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死を越えた花嫁は運命を取り戻す  作者: さくる
スノルピスとスノードロップ
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アレクシスの涙なき決断

「……以上が、この度における報告書となります」


整然とした声音と共に、分厚い報告書の束がアレクシスの前へ差し出された。差し出したのはラウル。アレクシスは無言でそれを受け取り、かけていた眼鏡をそっと外す。指先で目頭を軽く押さえ、一つ深く息を吐いた。


「……クラリッサ・ヴェールについては、ヴィンセが?」


タンザナイトのような瞳が報告書の一行に留まり、部屋の一隅でくつろいでいる男へと向けられる。


「ま、まさか! そんなの無理っスよ!」


クッキーを口にしていたヴィンセは、慌ててそれを飲み下すと両手をぶんぶんと振りながら笑って見せた。


「短期間で他国の女官長の素性なんて、そんなの俺に集めて来いって言われたら、さすがに泣いちゃうってば! しかもエリセ王女の懐刀でしょ? 無理無理、頼む方がどうかしてる!」


芝居がかった口調で肩をすくめ、今にも崩れ落ちそうな仕草をするヴィンセに部屋の空気がわずかに緩んだ。しかしその中で、カミルとラウルはどこか呆れた視線を交わす。


「いや〜……お使いがここまで多岐に渡るとは思わなかったっスよ。俺、アレクシス殿下の影で本当によかった! 感謝っス!」


軽口の直後、鈍い音が響いた。

ラウルの拳が、正確な位置に落ちたのである。


「……言うに事欠いて、よく喋る」


「いってぇ!ラウルさん、相変わらず鉄拳制裁すぎ……!」


笑い混じりのやり取りの向こうで、アレクシスは再び視線を報告書へ落とす。その中には、事件の発端となったある贈り物の記録があった。


事の始まりは聖夜祭の数日前に遡る──。

あの日、アレクシスのもとに届いたのは藤色の封筒と小瓶。筆跡には覚えがあった。封を切ると、丁寧な文字で綴られた警告が現れた。


《この液体は中和薬です。スノルピスの毒に対する拮抗作用があります。スノードロップの毒から抽出した成分を含みますが、殿下ならば問題ないはず。近く、何らかの動きがあると思われます。お気をつけて──》


差出人は、リシェル・フォン・カロル。


彼女の読みは、完璧だった。

そしてその一通が、王宮に潜む疑念と策謀を静かに水面下から引き上げた。波紋は次々と広がり、やがて誰も逃れられない渦を生んだ。


処遇の決定は速やかだった。

まず、エリセ・フェルデリアとの婚約は正式に解消。彼女は祖国フェルデリア王国へ送還され、王室の名のもとに裁かれることとなった。クラリッサ・ヴェールには薬殺刑が、マティアス・ロウエルには鉱山での強制労役が言い渡された。ドレクス公爵に至っては、爵位を剥奪された上で処刑。もはや平民としての扱いすら容赦なかった。

カトリーヌも例外ではない。形式上は心身の不調を理由とした「療養」という形で、王家が所有する僻地の塔へと監視付きで幽閉されることが決まった。

一連の決裁文書を読み進めるたび、アレクシスの胸中に流れるのは、怒りではなく冷たい虚無だった。正義などというものは、権力の下ではあまりに脆い。


「……ユリウス殿下なのですが」


ラウルの声が低く沈む。アレクシスは唇をわずかに引き結び、言葉を呑み込んだ。

ユリウス──血の繋がった弟。

毒を含んだ茶をアレクシスに手渡したのは、確かに彼だった。だが、その手に悪意はなかった。媒介にされたにすぎない。本人の関与を証明する証拠もない。だからこそ、処遇は慎重に判断されねばならなかった。


「王位継承権の剥奪が……妥当か」


静かに漏れた独白は、誰に向けた言葉でもなかった。

窓辺に立つその背に、誰もが言葉をかけられずにいる。けれど、アレクシスはすでに決めていた。感情では国は動かせない。情はあれど責務が上回る。それが、王の器を求められた者の宿命であり覚悟だ。


窓の外には、冬の陽が傾き始めていた。

その風景をぼんやりと眺めながら、アレクシスは静かに口を開いた。


「……あいつは、無垢でも愚か者でもない。私はそれを、誰よりもよく知っている」


独白のような声が、部屋に沈む。ラウルもカミルも黙したまま、ただ主の沈黙を受け止めている。


「ユリウスは分かっていた。茶葉に毒が混ざっている可能も、その意図も。気づかぬふりをして、それでも私の元にそれを運んだ。私がそれを飲んで死のうと、生き残ろうと、どちらでもよかったんだろう。きっとどちらでもな」


唇に皮肉げな笑みが浮かぶ。

感情ではなく、記憶の整理。

冷たい理性の底に、かすかに疼く痛み。


「あいつは常に、自分が一番(・・・・・)であることに忠実だ。私にも他人にもそうあろうとし続けてきた。兄という存在が自分の前に立つことを、ずっとあいつは許せなかったのだろう」


それは非難ではなかった。

ただ、事実の確認。

感情を削ぎ落とした事象の整理。

アレクシスは再び視線を窓の向こうへ戻す。

雪は止んだ。けれども、冷たい風が石造りの宮殿を鳴らしている。


「……お祖母様も、私を見限っていたのだろう」


その言葉にだけほんの少し重さがあった。


「最初の頃は、エリセ王女との政略婚をもって私を王位に据えるつもりではあったんだろう。だが、最悪の形で目論見は外れた。ならば私は不要。綺麗に静かにそして確実に……消えてほしかった、次のために」


しかし、あの冷徹な王太后すらも読み違えたのだ。

アレクシスは視線を落とす。


「お祖母様は、エリセ王女が私を殺そうとしていたことに気づいた。──だから、カロル侯爵令嬢に矛先を変えた。誰よりも次に消すべき者を、祖母自身が選び取ったのだ。あの方らしい選択だ」


机の上に置かれた手紙に目を落とす。あの日、リシェルから送られた藤色の封筒と乳白色の液体。それがなければ自分は、今ここにはいなかったかもしれない。


「……皮肉なものだな」


彼は低く息を吐いた。


「この王宮に生きる誰もが、善人などではない。私もユリウスもお祖母様も。そして──」


一瞬、言葉を切ったあと目を細める。


「……カロル侯爵令嬢さえもな」


だが、彼の声音にはどこか柔らかな響きが滲んでいた。心の奥底を、少しだけ熱が撫でていく。冷たい硝子のような沈黙が、わずかにひび割れる。けれどそれを誰にも悟らせまいと、彼はすぐに視線を戻した。


「……報告は以上だな。後は、私が判断しよう」


ラウルの答えを待たずに、アレクシスは再び眼鏡をかけた。

書類の束に視線を戻す。

その瞳に宿る光は、王のもの。

冷徹であり、そして揺るぎない。

たとえ肉親を斬ることになろうとも、国を護るために情を棄てる。それが、自らに課した宿命だった。


──そして、裏ではもうひとつの事実があった。

クラリッサに関する核心的な情報のいくつかは、別の手によって持ち帰られていた。それを知るのは、今のところごく限られた者のみ。だがアレクシスはそれが誰によるものか、すでに察していた。


リシェル(彼女)は一体、どこまで読んでいたのか──。


沈黙の中、アレクシスはその先にある真実を見据えていた。

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