完璧という名の孤独
かつてのエリセの部屋は、陽光が絹のカーテン越しに降り注ぐ、花の香りに満ちた空間だった。金の縁を持つ鏡、真珠の装飾を散らした寝台、朝露を含んだ庭のバラ。完璧な王妃候補にふさわしいと称えられたその部屋は、今ではもう、遠い幻のように彼女の記憶の底で霞んでいる。
今、彼女がいるのは狭く、無機質な石壁の客間。
高窓から射すわずかな光が、冷たい床の上に淡く滲んでいた。
家具は最低限、花も香もなく足音すら虚ろに響く。まるで、罪人を閉じ込める牢のようだった。
『完璧な王妃』になるはずだった自分が、いまや罪人として国へ返されようとしている──。
その皮肉な現実に、エリセはもう、笑うこともできなかった。
(……どこで道を誤ったのかしら)
わからない。
ただ冷たい石壁を見つめるうちに、思考はいつしか過去へと沈んでいった。
エリセ・フェルデリアは、王の側妃が産んだ王女だった。
正妃の子ではなく、誰からも愛されなかった。
けれど、その外見だけは母譲りで美しかった。銀白の髪に雪のように透き通った肌。そしてフェルデリア王家特有の碧眼。
それはまるで正妃の子であればよかったと、誰もが口には出さぬ言葉で彼女を責める証だった。
もし違う母から生まれていたなら。
もし正妃の子であったなら。
ほんの少しでも、父に愛されたのなら──。
それだけできっと、彼女の人生は違ったものになっていたはずだった。
だが現実は残酷だった。
正妃はすでに二人の王子を産んでいたが、二人目の難産の後、王は新たな子を望まなくなった。そして正妃を深く愛していた王は側妃を、そしてその腹に生まれたエリセを、あたかも存在しないかのように扱った。エリセの名を口にすることもなく、ただ政治の道具として扱われる日々。厳格な教育係、敬意の欠片もない使用人たち。そんな世界の中で、彼女に無償の愛を注いでくれたのは母ただ一人だった。
だがその母も彼女を裏切った──遺書と共に命を絶ったのである。
『スノルピスは、長く香りに慣れた身体にこそ効く毒。私は、愛されなかったことに耐えられない。せめてこの香りとともに逝くことで、あなたに選ぶ強さを遺したい』
その手紙を読み、エリセは声を上げて泣いた。残されたのは手紙と日記、そして香りを封じ込めた小瓶。
あの日の記憶は、幼心に深く刻まれた。
スノルピスの香り。
母を失った悲しみと孤独。
して芽生えた、執着。
(わたしはお母様のようにはならない)
泣き腫らした瞳の奥で、冷たい誓いが芽吹いた。
それから彼女は変わった。
知識を身に付け、振る舞いを磨き、作り上げた完璧な仮面。
いつしか彼女は、気高く咲く白銀の花と称されるようになった。
そして、運命のあの日が訪れる。
『お前には、友好国レオナールの第一王子に嫁いでもらう。向こうで妃としての教育を受け、ふさわしいと認められてからの結婚だ。我が国の恥とならぬよう、努めよ』
王位を継いだ兄の言葉によって、エリセの人生は新たな舞台へと向かった。
あらゆることが、彼女の思い描いた通りに進むはずだった。美貌、気品、知性、そして慈愛に満ちた微笑。すべてを揃えた理想の女として、彼女は振る舞ってきたのだから。
それなのに──。
「……どうして、こうなってしまったのかしら」
なぜ、自分はこんな狭い部屋に閉じ込められているのだろうか。虚ろな目で床を見つめながら、ベッドの縁に力なく腰を下ろしていたエリセに、声をかけたのは兄カイエルだった。
「……愚かだな。お前は、結局すべてを失った」
その冷えた声にエリセはゆっくりと顔を上げた。
彼は部屋の中を一瞥すると、軽蔑と哀れみをないまぜにした眼差しで妹を見下ろした。
「欲をかかなければ……お前の求めるものは手に入っていただろうに」
皮肉混じりの言葉を、エリセは鼻で笑った。
「お兄様にはわからないでしょうけど……女はね、愛されなければ意味がないのよ。美しさも知性も、愛されなければ塵に等しいの」
「……お前が言う愛とは、何だ?」
問うたカイエルの声に、エリセはふっと息を吐いた。その碧眼に光を宿し、彼と真っ直ぐに視線を合わせる。
「──権力よ。私はね、支配する側になりたいの。お母様みたいな人生は……まっぴらよ」
その言葉に、カイエルは静かに息を吐く。
「お前は結局、母親の遺した香りに囚われたまま……か。まるで呪いだな」
沈黙。
エリセは俯き拳を握る。
スノルピスの香りが、幻のように鼻先を掠めた。
愛されたいと願い、愛を奪い、愛に呑まれた女。
その果てに残ったのは、香りと孤独だけだった。
◆
石造りの壁に囲まれた窓のない地下室。
湿った空気と冷たい静寂の中で燭台の炎が揺れ、二つの影を淡く浮かび上がらせていた。
鎖に繋がれた男マティアス・ロウエルは、椅子に腰を下ろしたままひとつたりとも動かない。両手は背後で縛られ、武器はすでに取り上げられていた。にもかかわらず、彼の周囲には殺気にも似た張り詰めた空気が漂っていた。
その正面に立つのはカミル・ルーエン。
鋭い視線と剣気を隠そうともせず、低い声を落とす。
「本気で黙秘を貫くつもりか。貴様の主は敗れ、国も後ろ盾も失った。まだ従う理由があるのか?」
マティアスは、顔を上げない。
瞼の奥の静寂だけが、答えの代わりだった。
「毒を運んだのはお前だな」
その言葉にも反応はない。
カミルは舌打ちし、一歩、床を踏み鳴らす。
重い音が石壁に反響した。
「ドレクス公爵が使った毒……もう調べはついている。名を出せ。誰の命令だ?」
沈黙。
男の瞳は虚空を見据えたまま、微動だにしない。その無言が、むしろ挑発のように思えた。
カミルの声が低く落ちる。
「マティアス・ロウエル。お前がただの傀儡なら、それでもいい。だがな──」
鋼のような声音に変わる。
「俺の主に剣を向けた以上、生きて帰れるとは思うなよ」
その一言に、マティアスが初めて顔を上げた。
その瞳の奥にあったのは、憎しみでも恐れでもなかった。ただ、深い沈黙と覚悟。命を既に手放した者だけが持つ、凪のような光。
「……エリセ・フェルデリアだな?」
静かに問うカミルの言葉に、マティアスの眼が微かに揺れる。
「お前が、主の名を軽々しく口にするな」
その声音には、僅かな熱があった。
だがそれは激情ではない冷えた刃のように鋭く、感情を削ぎ落とした怒りだった。
カミルは眉を寄せる。
「ようやく喋ったと思えば、それか。まったく……」
カミルは皮肉げに笑う。
腰の剣を軽く叩きながら、静かに告げた。
「忠義に生きるのは結構だ。だがな、それで誰かが命を落とすのなら、俺はその忠義ごと断ち斬る」
「構わない」
マティアスの声は、澄み切っていた。
「俺の命に価値はない。彼女の命令だけが、俺の生きる意味だった」
一瞬、空気が止まる。
その言葉の中に宿るのは、もはや狂気ではなく、信仰にも似た執着だった。
カミルは短く息を吐き、静かに言い捨てる。
「そうかよ……」
それきりマティアスは口を閉ざした。鋼鉄のように固い意思が、彼の口を封じていた。
「マティアス・ロウエル。お前は間違えたんだよ。専属とつく騎士って言うのはな、時には命令に抗することも必要なんだ」
沈黙が再び部屋を満たす。
カミルはその沈黙をしばし眺めたのち、無言のまま踵を返す。
扉の前で足を止め、低く言い放った。
「お前の生きる意味──それが、自分の主を破滅へと導いたんだ。祖国に返される彼女の末路は……悲惨なものになるだろうな」
扉が軋み、閉じられる。
残されたのは、男の息だけ。
その静寂の中で、かすかに息を飲む音がした。
それは、マティアス・ロウエルが初めて見せた感情だった。




