仮面の微笑み、刃の沈黙
冬の光は淡く、宮廷の大広間に差し込む陽すら白く冷えを帯びていた。緋の絨毯を中心に、謁見の間には季節の祝辞に訪れた諸侯たちが列をなし、その衣装や宝飾が光を返している。だが白銀の季節がもたらす冷ややかさは、どれほどの装飾をも仄暗い影に染めていた。
玉座に座するのは病床の国王ではない。代理を務める第一王子、アレクシス・レオナールだった。
漆黒の軍装に包まれた姿は、ひときわ鋭い冷気を放つ。タンザナイトの瞳は炎の気配を宿すことなく、まっすぐに前を射抜いていた。玉座そのものが人の姿を取ったかのように、彼は動かぬ威圧を空間に満たしている。
その場に、ひとりの女が進み出る。
銀白の髪に薄雪を閉じ込めたような装い。歩むたび、ドレスの裾が雪片のごとく静かに揺れ、微かな音さえ響かない。
「エリセ・フェルデリア。アレクシス第一王子殿下に、冬のご挨拶に参りました」
流麗に膝を折る。そこには一寸の狂いもない。礼儀、威厳、計算された柔和さ。理想の王妃の名にふさわしい所作。だった。
けれど彼は、何も感じていないかのように冷然と告げる。
「フェルデリアの王女殿下。王に代わり、礼を述べる」
儀礼として最低限の返礼。その声には情のかけらもなく、男として女に向けられる関心は微塵も感じられなかった。
彼女は婚約者であるはずなのに。
(……やはり、何も変わらない)
胸の奥で、鈍く灼けるものがあった。アレクシスにとって自分は、美も知も家柄もすべて駒でしかない。王国の秩序を保つための道具。その認識を彼は微塵も隠そうとしない。
それでも、あきらめることなどあり得なかった。冷たく拒まれようとも、隣に立つべき場所はここだと彼女は信じ続けてきたのだから。
ふと、アレクシスの瞳がこちらを向いた。その眼差しに感情はない。だが放たれた言葉は鋭利な刃だった。
「婚約については再検討を進めている。正式な決定は後日、改めて」
ざわめきが謁見の間を満たす。事実上の解消を示唆する言葉に、諸侯たちの視線が一斉に交錯した。
エリセは、それでも微笑を崩さなかった。
「……承知いたしました、殿下。ご判断をお待ちしております」
優美に一礼。だが、ドレスの陰で握られた掌は爪が食い込むほど強く閉じられていた。
(愛されることは力……)
繰り返すように彼女の心にその言葉が響く。
それは願望ではなく、誓いであり呪いであった。
彼女の笑みは深まり、吹雪の向こうで咲く雪花のように冷ややかに澄んでゆく。
◆
静けさが支配するのは控えの間だった。
重厚な扉が閉ざされ、外界の音は遠い。暖炉の火が白壁に影を映し、揺らめきはひどく儚げだった。
エリセはソファに腰掛けていた。銀白の髪を結い上げ、淡い碧眼に柔和な光を湛えている。けれど、胸の内では計算が巡り続けていた。先ほどの謁見での言葉は、彼女の未来を断ち切ろうとするもの。ならば自ら布石を打たなければならない
(必要な駒は揃った。あとは時を待つだけ)
そんな時だった。
扉を叩く音。返答の前に開いたその向こうから、思わぬ人物が現れる。
「──あら? エリセ王女……」
その声に、エリセはゆっくりと顔を上げた。
藤色の髪が揺れる。整った顔立ちには、少女らしさを残しながらもどこか冷静な気配があり、淡い紅色の瞳には年齢以上の覚悟が宿っているように見えた。
「こちらにいらっしゃるとは思わず……失礼いたしました」
礼を尽くす所作は整っていて、すでに王宮にふさわしい自信すら漂わせている。
「いいえ。私こそ長居してしまったわね。……どうぞ、お座りになって」
一瞬だけ、リシェルの瞳が揺れたように見えた。けれど彼女は頷き、ソファに対座した。
「リシェル様の今日のご装衣……とてもお似合いですわ。やはり若さというのは、それだけで美しいものですね」
「ありがとうございます。エリセ様こそ、今日のお召し物はとても洗練されていて、王宮そのものの品がありますわ」
やり取りは穏やか。互いに美辞を交わしながら、しかしその笑みの裏では冷ややかな観察が進む。
以前の印象とはまるで違っている、そんな違和感を少し前から抱いていた。
(見た目は同じ……でも中身は、まるで別人)
慎ましく控えめだったはずの少女が、今や王宮内で静かに影響力を広げている。貴族たちの間でも「変わった」と囁かれるほど彼女はしなやかに、けれど確実に立ち位置を変えていた。
──気に入らない。
「最近は、殿下のおそばによく仕えていらっしゃるとか」
自然に差し込む言葉。リシェルは落ち着いた声で応じる。
「ええ。陛下がご静養中ですので、お力添えになれればと」
「まあ、ご立派ですこと」
紅茶の香に紛れて、冷ややかな棘を潜ませる。この少女がアレクシスに接近していることは、もはや偶然ではない。
ならば──。
「けれど……お気をつけになって。王族の近くにいるということは、時に|的にもなり得ますのよ」
柔らかく言った言葉だった。だがその語尾にごくわずかだが冷気が混ざっていた。
リシェルは目を伏せ、微かに頷いた。
「ええ。心得ております」
怯えも迷いもない。その強さは偶然や成長ではない。覚悟を知る者だけが持つ硬質な光。
(……探る価値はあるわね)
エリセの指先がカップの縁をそっと撫でた。
焦る時ではない。だが、この女がアレクシスにとって何者になり得るのか。排除の是非を決めるためにも。
「また、ゆっくりお話しましょうね。リシェル様」
「はい。楽しみにしております、エリセ様」
二人の会話は、礼節を保ったまま終わった。
だが部屋を満たす空気は、もはや穏やかさとは程遠かった。
扉が閉まる音が背後に響いた。
リシェルは歩を進めながら、胸の奥で波のように寄せてくる緊張を押し殺す。背筋を伸ばし、表情を崩さずただ静かに。
(やっぱり……嗅ぎつけている)
エリセ・フェルデリア。
今の王宮で最も気品に満ち最も手強い女性。 彼女の笑みの奥に潜む棘は、今日も確かに肌をかすめた。
ふと立ち止まる。
漂う香りが鼻を打つ。 雪のように冷たく透明で、それでいてわずかに甘いそれは回帰前に、何度も嗅いだものだった。 あの夜、アレクシスの執務室でふと感じた冷たい気配。 ユリウスが常に纏っていた香りの正体。
(間違いない。この香り……あの人と同じ)
エリセが出たばかりの部屋の空気に、それはまだ残っていた。 彼女が愛用する香りの名は知らない。ただそれが、ユリウスの纏う香りだと、リシェルの記憶は正確に告げていた。
(この香りの出処は、やっぱりあなただったのね……エリセ王女)
そして、今も回帰前も彼女とユリウス繋がっている。
リシェルは目を伏せた。他人の仮面を剥がすことは難しい。けれど、執着と冷酷はもう隠しきれない。彼女もまた気づいているはずだ。
(気づかれた以上、もう……引くことはできない)
小さな布石をどう動かすか、エリセは必ず計算する。その盤上に挑むなら、こちらも備えなければならない。
背筋を伸ばし、静かに前を向く。王宮という盤上に、新たな戦線が布かれた。
その先に誰が待つとしても、迷いはない。
リシェルは生かされた。
ならば、この命の価値を決して他者に委ねたりはしない。




