聖夜の鐘鐘が告げるもの
屋敷の中の時間が、いつもとは違う色を帯びて流れていた。侍女たちの足音も、扉の開閉音もどこか落ち着かず早足だ。だがその喧騒をよそに、リシェルは私室のベッドに腰掛けたまま、ただ静かに窓の外を見つめていた。
外は、しんと冷えた冬の空気に包まれている。灰色の石畳に、白い雪がちらちらと降り注ぎ、音もなく世界を覆っていく。深く積もることのないこの土地では、雪が舞うだけでも珍しい。その一瞬の白が、まるで神がこの夜に印をつけたように、街全体を幻想で包んでいた。
(……きっと、神様も見ているわ)
心の中で、誰にともなくそう呟いた。
ふと、胸の奥に疼くものを感じ、リシェルはゆるやかに立ち上がる。窓辺へ歩み寄り、金具を外すと、軋んだ音とともに冷たい風が流れ込んだ。刺すような冷気に、まぶたをそっと伏せる。
(お母様……今日で、全てが明らかになるわ)
目を閉じたまま、リシェルはそう心の中で呼びかけた。
震えなどなかった。
あるのは、静かに燃える決意と確かな予感。
真実が暴かれる瞬間が、もう間もなく訪れる。
そしてその時、自分は立ちすくまないと決めていた。
冷気を払いながら窓を閉じ、机の方へと視線を向ける。
そこには、赤い天鵞絨に包まれた薔薇水晶の首飾りが置かれていた。
ほのかに揺れる室内の灯りに照らされ、宝石の中に光が宿る。
それは母が遺した大切なもの。
そして今夜、リシェル自身の意思で纏うべき覚悟の証。
彼女はその場に佇んだまま、小さく息を吐いた。
白く霞んだ吐息が、すぐに消えていく。
その儚さが、どこか今夜という夜の行方を象徴しているようだった。
「殿下、お時間でございます」
王城の執務室に、ラウルの低い声が響く。
アレクシスは振り返り、手にしていた乳白色の小瓶を見つめた。銀の細工が施されたその小瓶を、彼はしばし手の中で転がし──やがて、静かに机の上へと置く。
窓の外では雪が舞っていた。
王都を白に染めるそれは、まるで何かを覆い隠すようでもあり、あるいはすべてを照らし出す予兆のようでもあった。
「恐らく今日、局面が大きく変わる」
アレクシスの声は低く、だが確かな重みを帯びていた。
控えるラウルとカミルが、一瞬だけ息を呑む。その言葉が意味するものの深さを、ふたりとも理解していた。
「正直、どう動くか……私にも読めない」
珍しく感情の翳りを見せた声音。
理知の仮面の裏に、わずかな苛立ちと焦燥がにじむ。
だがそれでも、彼は逃げなかった。
「だからこそ、私は見定めようと思う。国を背負うものとして。この夜に誰が真実を語り、誰が仮面を被るのか」
ラウルが深く頭を垂れる。
その銀髪の侍従長の瞳に、老練な誇りと信頼の光が宿っていた。カミルもまた黙って胸に手を当て、騎士の最敬礼を捧げる。
アレクシスは短く頷き、立ち上がった。儀礼服の上から羽織った黒のマントが風のように揺れ、ふわりとダークブルーの髪が肩を滑る。彼の横顔には、王の器を背負う者だけが持つ覚悟と孤独が滲んでいた。
今宵──すべてが変わる。
そして彼もまた、見届けようとしていた。
リシェル・フォン・カロルという存在が何を抱き、何を暴こうとしているのかを。
それは偶然などではない。
運命が選んだ今という時間の始まりだった。
◆
静寂の中に荘厳な鐘の音が響いた。
──ゴーン。
それは遠くから届く神の声のように、空気そのものを震わせて大聖堂を包み込む。
今宵は聖夜祭。
一年に一度、神に感謝と願いを捧げる王国で最も神聖な夜。
城下の民は小さな教会で、王侯貴族は王都の中心にそびえるこの大聖堂で祈りを捧げる。中でも王侯貴族が一堂に会して蝋燭を灯し、神前にて祈りを捧げるこの夜は、他に類を見ないほどの厳粛さと格式を誇っていた。
煌びやかなステンドグラスの光が、トワイライトに優しく滲む。いくつもの蝋燭が灯され、天井の高い礼拝堂をゆらゆらと照らしていた。
その中央、二列目の真ん中にリシェルは座っていた。
ドレスは薄紅色。その上に重ねたショールは銀糸が織り込まれており、揺れる蝋燭の光に照らされて淡くきらめいていた。
胸元には薔薇水晶の首飾り。ウェステリア色の髪が肩から流れ、結わえられた真っ白なレースが、彼女の静かな気配と相まってどこか儚い。
リシェルは目を伏せ、両手を組んで祈りを捧げていた。けれどその祈りの内側にあったのは、ただの感謝ではない。
静かに閉ざされた瞼の奥で、もうひとつの記憶がよみがえっていた。
(私が最期を迎えたのも、ここだった……)
あの日も、蝋燭の光が揺れていた。
神前で婚姻の誓いを立てた。
相手は、当時王太子となったユリウス。
兄であるアレクシスが亡くなって半年後、すべての予定はそのまま進められた。喪に服す時間さえ与えられず、延期すら許されなかった。
(それでも……幸せだったのだと思う。あの瞬間までは)
誓いの口づけ。
羽のように軽く触れた唇。
温かく、柔らかく──けれど、どこか冷たい。
次の瞬間、胸の奥に冷たい痛みが走った。
喉が締めつけられ、呼吸ができない。
必死に空気を求めても肺は凍りついたように動かず、視界がゆらめく。
(あ、毒だ……)
その言葉が脳裏をかすめた瞬間、リシェルは冷たい床に崩れ落ちていた。
意識が急速に引きずり込まれていく。
視界は歪み、音も遠ざかる中で微かに感じた違和感。
ユリウスの纏った香水の匂い。
あの甘く、どこか冷たい香り。
それが、意識の底に沈んだまま消えなかった。
今なら、はっきりとわかる。
あの時、誰もが信じて疑わなかった「誠実で優しいユリウス」は仮面だった。いや、ユリウス自身が被った仮面ではなく、周囲が勝手に期待し押し付けた理想像の皮だったのだ。
リシェルが倒れた瞬間に垣間見えた、彼の素顔。あれこそが真のユリウス。
そしてリシェルを死に至らしめたのは──『誓いの口づけ』。神聖な式の中、誰もが気づかないその一瞬に仕込まれた罠。それを望んだのは彼なのか、彼の背後にいた者か。
──ゴーン。
大聖堂の鐘が再び鳴り響く。
蝋燭の炎が揺れた。
リシェルはゆっくりと目を開ける。その視線は正面の祭壇を越え、虚空の先へとまっすぐに向けられていた。
(そういうこと、だったのね……)
過去の断片が、静かにひとつに繋がっていく。
謎がほどける音も、怒りも、悲しみもなかった。
ただ深い納得と覚悟だけが、リシェルの中で音もなく芽吹いていく。
──そして、真実の舞台は次なる場所へ。
冬の舞踏会。
仮面を脱がせる夜が間もなく訪れる。




