影に託された光
手紙に記された印──サクラリス。
それが亡き王妃イレーネのものだと判明した瞬間、リシェルの胸に静かな波紋が広がった。セラフィーナではなく、イレーネからの便り。思いもしなかった真実に触れながらも、心の奥底には別の問いが芽を吹く。
(なぜ……私に? 王妃様は、お母様とどんな繋がりを持っていたの?)
答えを知る者は限られている。
ゼノではないとリシェルは直感していた。
「……ネーヴァ」
自室の窓辺に佇む影へ呼びかける。薄紫の帳が揺れ、そこから静かに現れたのはいつものように無表情の侍女だった。
「お呼びでしょうか」
「聞きたいことがあるの……あの手紙について」
ネーヴァのまつげがわずかに震えた。だが、すぐにいつもの冷ややかな無表情に戻る。
リシェルは一歩踏み出し、彼女を正面から見据えた。
「お母様と王妃様の関係……あなたは知っているのでしょう?」
問いかけに返事はない。
ただ沈黙のまま、影の侍女は立ち尽くす。
「教えて、ネーヴァ。あなたはお母様から何かを託されたのね? 私にはもう、知らないふりをしている余裕はないの」
抑えきれない感情が声に滲む。震えているのが自分か、それとも彼女か。
やがて、長い沈黙の果てにネーヴァが顔を上げた。
「お嬢様は……すべてを受け入れる覚悟をお持ちですか」
視線が重なる。影のように従ってきた侍女の瞳が、真っ直ぐにリシェルを射抜いた。
「……あるわ」
短い言葉だが、迷いの色はない。ネーヴァのまなざしがわずかに揺れ、遠い記憶を探るように細められた。
「私もすべてを知るわけではありません。ですが……お嬢様にお渡しすべきものがございます」
懐から取り出されたのは一つのペンダント。黒銀の鎖に蒼黒の石がはめ込まれ、周囲の光を吸い込みながら深淵のごとく輝きを放つ。
「……これは?」
「夜に生きる者の証です。王家の影とは異なる幻影の血を継ぐ者だけが代々引き継いできた魔具。ルヴェール家とその末裔にしか許されないものです」
リシェルは息を呑んだ。
セラフィーナの旧姓──ルヴェール。
「ルヴェール公爵って……ノクティアって一体……」
影の侍女はしばし言葉を選ぶように黙し、やがて低く答えを落とした。
「ルヴェール公爵家を語ることは、契約により禁じられております。ノクティアは、存在そのものが幻影。ルヴェールの血とともに生き、そして死にゆく存在」
「……魔具を操れるのは、魔力を血に宿す者だけって学んだわ。その魔力も、とっくに消滅したはずじゃ……」
「お嬢様。今は分からなくても、貴女にルヴェールの血が流れている限り、いつか答えが見える日がくるでしょう」
「それは……お母様が、ルヴェールの娘だったから?」
「ええ、セラフィーナ様はルヴェール公爵家の嫡女。そしてお嬢様もまた、その血を継ぐ御方です」
告げられる声音は淡々としていた。だが、その裏には影の侍女としての揺るぎない確信が滲む。
「この石には記憶が眠っています。ルヴェールの血を継ぐ者であれば触れたとき、封じられた記録を視ることができる。それは、イレーネ王妃とセラフィーナ様の間に交わされた『沈黙の契約』の一端」
リシェルは無意識にペンダントを受け取った。
軽いはずの重みが、指先から心臓へとずしりと沈み込む。
「あなたにとって、お母様は……どんな人だったの?」
以前と同じ問いに、ネーヴァは初めて柔らかな眼差しを見せた。
「強くて怖い……けれど優しい人でした。冷たさと温かさを併せ持つ、不思議な方。私はあの方に命を拾っていただいたのです。だからこそ命を賭してでも、あのお方の大切なものを守ると決めました」
その声には、一片の揺らぎもなかった。
(私の知らないお母様……)
リシェルはペンダントを胸に抱く。
これは、血の契約と記憶の結晶。
今まさに、それが目を覚まそうとしている。
まぶたの裏に光が差し込む。
黒銀の石が静かに脈動し、蒼の光が視界を覆った。
(……記録……?)
世界がぼやけ意識が沈む。
◆
そこは王宮のとある部屋。
重厚なカーテンが揺れる灯されたランプが揺らめく中、二人の女性が向かい合っていた。
一人は、ダークブルーの髪を夜のヴェールのように流した気品ある王妃イレーネ。そのまなざしは柔らかくもどこか哀しげで、目の前の人物を静かに見つめている。もう一人は、蜂蜜色の髪を肩に流した若きセラフィーナ。
「……そう、決めたのねセラフィーナ……」
イレーネの声音は静かだった。だが、その奥には確かな寂しさと慈しみが混じっていた。
セラフィーナは小さくうなずき、視線を落とす。
「ええ……ごめんなさい……私には、これしか道がないの。けれど……あの子を思うと胸が痛むの」
その声音には確固たる決意と、捨て去れない後悔の影が同居していた。
「謝らないで。その選択をさせたのは私たちよ。あの子を守るために、すべてを計っていたつもりだった。でも、あなたはすでに未来の気配を察していたのね」
「そんな……っ、私は……私のために選択するの! 誰のせいでもないわ」
震えるようなセラフィーナの声。
イレーネはそっと微笑み、手を差し伸べる。それはまるで姉妹か、あるいはそれ以上に深い絆で結ばれた存在のように。
「セラフィーナ。わたくしはあなたの希望を未来に託して、あなたの旅路を追うわ。だから──待っていて」
イレーネはそっと彼女の胸元に蒼黒の石を返した。石が触れた瞬間、青白い光がふたりの影を重ね合わせる。
「……この記録が、いつかあの子たちに届く日まで」
あの子たち──と告げられた言葉に、沈黙が落ちた。
イレーネの瞳は誰かを想っていた。
名は語られない。
けれどそこには愛があった。
母として選べなかった苦い記憶を抱きながらも、託すのは「正しさ」ではなく「信じる心」。
セラフィーナが、そっと呟く。
「どうか忘れないで。たとえ声が届かなくても、私たちは確かにここにいたと……」
「ええ……きっと届く。光の中に堕ちるとしても、闇の中に希望があると信じてる」
その言葉に込められた想いを、リシェルの胸は震えながら受け取る。セラフィーナとイレーネが交わした約束は血を越え、時を越えて今なお息づいていた。
──映像はそこで途切れた。
◆
「……今のは……お母様と王妃様……」
目を開くと、再び自室の帳が揺れていた。
だが胸の内には、確かに灯がともっている。
過去に交わされた約束。
沈黙の中で結ばれた契約。
そして命を繋ぐ者たちの想い。
(…お母様は、何かを決意されていた……)
リシェルは胸元のペンダントを強く握りしめた。
答えはまだ霧の中にある。けれどこの記録の先に、確かに何かがあるのは間違いない。
それだけは確信できた。
振り返ればそこに、ネーヴァが静かに佇んでいた。
「……ただいま、ネーヴァ」
震える声に、影の侍女は静かに目を伏せる。
「お嬢様の道が闇に呑まれぬよう……どうか、光を絶やさないでください」
夜の帳が深まっていく。
綻び始めた沈黙の契約は、やがて避けられぬ未来を導く光となるのだろう。




