託す者、託される者
朝霧がまだ城館を包むころ、リシェルの私室に控えめなノック音が響いた。
「お嬢様」
「来てくれてありがとう。ネーヴァ、お願いがあるの」
その声に応じ、扉の前で影がひとつ動く。ネーヴァは無言のまま進み出た。命令を受け入れる姿勢がすでに整っている。
「フェルデリア王国へ行ってもらいたいの。できれば……聖夜祭までに帰ってきて」
その名を告げた瞬間、ネーヴァの睫毛がわずかに揺れた。だが感情の波は一瞬にして消え、静かな声が室内に落ちる。
「承りました」
変わらぬ調子。けれど、微かに滲む名残惜しさが耳に残る。
リシェルはゆるやかに立ち上がり、ネーヴァの肩へそっと手を置いた。
「あなたにしか頼めないの。お願いね」
「必ず、果たして参ります」
短い返答ののち、影は音もなく空気に溶けた。
残されたのは、わずかに揺れるカーテンの裾と、淡い霧のような静寂だった。
リシェルは深く息を吐く。
胸の奥に灯ったのは、焦燥ではなく確かな覚悟──自らの手で未来を掴むための最初の一手だった。
それからまもなく、リシェルはもう一人の侍女を呼び寄せた。
「リィナ、あなたに話があるの」
「……えっ? わ、私にですか?」
リィナ・エルグレインは小さく肩をすくめ、栗色の髪のウェーブが揺れた。まだ幼さを残す表情に、緊張と期待が交錯する。
「ネーヴァをしばらく外へ出すわ。代わりに、あなたをまた傍に置きたいの。いいかしら?」
「えっ、で、でも……! わたしじゃ役不足です、そんな……!」
慌てて立ち上がるリィナ。その背後から、そっと落ち着いた声が響いた。
「私が許可します」
マルタだった。
いつも通りの穏やかな笑み。その中に母のような慈しみと、年輪を重ねた強さが宿っている。
「……っ、マルタさん……でも」
「私から教えられることは、もうありません。これからはお嬢様のそばで、自分の目で学びなさい」
マルタの瞳には、変わらぬ信頼と静かな決意が宿っていた。それを見て、リィナの琥珀色の瞳が揺れる。
「……はいっ。ありがとうございます……っ、わたし、がんばります!」
リィナは目を潤ませながら深く頭を下げた。リシェルはそっと彼女の頭に手を添え優しく笑う。
「期待してるわ、リィナ」
それは、少女の背をそっと押すような優しい声だった。
やがてリシェルは机に戻り、一通の手紙を丁寧に封筒へ納める。淡い香りがほのかに香るその封には、彼女らしい控えめな金の封蝋が押されている。
「マルタ、これを送ってくれる?」
「第一王子殿下に、ですね」
「ええ。会ってお話したいことがあるから、時間をくださいって……ちょっとだけ、おねだりしてみたの」
その言い方に、マルタは思わず小さく笑った。
「まあ、お嬢様ったら……ふふっ。かしこまりました。確実にお届けしますね」
にこやかに受け取りながらも、その瞳の奥には侮れぬ鋭さが宿っている。王子に送る手紙……それがただの甘い約束で終わらないことを、マルタは理解していた。
薄陽が差し込む一室で、三人の女性たちの心がそれぞれに動き出していた。未来に向けて誰かを信じ、何かを託し、それでも笑顔を絶やさぬ強さ。そのすべてが、リシェルの周りに形づくられてゆく。
◆
執務室の空気は静かに張り詰めていた。積まれた書類の山に手を伸ばす直前、ノックの音が控えめに響いく。
「殿下。カロル侯爵令嬢より、お手紙でございます」
ラウルがそう告げて入室すると、手にした一通の封筒を机の上へ置く。初めて見る筆跡。柔らかく、それでいて迷いのない線に、アレクシスの視線が僅かに留まった。手紙を開封する動作は変わらず正確で無駄がない。けれど、文面を追う指が一瞬だけ止まった。
『アレクシス第一王子殿下
ご機嫌麗しゅうお過ごしでしょうか。
ご多忙のところ、突然のお手紙を差し上げる非礼をどうかお許しくださいませ。実は、ぜひ殿下にお目にかかって、お話しさせていただきたいことがございます。聖夜祭のご準備などでお忙しい頃かと存じておりますが、ほんのひとときでも、お時間を頂戴できましたら嬉しく存じます。
ご都合のよい時に、ご一考いただけますと幸いです。
リシェル・フォン・カロル』
読み終えても、しばし視線が紙の上を彷徨った。目を細め、紙の質感を指先でなぞる。文飾も駆け引きもない。だが、その礼節の内側には明確な意図が潜んでいる。単なる社交辞令でも、無邪気な願いでもない。
冷ややかな瞳の奥で何かが揺れた。
「……この時期に、か」
低く呟いた声は、空気を震わせるように沈む。
聖夜祭までは、あと十日。
王族の予定表など、もはや隙間もない。
通常であれば、余計な面会など認めないところだが。
「おや、可愛らしいおねだりですな。あのご令嬢にしては、ずいぶん素直な」
ラウルの冗談めいた口ぶりに、アレクシスは応じない。
手紙を丁寧に折り、机に戻すことなく封緘付き文書の引き出しにしまった。
その行動に、ラウルの目がわずかに細まる。
だが何も言わず、一礼して退室した。
室内に再び静寂が戻る。
アレクシスは椅子にもたれ、視線を宙へ投げる。
アレクシスは視線を宙へと投げた。十日、たったそれだけの時間だ。されどその「僅かな時間」を、彼女は要求してきた。
(話すことがあるか……)
手元の万年筆を手に取っては置き、また取る。三度目に指先で転がしながら、ふと唇の端がわずかに動いた。
リシェル・フォン・カロル。
かつては王宮の片隅に咲く、名門の花の一輪に過ぎなかった。
だがあの日を境に、再誕を果たしたかのような変化を見せた。
礼儀作法も立ち居振る舞いも完璧だったが、それは王宮に巣食う女たちには珍しくない。
けれど彼女は違った。
嘘のない瞳で人を見据え、優雅な所作の裏に確かな意志を秘める。そして何より沈黙と笑顔を使い分けながら、あの王女を見据えていた姿。
「話したいこと」とは、何だ。時期が聖夜祭直前であることも、彼女は理解しているはずだ。それでもなお時間を乞うというのは、ただの挨拶や愚痴では済まない内容なのだろう。
「無駄な感傷だ」
低く、自分に言い聞かせるように呟く。だが、その言葉は心の奥まで届かない。むしろかすかに反響して、胸の内に余計な雑音を生む。
日程表を見やれば、会議、視察、準備──すべてが詰まっている。だが、それを理由に断ることはできなかった。
理由など、最初から求めていない。
彼女が望んだという事実。それだけで、十分だった。
「……会わせてみせろ」
吐息のような声が、命令へと変わる。
短く走らせた筆跡はいつもよりわずかに速く、そして深い。
『カロル侯爵令嬢との面会、調整せよ』
その筆跡は普段のそれよりわずかに速く、わずかに深い圧を持って刻まれていた。
ペンを置き、再び窓辺を見やる。
冬の陽が、鈍い金色をもって地平線に沈もうとしていた。
その光に照らされたダークブルーの髪が、一瞬だけ揺れる。
彼の中で『理』が『情』に足を取られることは、滅多にない。
だが、リシェルの名は、いつからかその均衡をわずかに傾けていた。
(……話の内容を、知る必要がある)
興味と警戒が、紙一重でせめぎ合う。
だがその奥で、ごく小さな熱が静かに灯り始めていた。




