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死を越えた花嫁は運命を取り戻す  作者: さくる
スノルピスとスノードロップ
42/59

笑顔とため息の間で

そこは、いつ訪れても空気が重かった。

決断を迫られる者たちの息が詰まるような場所、第一王子アレクシスの執務室。

ユリウスは苦い顔で重厚な扉の前に立ち、深く息を吸い込む。ノックの音が廊下に響くと、すぐに低く冷たい声が返ってきた。許可を得て扉を押し開ける。ひやりとした空気が頬を撫でた。

奥の執務机では、アレクシスが黙々と書類を捌いていた。その横顔には感情の影が一片もない。まるで、人間ではなく政務を行う機械人形のようだった。


「これは、ユリウス殿下。どのようなご用件で?」


机の脇に控えていたラウルが、穏やかに言葉をかける。そのその声音は丁寧だが、どこか探るような含みを帯びている。


「僕が兄上の執務室に来るのは、そんなに珍しいかな?」


ユリウスは軽く笑いながら肩をすくめたが、内心ではこの侍従のそういった態度が好きではなかった。言葉の端々に刺のようなものを感じる。何かを試されている気がして、心がざらつく。


「珍しいと言えば珍しいかと。殿下がこちらにお越しになるのは……あまり例がございませんので」


やはり気に入らない。

そう思いかけた時、執務机の奥から低い溜息が漏れた。


「……どうでもいい。用がないなら出ていけ。仕事の邪魔だ」


視線すら上げず、アレクシスは淡々と告げた。

無愛想さも、今に始まったことではない。だが今日のその声には、いつも以上の冷たさがあった。


「兄上はいつも忙しそうだけど、今日は特にだね。まるで仕事をため込んだ後みたいだ」


軽口を叩いたつもりだったが、アレクシスの手元のペンを握る指先が、わずかに止まったのをユリウスは見逃さなかった。


「そんな兄上に、お祖母様から差し入れだよ。冬摘みの茶葉。ラウル、淹れてくれる?」


「いらん。今は紅茶を飲んでいる暇などない」


アレクシスは眉間をわずかにしかめたが、それだけだった。


「そう言うと思った。でもね、お祖母様が言ってたんだ。『アレクシスと二人で、きちんと話をしながら飲みなさい』って。お茶一杯分くらい、兄上も許してよ」


淡い挑発のような笑顔を浮かべる弟に、アレクシスはしばし沈黙した。

やがて短く息を吐き、ラウルに視線を向ける。


「……茶を」


ラウルが一礼して静かに部屋を出る。

ユリウスは、兄のわずかな譲歩に小さく満足の息をついた。

だが、その紅茶が静かに湯気を立てる間も、二人の間に会話は生まれなかった。

温度のない時間が、ただ過ぎていく。




それからしばらくして。

王宮の夜は、静寂の底に銀の気配を孕んでいた。月明かりが雪雲を透かし、白い光を長く引きずる。


「まあ、ユリウス。いらっしゃいな。カトリーヌ王太后に呼ばれて、今日は来られないかと思っていたわ」


その夜、ユリウスはエリセの私室を訪れていた。

薄いローブを羽織ったまま、テラスの前に立ち微笑む彼女に、ユリウスも柔らかな笑みを返す。


「そうだったんだけどね」


ユリウスは軽く笑みを浮かべ、ドアのそばに立ったまま肩をすくめた。


「祖母様が忙しい兄上を心配して、僕にお茶を届けさせたんだよ」


「まあ、それはご苦労さまでしたわね」


「ありがとう。でもね、お祖母様の言葉に従ってお茶を飲んだのはいいけど……まあ、最悪な時間だったよ」


「ふふ。アレクシス殿下はいかがだったの?」


「相変わらず、鉄の人間みたいだよ。表情一つ変えず、淡々と仕事の山を崩してた。僕が持って行ったお茶も、ほとんど味わってなかった気がする。それに……どこか体調が良くなさそうだった」


ユリウスが肩をすくめてそう言うと、エリセは変わらぬ笑みを浮かべたまま、静かにひとことだけ呟いた。


「そう……」


その一言は、まるで夜気のように静かに落ちた。

ユリウスは気づかない。

だがその声の奥に潜むもの──それは淡い慈悲でも心配でもなく、氷のような確信だった。



夜が深まる頃、執務室には一人の王子だけが残っていた。灯の落ちた書類の山を前に、アレクシスは額を手で覆う。


「まさか、本当にやってくるとはな」


先ほどのユリウスとのひとときが、まだ背後に残る気配のように執務室の空気を支配している。

ユリウスの訪問、それは予想していたことだった。だが実際に顔を合わせ、言葉を交わせば心に残る澱は想像以上だった。


「ラウル」


静かに呼びかけると、すぐ傍に控えていた銀髪の侍従長が姿勢を正した。


「お前は、どう思う?」


「黒に近き白……でございましょうか」


老練な侍従の答えは曖昧に聞こえるが、アレクシスにはそれで十分だった。

疑念は確信に変わりつつある。


「……そうか」


短く息を吐き、机の引き出しを開ける。中から取り出したのは、ウェステリア色の封筒と小さなガラス瓶。瓶の中には乳白色の液体が揺れ、チャプンと微かに音を立てた。

それをしばし見下ろしたのち、アレクシスは何も言わず引き出しを閉じ、視線を窓の外へと向けた。


「ヴィンセ」


呼ぶと同時に、空気が一瞬ざわめく。

赤茶の髪をひとつに結った男が、いつの間にか部屋の隅に立っていた。


「お使いですか?」


「カロル邸へ……リシェル嬢にだ」


「はいはい。また信頼をひとつ積み上げたってやつですね」


いつもと変わらぬ軽口を叩きながらも、ヴィンセの目は真剣だった。アレクシスは無言でうなずくだけだったが、それで十分だった。


「それじゃ、行ってきます」


静かに姿を消すヴィンセ。その足音さえ残さず、再び執務室には静けさが満ちる。

アレクシスは額に手を当てたまま、ひとつ、深く長いため息を落とした。



その夜、カロル邸は穏やかな静けさに包まれていた。

リシェルは私室の書斎で、聖夜祭に向けた準備の合間に記録帳を読み返していた。ドレスの最終調整も済み、ようやくひと息つけたところだった。

ふと、窓辺のカーテンが微かに揺れた。


「──あら、ごきげんよう。アレクシス殿下の影さん」


軽やかな声に、窓の影が動く。

姿を現したのは、赤茶の髪を束ねたヴィンセだった。


「ごきげんよう、リシェル嬢。今日はあのおっかない侍女はいないのかな?」


ヴィンセが茶目っ気たっぷりに言うと、リシェルは小さく笑った。


「ネーヴァのこと? それなら今、お使い中なの」


「……え、それって文字通りのお使い(・・・)? それとも裏?」


「さあ? ちゃんとしたお使いは頼んだけど、寄り道は禁止じゃないもの」


ふっと笑うリシェルに、ヴィンセは肩を竦める。


「いやはや、お嬢様はやっぱり手強い」


「それで、今日は何のご用件かしら?」


「伝言です。殿下がから『またひとつ、信頼を積み重ねた』って」


その言葉に、リシェルの微笑が一瞬だけ止まった。


「……やはり、ユリウス殿下が?」


「はい。王太后様から託されたお茶(・・)を持って」


リシェルは目を伏せ、大きく息を吐いた。その呼吸は、胸の奥に沈んだ不安を押し上げるようだった。


「アレクシス殿下は……ご無事でしたか?」


「あなたのおかげで、異常はなかったですよ」


ヴィンセはあっさりと答えたが、リシェルはわずかに首を振った。


「いえ、そうではなくて……体ではなく、心のことです。殿下は……辛くなかったでしょうか?」


その問いに、ヴィンセは一瞬だけ黙り込み、やがて天井を仰ぐようにしてぽつりと答えた。


「……少し参ってたかもしれない。まさか、本当にユリウス殿下があのお茶を持ってくるわなんて、殿下も思ってなかっただろうから」


その言葉の響きはどこか苦く、遠い。

リシェルは胸の奥に小さく波紋が広がるのを感じながら、ただ黙って目を伏せた。


窓の外では、冬の風が静かに枝を揺らしていた。

夜は深い。けれど、夜明けは必ず来る。

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