笑顔とため息の間で
そこは、いつ訪れても空気が重かった。
決断を迫られる者たちの息が詰まるような場所、第一王子アレクシスの執務室。
ユリウスは苦い顔で重厚な扉の前に立ち、深く息を吸い込む。ノックの音が廊下に響くと、すぐに低く冷たい声が返ってきた。許可を得て扉を押し開ける。ひやりとした空気が頬を撫でた。
奥の執務机では、アレクシスが黙々と書類を捌いていた。その横顔には感情の影が一片もない。まるで、人間ではなく政務を行う機械人形のようだった。
「これは、ユリウス殿下。どのようなご用件で?」
机の脇に控えていたラウルが、穏やかに言葉をかける。そのその声音は丁寧だが、どこか探るような含みを帯びている。
「僕が兄上の執務室に来るのは、そんなに珍しいかな?」
ユリウスは軽く笑いながら肩をすくめたが、内心ではこの侍従のそういった態度が好きではなかった。言葉の端々に刺のようなものを感じる。何かを試されている気がして、心がざらつく。
「珍しいと言えば珍しいかと。殿下がこちらにお越しになるのは……あまり例がございませんので」
やはり気に入らない。
そう思いかけた時、執務机の奥から低い溜息が漏れた。
「……どうでもいい。用がないなら出ていけ。仕事の邪魔だ」
視線すら上げず、アレクシスは淡々と告げた。
無愛想さも、今に始まったことではない。だが今日のその声には、いつも以上の冷たさがあった。
「兄上はいつも忙しそうだけど、今日は特にだね。まるで仕事をため込んだ後みたいだ」
軽口を叩いたつもりだったが、アレクシスの手元のペンを握る指先が、わずかに止まったのをユリウスは見逃さなかった。
「そんな兄上に、お祖母様から差し入れだよ。冬摘みの茶葉。ラウル、淹れてくれる?」
「いらん。今は紅茶を飲んでいる暇などない」
アレクシスは眉間をわずかにしかめたが、それだけだった。
「そう言うと思った。でもね、お祖母様が言ってたんだ。『アレクシスと二人で、きちんと話をしながら飲みなさい』って。お茶一杯分くらい、兄上も許してよ」
淡い挑発のような笑顔を浮かべる弟に、アレクシスはしばし沈黙した。
やがて短く息を吐き、ラウルに視線を向ける。
「……茶を」
ラウルが一礼して静かに部屋を出る。
ユリウスは、兄のわずかな譲歩に小さく満足の息をついた。
だが、その紅茶が静かに湯気を立てる間も、二人の間に会話は生まれなかった。
温度のない時間が、ただ過ぎていく。
それからしばらくして。
王宮の夜は、静寂の底に銀の気配を孕んでいた。月明かりが雪雲を透かし、白い光を長く引きずる。
「まあ、ユリウス。いらっしゃいな。カトリーヌ王太后に呼ばれて、今日は来られないかと思っていたわ」
その夜、ユリウスはエリセの私室を訪れていた。
薄いローブを羽織ったまま、テラスの前に立ち微笑む彼女に、ユリウスも柔らかな笑みを返す。
「そうだったんだけどね」
ユリウスは軽く笑みを浮かべ、ドアのそばに立ったまま肩をすくめた。
「祖母様が忙しい兄上を心配して、僕にお茶を届けさせたんだよ」
「まあ、それはご苦労さまでしたわね」
「ありがとう。でもね、お祖母様の言葉に従ってお茶を飲んだのはいいけど……まあ、最悪な時間だったよ」
「ふふ。アレクシス殿下はいかがだったの?」
「相変わらず、鉄の人間みたいだよ。表情一つ変えず、淡々と仕事の山を崩してた。僕が持って行ったお茶も、ほとんど味わってなかった気がする。それに……どこか体調が良くなさそうだった」
ユリウスが肩をすくめてそう言うと、エリセは変わらぬ笑みを浮かべたまま、静かにひとことだけ呟いた。
「そう……」
その一言は、まるで夜気のように静かに落ちた。
ユリウスは気づかない。
だがその声の奥に潜むもの──それは淡い慈悲でも心配でもなく、氷のような確信だった。
◆
夜が深まる頃、執務室には一人の王子だけが残っていた。灯の落ちた書類の山を前に、アレクシスは額を手で覆う。
「まさか、本当にやってくるとはな」
先ほどのユリウスとのひとときが、まだ背後に残る気配のように執務室の空気を支配している。
ユリウスの訪問、それは予想していたことだった。だが実際に顔を合わせ、言葉を交わせば心に残る澱は想像以上だった。
「ラウル」
静かに呼びかけると、すぐ傍に控えていた銀髪の侍従長が姿勢を正した。
「お前は、どう思う?」
「黒に近き白……でございましょうか」
老練な侍従の答えは曖昧に聞こえるが、アレクシスにはそれで十分だった。
疑念は確信に変わりつつある。
「……そうか」
短く息を吐き、机の引き出しを開ける。中から取り出したのは、ウェステリア色の封筒と小さなガラス瓶。瓶の中には乳白色の液体が揺れ、チャプンと微かに音を立てた。
それをしばし見下ろしたのち、アレクシスは何も言わず引き出しを閉じ、視線を窓の外へと向けた。
「ヴィンセ」
呼ぶと同時に、空気が一瞬ざわめく。
赤茶の髪をひとつに結った男が、いつの間にか部屋の隅に立っていた。
「お使いですか?」
「カロル邸へ……リシェル嬢にだ」
「はいはい。また信頼をひとつ積み上げたってやつですね」
いつもと変わらぬ軽口を叩きながらも、ヴィンセの目は真剣だった。アレクシスは無言でうなずくだけだったが、それで十分だった。
「それじゃ、行ってきます」
静かに姿を消すヴィンセ。その足音さえ残さず、再び執務室には静けさが満ちる。
アレクシスは額に手を当てたまま、ひとつ、深く長いため息を落とした。
◆
その夜、カロル邸は穏やかな静けさに包まれていた。
リシェルは私室の書斎で、聖夜祭に向けた準備の合間に記録帳を読み返していた。ドレスの最終調整も済み、ようやくひと息つけたところだった。
ふと、窓辺のカーテンが微かに揺れた。
「──あら、ごきげんよう。アレクシス殿下の影さん」
軽やかな声に、窓の影が動く。
姿を現したのは、赤茶の髪を束ねたヴィンセだった。
「ごきげんよう、リシェル嬢。今日はあのおっかない侍女はいないのかな?」
ヴィンセが茶目っ気たっぷりに言うと、リシェルは小さく笑った。
「ネーヴァのこと? それなら今、お使い中なの」
「……え、それって文字通りのお使い? それとも裏?」
「さあ? ちゃんとしたお使いは頼んだけど、寄り道は禁止じゃないもの」
ふっと笑うリシェルに、ヴィンセは肩を竦める。
「いやはや、お嬢様はやっぱり手強い」
「それで、今日は何のご用件かしら?」
「伝言です。殿下がから『またひとつ、信頼を積み重ねた』って」
その言葉に、リシェルの微笑が一瞬だけ止まった。
「……やはり、ユリウス殿下が?」
「はい。王太后様から託されたお茶を持って」
リシェルは目を伏せ、大きく息を吐いた。その呼吸は、胸の奥に沈んだ不安を押し上げるようだった。
「アレクシス殿下は……ご無事でしたか?」
「あなたのおかげで、異常はなかったですよ」
ヴィンセはあっさりと答えたが、リシェルはわずかに首を振った。
「いえ、そうではなくて……体ではなく、心のことです。殿下は……辛くなかったでしょうか?」
その問いに、ヴィンセは一瞬だけ黙り込み、やがて天井を仰ぐようにしてぽつりと答えた。
「……少し参ってたかもしれない。まさか、本当にユリウス殿下があのお茶を持ってくるわなんて、殿下も思ってなかっただろうから」
その言葉の響きはどこか苦く、遠い。
リシェルは胸の奥に小さく波紋が広がるのを感じながら、ただ黙って目を伏せた。
窓の外では、冬の風が静かに枝を揺らしていた。
夜は深い。けれど、夜明けは必ず来る。




