円卓のまわりには華やかな貴族たちが集い、優美な言葉を交わしていた。その中心、完璧な理想の王妃を演じる王女。そしてその隣で控えめながら存在感を放つ、ウェステリア色の髪の少女、リシェル・フォン・カロル。
「それと、侍女筋にも妙な動きがあります」
ヴィンセが低く囁いた。
「影か間者か……それとも、別の仕掛けか……」
アレクシスはわずかに眉を動かした。
だが問いはせず命じる。
「調べろ。まだ、気づかれるなよ」
「了解です。あと、ひとつ気になることが……」
ヴィンセは再び視線をリシェルに向ける。
「彼女の視線は、誰かを見定めようとしています。あれは狩る者の目ですよ、殿下。誰を、何のために追っているのか」
アレクシスの瞳が、ほんのわずかにリシェルの頬を撫でた風に動いた。
「……ならば、狩られる側に立たねばいいだけの話だ」
「まさか、氷の王子が狩られる側に甘んじるとは」
ヴィンセは茶化すように言って、からかいの笑みを浮かべた。だがすぐに姿勢を正す。
「ご命令通り深入りはしません。けれど、面白くなりそうですね。あの子、大輪の花を咲かせますよきっと……棘付きの、ね」
「……戯言を」
アレクシスの言葉に、ヴィンセは肩をすくめてから背を向ける。
「観察こそ我が職務。さ〜て、氷の王子のお側にいるには、ここは少々暑すぎるようで……」
そう言い残し、ヴィンセは再び群衆の波へと紛れていった。まるで最初からそこにいなかったかのように。
アレクシスはその背を見送らず、ただ静かに再びリシェルの方へと視線を戻す。彼女の透き通るような淡い紅色の瞳が、誰にも見えない刃のように世界を見据えているのを彼は確かに感じ取っていた。
◆
人々の笑い声、華やかな言葉、香の混じったあたたかな風──すべては薄い膜を隔てた遠い音のようだった。ネーヴァは柱の陰に身を置き、卓越した気配遮断術で周囲に溶け込んでいた。
誰も彼女の存在に気づかない。
いや、気づかせてはならなかった。
(お嬢様の視線……また、あの男に)
リシェルの瞳が向く先。
冷たいタンザナイトの瞳、第一王子アレクシス・レオナール。
(……何が変わったのですか、お嬢様)
目に映る令嬢は、以前よりも静かで賢く鋭い。あの無垢で臆病だった少女が、今では誰よりも冷静にまるで誰かを導くように歩いている。「氷の王子」の視線を受け止め、反らすことなく礼節と内面の鋼で渡り合う少女。その姿に、ネーヴァは確かに異変を感じていた。
彼女はリィナとは違う意味で察していた。
マルタの言葉よりも早く、リシェルが変わったことに……いや、何かを思い出していることに気づいていた。
(あの方の命は護ること。ならば、この変化も……見届ける)
そのとき微かな違和を感じた。
視線。
無数の貴族たちの中から、一筋の探るような気配がリシェルへと注がれている。
ネーヴァの目がわずかに動いた。
(見つけた)
銀食器に反射した僅かな視線の動き──あの男、ヴィンセ・マルグリット。
(影が動いた……ならば、こちらも)
淡い藤色のドレスに身を包む主の影として、ネーヴァはそっと歩みを進めた。沈黙の護衛は、音もなく視線の先へと回り込む。もしそれが、リシェルにとって脅威であるならば……自分の刃が闇の中で咲くだろう。
それが彼女に課された存在理由だった。
◆
王宮の本館から小道を隔てた東の離宮。
そこは花が咲き誇る静謐な空間だった。白壁に薔薇の蔓が這い、窓辺にはカルミアの花が揺れている。広間の一隅でエリセは、陽の落ちかけた空を見つめていた。ロゼが注がれたクリスタルグラスを持つ指が、わずかに止まる。
「姫様、今日の舞台の仕上がりは……ご満足いただけましたか?」
そっと声をかけたのは、女官長クラリッサ。フェルデリアから連れてきた、長年エリセに仕える無表情の侍女。その実、影である彼女のその言葉には微かな探りが込められていた。
「ええ、ほぼ予定通りよ。ただ……ひとつだけ予想外があったわ」
エリセはグラスをそっと唇に運びながら、視線を赤い液面へと落とす。淡い香りが、雪の香と相まってどこか冷たく美しかった。
「リシェル・フォン・カロル。あの令嬢……一体どこであそこまで仕上げられたのかしら」
「変化には、理由があるものです」
言葉を差し挟んだのは、書簡を手にしたノエル・サリヴァン。レオナールからエリセに付けられた文官だった。扇子を軽くたたく仕草の下に、皮肉な笑みが浮かぶ。
「表舞台を離れていた貴族令嬢が、これほどの変化を見せるとは……裏に何があるのか調べてみる価値はあるかと」
「当然よ。目立ちすぎた花は、手折られる運命にあるもの」
エリセは椅子から立ち上がり、白絹の裾を払うように歩き出す。その背をクラリッサが静かに追った。
「それに、アレクシス殿下の目が……ほんの少しだけ動いたように見えたの」
その一言に、室内の空気がわずかに張り詰めた。
「……動かぬ氷が?」
ノエルがわずかに目を細めたとき、扉の向こうから侍女が静かに現れる。彼女は小声で耳打ちをし、エリセは微かに頷いた。
「そう、だから油断はできない。彼もまた、王国という舞台の中で最も冷たく鋭い刃だから」
エリセは立ち止まり、調度の上に飾られた黒薔薇の花瓶を見つめる。
「リシェル・フォン・カロル。あなたは何を知り、何を望んでこの舞台に立ったの?」
囁きのように紡がれた言葉は、やがてカーテン越しの風に紛れ静かに消えた。




