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死を越えた花嫁は運命を取り戻す  作者: さくる
スノルピスとスノードロップ
35/59

胸に芽吹くもの

小広間を辞したリシェルは、廊下の外で待機していたネーヴァと合流し、そのまま馬車へと戻るつもりで歩を進めていた。だが、曲がり角を過ぎたところでふと足が止まる。


「──リシェル嬢」


低く抑えられた声。

振り返れば、壁に背を預けて立つアレクシスがいた。まるで最初から待ち構えていたかのように、そのタンザナイトの瞳で静かに彼女を射抜いている。

問いも説明も不要、そこにあるのは沈黙に宿した意志だった。


「……殿下」


リシェルは咄嗟に言葉を呑み込み、小さく頭を下げる。目だけで周囲を確認すれば、護衛たちは遠巻きに控えるのみ。つまりこれは私人としての接触。


「少し時間はあるか?」


その声音は穏やかで、わずかにためらいが混じる。けれど眼差しの奥には彼なりの誠実さがにじんでいて、リシェルの胸に名もない波紋を広げていく。


「……はい。問題ありませんわ」


答えると、アレクシスはわずかに顎を動かし、先に歩み出す。

言葉は交わさず、足音だけが廊下に残る。やがて二人が辿り着いたのは窓の小さな応接室。王族と限られた客人しか使わぬ、簡素でありながら静謐な空間だった。

扉が閉ざされ、ひときわ深い静けさが降りる。

外の冬空から差し込む光は白く、室内の空気をさらに冷たく澄ませていた。リシェルは自らの鼓動が耳に届くほどに大きく響くのを覚える。


「……王女と会っていたな」


椅子に腰を下ろすや否や、アレクシスは切り込んだ。問いというより、確信の響き。すでに察していたのだろう。


「ええ。偶然お会いして……少しお話を」


淡い肯定に、彼は深くもなく頷いた。


「何かを感じた?」


政務でも礼儀でもない。純粋に彼自身の言葉として投げかけられた問い。リシェルは一度言葉を探そうとしたが、彼の視線に触れた瞬間、余計な思考はすべて剥ぎ取られる。


(この人に、嘘で飾る必要はないわ)


「……はい。感じました」


「どういう意味で?」


「彼女は整えていると仰いました。でも、私には……あれは囲い込みに思えました」


揺るぎない口調だった。

アレクシスは静かに目を細める。驚きではなく、納得を湛えた表情。すでに芽生えていた疑念に、外の声が重なっただけのことだった。


「……やはりそうか」


沈黙が落ち、リシェルは視線を伏せる。けれど唇は自然に動いた。


「……彼女はかつて、王宮のすべてを理想で包もうとしていたのだと……そんな記憶(・・)を、私は持っています」


言葉にした瞬間、胸の奥を冷たい風が吹き抜けた。言うつもりはなかった。けれど、今の彼になら伝えられると直感した。


 「……記憶(・・)?」


慎重な問い。追及ではなく、理解のための声音だった。

リシェルは真正面からその瞳を見返す。


「見たはずのない出来事を、知っているような気がするのです。それが記憶なのか夢なのか、自分でも……まだはっきりとは」


曖昧に濁した言葉を受け止め、アレクシスは長い沈黙を返した。拒絶ではなく思考の沈黙。


「……なるほど。君が変わった理由は、それか」


「理由のすべてではありません。でも……そうかもしれません」


彼は窓外に視線を向ける。冬の空は高く澄み、白雪が静かに舞っていた。

やがて再び彼女に目を戻し、短く告げる。


「君の言葉には力がある。すべてを信じたわけではないが、何かを背負っているのは確かだろう」


それはアレクシスという男にしては珍しく、感情の端を覗かせる言葉だった。

リシェルの胸に、小さな灯がともる。信じてもらえなくてもいい。ただ受け取ってもらえた。それだけで十分だった。

アレクシスはゆるやかに立ち上がる。


「……気をつけろ。王女は、一度牙を剥けば容赦しない」


「……わかっています」


「なにより、今は君の安全が大事だ」


そのひと言に胸が震える。冷たいはずの声が、なぜこんなにも温かく響くのか。

リシェルは微笑み、静かに応えた。


「殿下こそ……お気をつけくださいませ」


「ああ」


そんな些細なやりとりが、ふたりのあいだに絆の糸を紡いでいく。

扉を開き、彼が先に歩き出す。リシェルもまた、その背をためらいなく追った。

静かな戦いは、すでに始まっている。


──ならば、その先へ……共に歩もう。



夜半の王城。凍りつく空気のなか、第一王子の寝室には淡い灯だけがともっていた。アレクシスは目を閉じても眠れず、ただ天井を仰いでいた。夢を見たわけでもない。ただ意識が浮上したまま、心は休まらない。


「……記憶、か」


脳裏に焼きついて離れない、少女の言葉。

論理では説明できない。だが否定を拒む感覚が、確かにそこにあった。

空気がかすかに揺れる。


「……眠れませんか?」


まるで初めからそこにいたような滑らかさで、声が空間に落ちる。振り返らずともわかる、アレクシスの影を担う男、ヴィンセだった。


「いつからいた」


「さっきですよ。扉の影で姿勢を正して座っていたら、足が痺れました。いやあ、影って楽じゃないですね」


軽口に、アレクシスは視線だけで応じる。赤茶の髪を結い上げた男が、琥珀の瞳に笑みを宿して歩み寄った。


「報告か」


「ええ。日付が変わってからの最新情報です」


封蝋の残る報告書を机に置く。その手を止めたまま、ヴィンセはアレクシスの表情を覗き込む。


「……殿下、何かありましたね。眉間がいつもより一ミリ深いです」


「気持ち悪い」


「お褒めの言葉として受け取ります」


嘯くように笑ったあと、ヴィンセは軽く腰を下ろした。


「エリセ王女のご様子は?」


空気が張りつめる。アレクシスはわずかに眉を寄せ、答えた。


「リシェル嬢と接触していた。短時間だったが、王女らしい掌握を試みたようだ」


「やっぱり。囲い込みの手、じわじわと来てますねえ」


ヴィンセの表情から、いつもの軽口が一瞬消える。彼の裏、情報と心理の分析者の顔が静かに浮かび上がった。


「リシェル嬢は、何を?」


数秒の逡巡のあと、アレクシスは言った。


「彼女は……見たことのない記憶があると言った。過去か夢か、本人も区別がついていない。だが、語られた言葉には違和感がなかった」


ヴィンセの目が細まり、その琥珀色に観察者の光が宿る。


「なるほど、見たことのない記憶があると。そういうの、昔読んだ寓話にありましたね。魂だけが時を越える話……いや、失礼」


アレクシスは首を横に振る。


「否定する根拠も、受け入れる理由もまだない。だがあの瞳は……本物だった」


言ってから気づいた、感情で判断したと。

無表情が当たり前になったアレクシスにとって、それは異例のことであり、ある種の弱さだ。それでもリシェルの存在だけは、理屈では測れないものがあった。


「殿下」


ヴィンセの声がやけに穏やかだった。


「信じることって、弱さじゃありませんよ。少なくとも俺はそう思ってます」


「そうか」


アレクシスは窓の外に目をやる。

夜空には細い月。白雪の向こうに、少女の気配があるように思えた。


「王女は動く。ラウルに知らせろ。カミルには宮中の監視を」


「了解。俺も少し散歩してきます。火薬庫の下、怪しいですし」


「好きにしろ。ただし、見つかるな」


「殿下がそれを言います?」


ふっと、互いの口角がわずかに動く。ほんの一瞬だけ、重苦しい空気が緩んだ。


「それにしても」


立ち上がりながら、ヴィンセがぼそりと呟く。


「リシェル嬢の瞳は、綺麗でしたね。人も真実も映す目だ。俺は、ああいう目が好きですよ」


「だからこそ、警戒すべき存在だ」


アレクシスの声は静かだった。

否定ではなく、リシェルを「敵」と見なすものでもない。

その夜、彼は再び目を閉じる。

夢は訪れなかった。けれど胸の奥に残ったのは、ひとつの確信。


──彼女の言葉が未来を変える。


そう思わせるには、十分すぎる夜だった。

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