月下に落ちる影
細く欠けた月が、白銀の世界を淡く照らしていた。
リシェルは私室の窓辺に立ち、静かに夜の庭を見下ろしている。
昼に降った雪が薄く積もり、月光を受けて銀砂のような輝きを放っていた。その静けさは夢のように美しい。けれど、胸の奥に滲むのは、冷えた違和感だった。
(あの香り……)
スノードロップ。春先に咲く白い花。その清楚な姿と香りは、かつて母の残した手紙にも何度か記されていた。けれど今日感じたそれは、どこか死の気配を孕んでいた。
「ネーヴァ」
呼びかけに応じ、部屋の片隅から影が揺れた。無表情の侍女が音もなく現れる。
「はい、お嬢様」
「スノードロップに似た香りの花って、なにか知っている?」
穏やかな声に潜む警戒を、ネーヴァはすぐに察した。
わずかに首を傾げ、淡々と答える。
「……断定はできませんが。何か、気がかりなことでも?」
「ええ。ユリウス殿下の纏っていた香り……エリセ王女のものと同じだったの」
その瞬間、ネーヴァの瞳が微かに光を帯びる。だが感情を表に出すことなく冷静な声を返した。
「なるほど。フェルデリアで流通する調香かもしれません」
「わたしもそう思う。でも……」
リシェルはそっと目を細めた。
夜空に浮かぶ月は誰の手も届かぬ高さで、冷たく世界を見下ろしている。
「……あの香り、ただの飾りじゃない。記憶の奥にある何かを、思い出させるの」
言葉にした途端、胸の鼓動が速くなる。
昼間のアレクシスとの会話、あの瞳の深さ、それらが胸に鋭い棘のように残っていた。
「ネーヴァ、あの香りを調べて。原料も精油も、流通経路まですべて」
ネーヴァは一歩前に出て、静かに頭を垂れる。
「お任せください。三日以内に、何かしら掴んでまいります」
「お願いね」
その言葉に込めたのは信頼だった。かつてなら、疑念や恐れで押しつぶされていたかもしれない。でも今は違う。たとえ敵がどれほど巧妙でも、彼女はもう見誤らない。
スノードロップ──その白はただの清らかさではない。冷たく美しい仮面の下に潜む毒。その存在を、リシェルは確かに感じ取っていた。
闇の中、そっと瞳を閉じる。
胸に芽吹くのは、過去と未来を繋ぐ確かな意志だった。
◆
王宮西塔の地下書庫。
昼でも陽が届かぬこの場所は、永遠の夜に支配されていた。
ネーヴァは気配を殺し、まるで闇と一体化するようにして進んでいた。足音一つ立てず、吐息すら制御されたその動きは、人間というより獣に近い。
──いる。
棚の狭間、見えぬが確かに息づく気配。
そっと背後に回り込み、闇に紛れる。
ネーヴァは短剣を抜き、無音のままその影の首元にぴたりと冷たい刃を添えた。
「──もっと深く、闇にそまりなさい」
囁きは甘くも氷のように冷たい。
ばっと振り向きかけたそのヴィンセは、思わず動きを止めた。刃の冷たさより、彼女の姿にこそ驚愕と恐怖が走る。
「……リシェル嬢の影ってやつか。いやあの……これでも俺、一流の諜報員なんだけど?」
へらりと笑いつつ、ヴィンセは額の汗を袖で拭った。
ネーヴァは無表情に返す。
「戯言は結構。そんな気配を残してよく一流だなんて言えますね」
ヴィンセは口元をひくつかせた。
「いや、あんたが異常なんだよ……」
ひとまず敵意がないと判断したネーヴァは、短剣をすっと引き、足元に引いていた影から身体を滑らせて離れた。
「封印された部屋を一つ。王家と……ルヴェール家の印でした」
「……ルヴェール?」
ヴィンセの表情が、珍しく真剣になる。
「王家の封印は解けます。けれど、ルヴェールのは破れません。今は、無理です」
「てことは、その奥が本命か」
「お嬢様の望みは、今そこにはありません」
そう告げて、ネーヴァは懐から小瓶を取り出す。
淡く白銀にきらめく液体が、中でゆるやかに揺れている。
「雪の香なら、もう手に入れました」
「……はあ!? どうやって!?」
ヴィンセが派手に声を上げた。
「どうって、普通にお邪魔しました」
「……待て。あそこには番犬”と狂犬がいたはずだろ?」
「ええ。駄犬達には気づかれませんでしたよ」
こともなげに言い放つネーヴァに、ヴィンセは頭を抱えた。
「……いやもうほんと化けもんだろ、あんた……」
返ってきたのは、無表情のままわずかに瞬く無彩銀の瞳。影の中で、それがかすかに笑っているようにも見えた。
「……私からすれば、あなたのほうがずっとうるさいです」
「うるさい言うな」
ぼそりと呟く声を最後に、二人の影は音もなく別々の闇へと消えた。
◆
重厚な扉が静かに閉じられる音がした。
執務机の前に座るアレクシスは、視線ひとつ動かすことなく文書から目を離さない。
「……戻りました。任務終了」
軽口を挟むタイミングすらつかめぬ沈黙のなかで、ヴィンセは肩をすくめながら部屋へ足を踏み入れた。
「ご苦労だった、ヴィンセ」
そう言ったのは、側に立つラウル。いつも通り、感情の起伏を一切感じさせぬ声だった。一方で、壁際に寄りかかっていたカミルは腕を組んだまま小さく鼻を鳴らす。
「……その顔。怪我でもしたか?」
「してない。けど、精神はボロボロだね……」
ヴィンセは疲れた顔で椅子に沈み、懐から一枚のスケッチを広げた。王宮地下、封印された書庫の配置図。それは彼が数日かけて得た成果である。
「結論から言うと、情報はない。少なくとも、俺たちが求めてたものは」
「理由は?」
顔を上げたアレクシスの声は淡々としていたが、明らかにその奥に探るような鋭さがある。
「封印された部屋が一つ。王家とルヴェール家の紋章が並んでた」
その名を聞いた瞬間、カミルの眉がわずかに動いた。だが何も言わずラウルが先に口を開く。
「……二重封印か。中のものが王家だけの所有ではないということか」
「そういうこと。開けようと思えば手はあるけど、ルヴェールの印までは俺でも無理。しかもアレ、意図的に今開けさせないように配置されてた。動くならもっと大掛かりな準備が要る」
アレクシスは、ふ、と小さく息を吐いた。
「つまり、外部の者には開けさせない封印構成か……。察しはついた。続けろ」
「はいよ。で、問題は──」
ヴィンセは頬を引きつらせながら、肩をすくめた。
「俺よりも先に、あの影がそこにいたってことなんだけどさ」
「影?」
ラウルが問うとヴィンセは頭を掻きながら、うんざりしたように言った。
「リシェル嬢の影……ネーヴァ。気づいたときには、もう刃が首にあった」
カミルが噴き出すように笑った。
「おいおい、一流の諜報員様が?」
「うるせえ。あれはもう人間じゃねぇ。気配ゼロ、足音ゼロ、呼吸も心音も感じねえ。下手すりゃ死人……いや幽霊だよ、幽霊」
「……つまり、彼女はすでに影の先にいる」
アレクシスは平然とそう口にし、少しだけ口元に意味深な笑みを浮かべた。
「……して、雪の香は?」
「『もう手に入れました』ってさ。瓶で見せられた。例の香水の現物。フェルデリア産で中身は精製済み。見た所ただの香水……エリセ王女の私物で間違いない」
「なるほど……。それをどうやって?」
「『普通にお邪魔しましたが』だってよ。マティアスとクラリッサがいたはずだって言ったら、『駄犬たちには気づかれませんでした』って」
ラウルとカミルが無言で顔を見合わせた。
そして、アレクシスは再び視線を落とし低く呟いた。
「……彼女はすでに、人の領域を越えているな」
「うん、俺もちょっとそう思う。人間やめてる系」
「皮肉を言ってる暇があるなら、彼女を利用する方法を考えろ」
「……はっ。ごもっともで」
ヴィンセは苦笑しながらも、資料をきちんと揃えて机に差し出した。アレクシスはそれを一瞥し、静かに呟いた。
「──影が交差するならば、いずれ真実に触れる者も現れる。それが誰であれ……選ぶのは私だ」
室内に、冷たい静寂が戻る。
影の中の報せは、確かに主の手の中へと届いた。




