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死を越えた花嫁は運命を取り戻す  作者: さくる
スノルピスとスノードロップ
38/59

託す者、託される者

朝霧がまだ城館を包むころ、リシェルの私室に控えめなノック音が響いた。


「お嬢様」


「来てくれてありがとう。ネーヴァ、お願いがあるの」


その声に応じ、扉の前で影がひとつ動く。ネーヴァは無言のまま進み出た。命令を受け入れる姿勢がすでに整っている。


「フェルデリア王国へ行ってもらいたいの。できれば……聖夜祭までに帰ってきて」


その名を告げた瞬間、ネーヴァの睫毛がわずかに揺れた。だが感情の波は一瞬にして消え、静かな声が室内に落ちる。


「承りました」


変わらぬ調子。けれど、微かに滲む名残惜しさが耳に残る。

リシェルはゆるやかに立ち上がり、ネーヴァの肩へそっと手を置いた。


「あなたにしか頼めないの。お願いね」


「必ず、果たして参ります」


短い返答ののち、影は音もなく空気に溶けた。

残されたのは、わずかに揺れるカーテンの裾と、淡い霧のような静寂だった。

リシェルは深く息を吐く。

胸の奥に灯ったのは、焦燥ではなく確かな覚悟──自らの手で未来を掴むための最初の一手だった。

それからまもなく、リシェルはもう一人の侍女を呼び寄せた。


「リィナ、あなたに話があるの」


「……えっ? わ、私にですか?」


リィナ・エルグレインは小さく肩をすくめ、栗色の髪のウェーブが揺れた。まだ幼さを残す表情に、緊張と期待が交錯する。


「ネーヴァをしばらく外へ出すわ。代わりに、あなたをまた傍に置きたいの。いいかしら?」


「えっ、で、でも……! わたしじゃ役不足です、そんな……!」


慌てて立ち上がるリィナ。その背後から、そっと落ち着いた声が響いた。


「私が許可します」


マルタだった。

いつも通りの穏やかな笑み。その中に母のような慈しみと、年輪を重ねた強さが宿っている。


「……っ、マルタさん……でも」


「私から教えられることは、もうありません。これからはお嬢様のそばで、自分の目で学びなさい」


マルタの瞳には、変わらぬ信頼と静かな決意が宿っていた。それを見て、リィナの琥珀色の瞳が揺れる。


「……はいっ。ありがとうございます……っ、わたし、がんばります!」


リィナは目を潤ませながら深く頭を下げた。リシェルはそっと彼女の頭に手を添え優しく笑う。


「期待してるわ、リィナ」


それは、少女の背をそっと押すような優しい声だった。

やがてリシェルは机に戻り、一通の手紙を丁寧に封筒へ納める。淡い香りがほのかに香るその封には、彼女らしい控えめな金の封蝋が押されている。


「マルタ、これを送ってくれる?」


「第一王子殿下に、ですね」


「ええ。会ってお話したいことがあるから、時間をくださいって……ちょっとだけ、おねだりしてみたの」


その言い方に、マルタは思わず小さく笑った。


「まあ、お嬢様ったら……ふふっ。かしこまりました。確実にお届けしますね」


にこやかに受け取りながらも、その瞳の奥には侮れぬ鋭さが宿っている。王子に送る手紙……それがただの甘い約束で終わらないことを、マルタは理解していた。

薄陽が差し込む一室で、三人の女性たちの心がそれぞれに動き出していた。未来に向けて誰かを信じ、何かを託し、それでも笑顔を絶やさぬ強さ。そのすべてが、リシェルの周りに形づくられてゆく。



執務室の空気は静かに張り詰めていた。積まれた書類の山に手を伸ばす直前、ノックの音が控えめに響いく。


「殿下。カロル侯爵令嬢より、お手紙でございます」


ラウルがそう告げて入室すると、手にした一通の封筒を机の上へ置く。初めて見る筆跡。柔らかく、それでいて迷いのない線に、アレクシスの視線が僅かに留まった。手紙を開封する動作は変わらず正確で無駄がない。けれど、文面を追う指が一瞬だけ止まった。


『アレクシス第一王子殿下

ご機嫌麗しゅうお過ごしでしょうか。

ご多忙のところ、突然のお手紙を差し上げる非礼をどうかお許しくださいませ。実は、ぜひ殿下にお目にかかって、お話しさせていただきたいことがございます。聖夜祭のご準備などでお忙しい頃かと存じておりますが、ほんのひとときでも、お時間を頂戴できましたら嬉しく存じます。

ご都合のよい時に、ご一考いただけますと幸いです。

             リシェル・フォン・カロル』


読み終えても、しばし視線が紙の上を彷徨った。目を細め、紙の質感を指先でなぞる。文飾も駆け引きもない。だが、その礼節の内側には明確な意図が潜んでいる。単なる社交辞令でも、無邪気な願いでもない。

冷ややかな瞳の奥で何かが揺れた。


「……この時期に、か」


低く呟いた声は、空気を震わせるように沈む。

聖夜祭までは、あと十日。

王族の予定表など、もはや隙間もない。

通常であれば、余計な面会など認めないところだが。


「おや、可愛らしいおねだりですな。あのご令嬢にしては、ずいぶん素直な」


ラウルの冗談めいた口ぶりに、アレクシスは応じない。

手紙を丁寧に折り、机に戻すことなく封緘付き文書の引き出しにしまった。

その行動に、ラウルの目がわずかに細まる。

だが何も言わず、一礼して退室した。

室内に再び静寂が戻る。

アレクシスは椅子にもたれ、視線を宙へ投げる。


アレクシスは視線を宙へと投げた。十日、たったそれだけの時間だ。されどその「僅かな時間」を、彼女は要求してきた。


(話すことがあるか……)


手元の万年筆を手に取っては置き、また取る。三度目に指先で転がしながら、ふと唇の端がわずかに動いた。

リシェル・フォン・カロル。

かつては王宮の片隅に咲く、名門の花の一輪に過ぎなかった。

だがあの日を境に、再誕を果たしたかのような変化を見せた。

礼儀作法も立ち居振る舞いも完璧だったが、それは王宮に巣食う女たちには珍しくない。

けれど彼女は違った。

嘘のない瞳で人を見据え、優雅な所作の裏に確かな意志を秘める。そして何より沈黙と笑顔を使い分けながら、あの王女を見据えていた姿。

「話したいこと」とは、何だ。時期が聖夜祭直前であることも、彼女は理解しているはずだ。それでもなお時間を乞うというのは、ただの挨拶や愚痴では済まない内容なのだろう。


「無駄な感傷だ」


低く、自分に言い聞かせるように呟く。だが、その言葉は心の奥まで届かない。むしろかすかに反響して、胸の内に余計な雑音を生む。

日程表を見やれば、会議、視察、準備──すべてが詰まっている。だが、それを理由に断ることはできなかった。

理由など、最初から求めていない。

彼女が望んだという事実。それだけで、十分だった。


「……会わせてみせろ」


吐息のような声が、命令へと変わる。

短く走らせた筆跡はいつもよりわずかに速く、そして深い。


『カロル侯爵令嬢との面会、調整せよ』


その筆跡は普段のそれよりわずかに速く、わずかに深い圧を持って刻まれていた。

ペンを置き、再び窓辺を見やる。

冬の陽が、鈍い金色をもって地平線に沈もうとしていた。

その光に照らされたダークブルーの髪が、一瞬だけ揺れる。

彼の中で『理』が『情』に足を取られることは、滅多にない。

だが、リシェルの名は、いつからかその均衡をわずかに傾けていた。


(……話の内容を、知る必要がある)


興味と警戒が、紙一重でせめぎ合う。

だがその奥で、ごく小さな熱が静かに灯り始めていた。

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