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死を越えた花嫁は運命を取り戻す  作者: さくる
スノルピスとスノードロップ
37/59

影は還る場所を知っている

天幕のように厚い雲が、空を鈍く覆っていた。

その夕刻、カロル侯爵邸の一室では人目を避けた書斎の奥にひとつの灯りがともっている。ランプの淡い光が、リシェルの藤色の髪をやわらかく照らしていた。机の上には地図と紙の束。彼女は静かに眉間へ指を添え、思索の海に沈んでいる。


「──戻りました、お嬢様」


影が囁くような声だった。

顔を上げると、そこにはいつものように音もなく現れたネーヴァの姿があった。濃紺の外套の裾に夜の気配を残したまま、彼女は静かに近づく。


「ご苦労さま、ネーヴァ。何か掴めた?」


リシェルの声は穏やかに落ち着きながらも、芯の通った響きを帯びていた。

ネーヴァは一礼し、小さな瓶を差し出す。中では淡い銀光を帯びた液体が、月影のように揺れている。


「雪の香です」


「ほんとうに、あそこへ入ったの?」


リシェルの瞳がわずかに細められる。問いの裏には、あの』エリセの私室領域』を意味していた。


「はい。警備は厳重でしたが、妨げにはなりませんでした。番犬と狂犬には──接触していません」


感情を感じさせぬ口調。けれど、確かに息づく忠誠の色がそこにあった。

リシェルは瓶を受け取り、光にかざす。銀の液体が雪解けのように微かに煌めく。


「これが、エリセの香水……。本当にありがとう、ネーヴァ。あなたでなければ無理だったわ」


「当然のことをしたまでです。私は影。お嬢様の命に従い、闇を渡るのが役目です」


その言葉に、リシェルの表情がふとやわらぐ。


「でも私は、あなたをただの影だなんて思っていないわ」


ネーヴァは少しだけ目を瞬かせた。その動きすらも抑制された、ほとんど人形のような反応だったが、彼女の中に微かな波が立ったことをリシェルは見逃さなかった。


「……お嬢様」


「私はあなたを信じてる。どんな闇にいても、必ず帰ってきてくれるって」


静かな言葉。その奥に宿るのは、一度すべてを失った女の確かな信頼だった。

命令ではなく、祈りに似た響き。


「必ず戻ります、貴女の元に」


「……ありがとう。あなたがいてくれてよかった」


その言葉は命令でも策略でもない。リシェルという一人の女の、心からの想いだった。ネーヴァは何も言わない。ただひとつ小さく息を吐き、再び闇の縁へと姿を溶かしていった。

だがその背には、誰にも気づかれぬほどの、かすかな温もりが残っていた。



再び訪れた静寂の中で、リシェルは小瓶を見つめた。銀の液体は深い雪原に差す月光のように、ひそやかに光を返す。

彼女は意を決し、そっと瓶の栓を外した。


ほのかに漂ってきたのは、やわらかく甘い、けれどどこか冷ややかさを含んだ香りだった。花の蜜を雪に落としたような、矛盾を孕んだ香り。


(やわらかな甘み……けれど、やっぱり冷たい)


記憶が静かに呼び覚まされる。ユリウスが見舞いに訪れたあの日、あの時もこの香りが漂っていた。


(あのとき、ネーヴァは毒気はい(・・・・)と言っていた。それは間違いではない。彼女の感覚は鋭い。だとすれば──)


リシェルの眉がわずかに動く。瓶を転がしながら、思考の底へ沈んでいく。


(この香り自体が毒なのではない。なら、何が?)


そうだ。


(あの日もこの香りがしていた。アレクシス殿下が息絶えたあの部屋でも、この香りは漂っていた……)


脳裏に浮かんだのは過去のひどく冷えた空気と、静まり返った王宮の一室。淡い雪のように漂っていたのは、まさにこの香りだった。


(なぜ……? あの時、エリセ王女はそこにいなかったはず)


心臓がひとつ跳ねる。

断片が、ひと筋の線になろうとしているのを、リシェルは確かに感じていた。


(ちょっと待って。順番が違う……)


まるで霧の奥から何かが姿を現すように、思考が澄んでいく。


(この香水が毒ではなく、媒介(・・)だとしたら?)


香りそのものに毒性はない。だがそれは別のものを覆い隠し、あるいは作用を促す役割があるとしたら?()本体が他に存在し、それに気づかせないためのベールがこの香り。


(……そうよ。きっとそれだわ)


思考の奥で何かが繋がった。

リシェルは息を呑み、胸元に手を当てる。


(香りが隠す(・・)ために使われているとしたら。たとえば、他の匂い──血液、薬草、あるいは毒素の痕跡を)


それなら、ネーヴァが毒を感知できなかったのも説明がつく。

甘く清らかな香りに潜む見えない刃。それは、誰にも疑われることのない美のかたちをして王宮の空気に忍び込んでいる。


「エリセ王女……あなたは、何を覆い隠しているの?」


誰に聞かせるでもなく、リシェルは静かに囁く。

小瓶をそっと机に置いた。

ランプの光が銀の液体の奥に、小さな影を落とす。

その影は消えない。

まるで、真実が自ら語り出す日を、静かに待っているかのようだった。

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