毒よりも甘い言葉
ご覧いただきありがとうございます。
本作には、直接的な描写はございませんが、登場人物の親密な関係を示唆する表現が含まれております。
ご理解のうえ、お楽しみいただけますと幸いです。
夜の深さが、わずかに緩みはじめた頃。
カロル侯爵邸の一角、静寂に包まれた私室の机にリシェルはひとり向かっていた。
花の間から持ち帰った小箱を、そっと机上に置く。中には色あせたドライフラワーと、手書きの記録帳が数冊。どれも今は亡き母セラフィーナが残したものだった。
(お母様の……記憶)
淡い春色の表紙を撫でながら、彼女は一冊を開く。その前には別の一冊『サクラリスの印章が押された記録』を、真っ白なハンカチに丁寧に包んだ。
それは、彼に託すと決めたもの。想いと共に、未来へ渡す約束だった。
(……必ず彼にお渡しいたしますから)
小さな囁きが、夜気の中で溶けて消える。
開かれた春色のページには、柔らかな筆跡が並んでいた。
『私の愛するリシェルへ。私のこの記憶があなたの生きる助けとなりますように。あなたの幸せの道しるべとなりますように……』
筆跡は穏やかで優しく、その一行ごとに時間の温度が蘇ってくる。懐妊の喜び、つわりに悩まされながらもスノードロップの香りに救われたこと。初めて目を開けた日、歩いた日、笑った日。ひとつひとつが愛情のこもった言葉で綴られていた。
(お母様……子煩悩にもほどがあるわ)
思わずくすりと笑いながらも、胸の奥が熱を帯びていく。自分は確かに愛されていた。母の手が自分を包んでいたのだ。
数冊を読み終えた頃には、窓の外がかすかに明るみ始めていた。
残るは最後の一冊。
表紙には、これまでのものにはなかった紋が描かれていた。三日月──そして、その上に重なるように刻まれたスノードロップの花。リシェルは無意識のうちに、机の引き出しからペーパーナイフを取り出していた。小さく指を切り、滲んだ血を表紙に垂らす。
「……っ」
乾いた音が響く。
『カチッ』
小さな金属音が響いたかと思うと、まるで鍵が外れたかのように、ページがゆっくりとひとりでに開かれた。淡い光のような文字が浮かび上がる。
『スノードロップに似た香りには気をつけなさい。それは王国を破滅に向かわせる。フェルデリアの花、スノルピス──』
息が止まった。
椅子が倒れる音とともに、リシェルは立ち上がっていた。目を見開き、心臓の鼓動が耳の奥で高鳴る。
(これだ……スノルピス……!)
あの香り。あの部屋。あの記録。
点と点が、ようやく一本の線で繋がっていく。
夜明けの光が、カーテンの隙間から差し込んだ。
影が揺れる。
リシェルは、ゆっくりと息を整えた。
真実は今ここにある。
そして自分の手で、それを明らかにしなければならない。目の奥に宿ったのは、かつての少女の迷いではなかった。
(あの日、私は死んだ。けれど今はもう違う──)
夜は明けた。
記憶は眠らずに目を覚ました。
◆
テラスの扉を開けると、冬の空気が肌を撫でた。
その冷たさに、エリセは小さく微笑む。薄手のナイトドレス一枚。だが寒さを恐れる気配はない。むしろ、それを待っていた。──雪の匂いがすべてを隠してくれる。
「ねえ、寒いんだけど」
ベッドの上から甘えた声が響く。
振り向くと、ユリウスが白いシーツを半ば乱したまま、無防備に上体を起こしていた。
「あら。さっきまでは暑いって言ってたのに?」
「そりゃ……あんなに動けば、暑くもなるよ。ほら、こっち来て。一緒に温まろう」
少年めいた笑み。
まだ若い体が、彼の心の幼さを隠しきれない。
「うふふ……ほんと、あなたって情熱的ね」
エリセはゆっくりと彼の隣に戻り、長い銀白の銀白の髪を肩から滑らせた。髪がシーツに広がる様は、まるで外の雪景色のように静かで冷たい。そして少しだけ不吉だった。
ユリウスはまだ呼吸を整えきれずにいる。その頬に彼女の指が触れた。彼の唇は赤く、わずかに腫れていた。満たされた獣のような眼が、彼女の言葉を待っていた。
だから囁く。
ごく自然に。
毒毒よりも甘く、花よりも鋭い声で。
「私はね、フェルデリアとこの国の友好の証なの。私は王の花嫁になるためにここに来たのよ」
ユリウスの目がエリセをとらえる。何かを探るような視線。でもそれは浅くて優しい。疑いも警戒もない。
「この国に必要なのは、民を慈しむ心。そして、彼らの声に耳を傾ける柔らかさ。私はそう思うの」
「へえ……それを、僕に求めてるの?」
問い返されても、エリセはただ微笑んだ。
それだけで十分。男は信じ、堕ちていく。だから彼女は、いつだって言葉を選ばない。ただ、唇に乗せるだけ。
「いいよ。それが君の望みなら」
ユリウスの唇が、彼女の髪に触れる。
「その代わり、君も僕の望みを叶えてよ。だって君のお願いだけ聞くなんて、不公平でしょ」
「……いいわ」
「じゃあさ、エリセ。君は、何があっても僕の味方でいて。もしそうじゃないってわかったら──僕、拗ねちゃうから」
笑みの裏に潜む幼さを、彼女は正確に見抜いていた。
愛に飢えた王子。承認に飢えた少年。
そして、彼女の言葉にだけ救いを求める男。
「ええ。私だけは、あなたの味方でいるわ」
その言葉は、鎖よりも確かに縛る。
彼女は知っている。人は甘い希望にこそ囚われるのだと。
テラスの外では、夜の帳がゆっくりと降り始めていた。雪の気配はまだ遠いけれど、空気の匂いが少しずつ変わり始めている。冬の気配は真実も嘘も覆い隠してくれる。
──聖夜祭の十日前。
その夜、エリセはひとつの駒を静かに動かした。
そして心の奥で、冷たく笑う。
(……あなたは優しい王になるわ、ユリウス。でも、私の王でいなければ意味がないの)
甘い言葉は、毒よりも人を蝕む。
それを誰よりもよく知っている唇が、再び笑みを描いた。




