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死を越えた花嫁は運命を取り戻す  作者: さくる
スノルピスとスノードロップ
41/59

毒よりも甘い言葉

ご覧いただきありがとうございます。

本作には、直接的な描写はございませんが、登場人物の親密な関係を示唆する表現が含まれております。

ご理解のうえ、お楽しみいただけますと幸いです。

夜の深さが、わずかに緩みはじめた頃。

カロル侯爵邸の一角、静寂に包まれた私室の机にリシェルはひとり向かっていた。

花の間から持ち帰った小箱を、そっと机上に置く。中には色あせたドライフラワーと、手書きの記録帳が数冊。どれも今は亡き母セラフィーナが残したものだった。


(お母様の……記憶)


淡い春色の表紙を撫でながら、彼女は一冊を開く。その前には別の一冊『サクラリスの印章が押された記録』を、真っ白なハンカチに丁寧に包んだ。

それは、彼に託すと決めたもの。想いと共に、未来へ渡す約束だった。


(……必ず彼にお渡しいたしますから)


小さな囁きが、夜気の中で溶けて消える。

開かれた春色のページには、柔らかな筆跡が並んでいた。


『私の愛するリシェルへ。私のこの記憶があなたの生きる助けとなりますように。あなたの幸せの道しるべとなりますように……』


筆跡は穏やかで優しく、その一行ごとに時間の温度が蘇ってくる。懐妊の喜び、つわりに悩まされながらもスノードロップの香りに救われたこと。初めて目を開けた日、歩いた日、笑った日。ひとつひとつが愛情のこもった言葉で綴られていた。


(お母様……子煩悩にもほどがあるわ)


思わずくすりと笑いながらも、胸の奥が熱を帯びていく。自分は確かに愛されていた。母の手が自分を包んでいたのだ。

数冊を読み終えた頃には、窓の外がかすかに明るみ始めていた。

残るは最後の一冊。

表紙には、これまでのものにはなかった紋が描かれていた。三日月──そして、その上に重なるように刻まれたスノードロップの花。リシェルは無意識のうちに、机の引き出しからペーパーナイフを取り出していた。小さく指を切り、滲んだ血を表紙に垂らす。


「……っ」


乾いた音が響く。


『カチッ』


小さな金属音が響いたかと思うと、まるで鍵が外れたかのように、ページがゆっくりとひとりでに開かれた。淡い光のような文字が浮かび上がる。


『スノードロップに似た香りには気をつけなさい。それは王国を破滅に向かわせる。フェルデリアの花、スノルピス(・・・・・)──』


息が止まった。

椅子が倒れる音とともに、リシェルは立ち上がっていた。目を見開き、心臓の鼓動が耳の奥で高鳴る。


(これだ……スノルピス……!)


あの香り。あの部屋。あの記録。

点と点が、ようやく一本の線で繋がっていく。

夜明けの光が、カーテンの隙間から差し込んだ。

影が揺れる。

リシェルは、ゆっくりと息を整えた。

真実は今ここにある。

そして自分の手で、それを明らかにしなければならない。目の奥に宿ったのは、かつての少女の迷いではなかった。


(あの日、私は死んだ。けれど今はもう違う──)


夜は明けた。

記憶は眠らずに目を覚ました。



テラスの扉を開けると、冬の空気が肌を撫でた。

その冷たさに、エリセは小さく微笑む。薄手のナイトドレス一枚。だが寒さを恐れる気配はない。むしろ、それを待っていた。──雪の匂いがすべてを隠してくれる。


「ねえ、寒いんだけど」


ベッドの上から甘えた声が響く。

振り向くと、ユリウスが白いシーツを半ば乱したまま、無防備に上体を起こしていた。


「あら。さっきまでは暑いって言ってたのに?」


「そりゃ……あんなに動けば、暑くもなるよ。ほら、こっち来て。一緒に温まろう」


少年めいた笑み。

まだ若い体が、彼の心の幼さを隠しきれない。


「うふふ……ほんと、あなたって情熱的ね」


エリセはゆっくりと彼の隣に戻り、長い銀白の銀白の髪を肩から滑らせた。髪がシーツに広がる様は、まるで外の雪景色のように静かで冷たい。そして少しだけ不吉だった。


ユリウスはまだ呼吸を整えきれずにいる。その頬に彼女の指が触れた。彼の唇は赤く、わずかに腫れていた。満たされた獣のような眼が、彼女の言葉を待っていた。

だから囁く。

ごく自然に。

毒毒よりも甘く、花よりも鋭い声で。


「私はね、フェルデリアとこの国の友好の証なの。私は()の花嫁になるためにここに来たのよ」


ユリウスの目がエリセをとらえる。何かを探るような視線。でもそれは浅くて優しい。疑いも警戒もない。


「この国に必要なのは、民を慈しむ心。そして、彼らの声に耳を傾ける柔らかさ。私はそう思うの」


「へえ……それを、僕に求めてるの?」


問い返されても、エリセはただ微笑んだ。

それだけで十分。男は信じ、堕ちていく。だから彼女は、いつだって言葉を選ばない。ただ、唇に乗せるだけ。


「いいよ。それが君の望みなら」


ユリウスの唇が、彼女の髪に触れる。


「その代わり、君も僕の望みを叶えてよ。だって君のお願いだけ聞くなんて、不公平でしょ」


「……いいわ」


「じゃあさ、エリセ。君は、何があっても僕の味方でいて。もしそうじゃないってわかったら──僕、拗ねちゃうから」


笑みの裏に潜む幼さを、彼女は正確に見抜いていた。

愛に飢えた王子。承認に飢えた少年。

そして、彼女の言葉にだけ救いを求める男。


「ええ。私だけは、あなたの味方でいるわ」


その言葉は、鎖よりも確かに縛る。

彼女は知っている。人は甘い希望にこそ囚われるのだと。

テラスの外では、夜の帳がゆっくりと降り始めていた。雪の気配はまだ遠いけれど、空気の匂いが少しずつ変わり始めている。冬の気配は真実も嘘も覆い隠してくれる。


──聖夜祭の十日前。


その夜、エリセはひとつの駒を静かに動かした。

そして心の奥で、冷たく笑う。


(……あなたは優しい王になるわ、ユリウス。でも、私の(・・)王でいなければ意味がないの)


甘い言葉は、毒よりも人を蝕む。

それを誰よりもよく知っている唇が、再び笑みを描いた。

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