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死を越えた花嫁は運命を取り戻す  作者: さくる
スノルピスとスノードロップ
32/59

言葉にならぬ答え

白百合の温室での茶会から幾日かの時が流れた。あの場で交わされた視線や言葉の余韻は、なお胸の奥に影を残している。

けれど時間は過ぎていく。

降り始めた雪が窓外を白く染め、庭のバラは剪定を終えて冬芽だけを残してひっそりと眠りについていた。

リシェルは私室のソファに腰を下ろし、机上の一通の手紙を見つめていた。

淡いピンクの封蝋。その中央には、サクラリスの花が繊細に刻まれている。春先に咲く五弁の儚い花であり、母セラフィーナが愛した花のひとつ。


『……似てる──の瞳色だ』


誰かがそう言った記憶がある。けれど、その「誰か」の顔は霞んで思い出せない。

手紙に差出人の名は記されていなかった。ただ確かなのは、この手紙を届けたのがゼノだということだけ。問いただしても、彼は肩をすくめるばかりだった。


『君の母上に頼まれただけだよ。差出人も、中身も知らない』


その言葉に偽りはなかった。彼の声には軽さがあっても、瞳は決して嘘を映してはいなかった。


「……お母様が、生前に……?」


もしそうならこれは、過去から託された手紙だ。だが、それを今になってリシェルへと届けさせたのは誰なのか。

彼女は息を整え、そっと封を開いた。

筆跡は流麗でありながら、どこか癖のある文字。見覚えはない。



『リシェルへ。

真実は隠され、血は記録される。

西の宮殿三番目、花の間に記憶が眠る。

急ぐことはない。

ただ、知らぬふりを忘れぬように』



たった五行でも、その一言一言は冷ややかな重みをもって胸に沈んでいく。

西の宮殿。

かつて政から遠ざけられ、わずかに滞在した離宮。

その中にあった「花の間」。今は封じられ、侍女たちですら知らぬはずの一室。

リシェルは便箋を閉じ、深く息を吐いた。

背後に控えていたネーヴァへと視線を向ける。


「ネーヴァ……あなた、なにか知っているの?」


無口な侍女はわずかに睫毛を伏せ、ためらうように言葉を選んだ。


「……気になりますか?」


「ええ。もし知っているのなら、教えて。お願い」


短い沈黙ののち、ネーヴァは静かに告げた。


「それなら……第一王子殿下にお尋ねください」


「え……?」


思いも寄らぬ名に、リシェルは息を呑む。胸の奥に冷たい雪が、静かに降り積もっていった。


(アレクシス殿下が……この手紙のことを?)


血と記録。

花の間に眠る記憶。

そして「知らぬふりを忘れるな」という戒め。

リシェルは震える指で便箋を胸元に抱いた。

心の奥底で、ひとつの言葉が浮かんでいた。


──これは、未来へ託された遺言。



氷のような静寂が、アレクシスの執務室を支配していた。壁際の暖炉で薪が爆ぜ、炎が淡いぬくもりを与える。だが、その温もりは室内の緊張を和らげるには足りない。

リシェルは淡い紅の瞳を伏せ、一通の手紙を机上に置いた。


「殿下……これを、見ていただけますか」


アレクシスは視線を落とす。

封蝋に刻まれた花を見た瞬間、その瞳がかすかに揺れた。

サクラリス──時が止まったかのように、彼は低く息を吐いた。


「……これは」


声はいつもの冷静さを保ちながらも震えていた。


「ラウル」


「……まさか。これは……イレーネ王妃の紋章……」


背後に控えるラウルの灰の瞳に、珍しく動揺が浮かぶ。

リシェルは息を呑んだ。


「サクラリス……それが、王妃様の……」


封筒に吸い寄せられるように視線を落とす。


「私……その意味を知らずに……。叔父はただ、母から託されたと、それだけを……」


指先がわずかに震え、言葉も揺れる。

アレクシスの瞳が彼女を見つめ、細められた。

ラウルは封を凝視し、静かに頷く。


「……公式記録には残っておりません。ですが、この香と筆致……」


ラウルは封筒を手に取り、慎重に確かめる。


「間違いなく──」


「母上のものだ」


アレクシスが遮るように言った。

脳裏に蘇るのは、あの柔らかな微笑。春を告げる花とともに、静かに佇むイレーネ・レオナールの姿だった。

リシェルの声が震えた。


「西の宮殿に滞在していたとき、、叔父が私室の机に置いていったんです。母セラフィーナからの手紙だと。それだけを……」


アレクシスは封を開き、便箋を広げた。広げられた便箋から漂う香りに、彼は微かに瞼を閉じる。


「……間違いない。母上の筆跡だ」


ラウルが受け取り一読し、深い沈黙を落とした。


「たしかに……文体も香も、すべてが王妃のものにございます」


アレクシスは便箋を見下ろし、指先で文字をなぞる。


『リシェルへ。

真実は隠され、血は記録される。

西の宮殿三番目、花の間に記憶が眠る。

急ぐことはない。ただ、知らぬふりを忘れぬように』


部屋を支配する沈黙。

ぱちりと薪が爆ぜ、封じられた記憶を呼び覚ますかのように炎が揺れた。


「……花の間。記録。記憶が眠る……」


ラウルが低く呟く。


「【血は記録される】──封印された記録庫のことを指しているのかもしれません。しかし『記憶』とは……」


アレクシスは立ち上がり、窓の外を見やった。雪はなお静かに降り続いている。


「……母上は、自分の子である私ではなく、リシェル嬢……君にこの手紙を託した。セラフィーナ夫人と母上は……いったい何を知り、何を託そうとしたのか」


問いかけに、リシェルは目を伏せる。だがその唇は、はっきりと答えを形づくった。


「……きっと、私だけが『知らぬふりを忘れてはならない』記憶……なのでしょう」


交わされた視線の奥に、確かな決意が光る。

ラウルが静かに目を伏せた。

アレクシスは便箋を読み終えると静かに封へ戻し、机上に置いた。その指先に残る微かな香が、遠い記憶を呼び起こす。母の面影が脳裏をかすめ、思考が淡く揺れた。


「……君は、この手紙の意味を探るつもりか?」


低く抑えられた声だったが、わずかに温度を帯びている。目の前の少女は、一拍の迷いもなく頷いた。


「はい……西の離宮の『花の間』を確認したいと思っています。許可をいただけますか?」


静寂が室内に満ちる。窓の外の白雪が、時間さえも答えを待つかのように降り積もっていた。


「今は動けない」


淡々と告げる声に、事務的な響きが混じる。

謁見や使節対応で王城を離れる余裕はない、それが表向きの理由だ。だが、アレクシス自身は胸奥に別の懸念があることも理解していた。


「……ということは、時期を見て許可をくださる……ということでしょうか?」


その問いにアレクシスは短く息を吐き、瞬きを数度繰り返すリシェルを観察した。薄紅の瞳が揺れるのを見て、仮面の内側がかすかにほころぶ。


「私も同行する。どうせ行くなら、一人で行かせるには危険すぎる場所だ」


呆然と見返す瞳を前にさらに言葉を重ねる。


「君はすでに、多くの者から警戒を受けている。王家に繋がる何かを抱えていると知れれば、静観で済む者ばかりではない」


冷静な声音に理由は淡々と並べられていたが、その中に保護する意志が滲む。反応を見守りながらアレクシスは視線を逸らし、静かに呼吸を整えた。


「私の者を通じて知らせる。それまで、くれぐれも軽率な行動はするな」


言い終えた後、少女は深く一礼して扉へ手をかける。

その動作を見届けた瞬間、アレクシスは背後から声をかけた。


「リシェル嬢」


振り返る少女の瞳を、アレクシスは淡い光で見据える。


「周囲にはよく注意して動け。王宮とは、本来静かなほどに……物音がよく響くものだ」


制度上の指示ではなく個人的な警告。

彼女の表情や声色ではなく、その全身の緊張を観察し、最小限の助言を与えるだけで十分だと判断した。


「殿下、もしかして……私のことを心配してくださっているのですか?」


その問いに、タンザナイトの瞳がわずかに揺れる。冷徹の奥に刹那の感情が透けたのを、アレクシスは確かに捉えていた。


「ああ。君は……黎明の嵐のような人だからな」


言葉の意味を理解していない少女の反応に気づきながらも、彼は顔を伏せる。氷の王子がこうした比喩を口にするのは極めて稀であり、計算されたものではない。少なくとも、本人は無意識の感情で口をついて出たのだろう。


「……早く帰れ。邪魔だ」


言い捨てるように視線を逸らす。

その後ろ姿を確認しながら、アレクシスは深く息をつく。薪がぱちりと爆ぜ、揺れる炎が机の上に影を落とす。微かな温もりが室内に静かに広がった。

執務室に再び静寂が満ちる。

しばしの沈黙ののち、ラウルが口元にかすかな微笑を浮かべた。


「……黎明とは、また詩的な表現で」


アレクシスはふと、声の主を意識する。


「……聞こえていたか」


「ええ。耳はまだ衰えておりませんので」


老侍従の微かな笑みに、室内の空気がふわりと和らぐ。アレクシスは深く息を吐き、揺らめく炎に視線を落とした。

ぱちりと爆ぜる薪の音が微かに胸の奥まで響き、いつもより温かな影を室内に広げていた。




扉が静かに閉まると、執務室の氷のような空気から離れ、リシェルの肩から小さな荷が降りたような感覚があった。

胸の奥で先ほどの言葉がくすぶる。


(あのアレクシス殿下が、そんな比喩を自然に口に……)


冷静沈着、氷の王子と呼ばれる男。誰もが理知的な言葉を期待する。だが、彼はためらわず微細な感情の色を混ぜたのだ。

頬にほんのり熱が上がる。まるで、深い冬に差し込む朝の光のように心をそっと照らされた気分だった。


「……はあ。今日は本当に、調子が狂うわ」


と、小声でつぶやきながら廊下を進む。

白い光が窓越しに差し込み、雪の降る庭を淡く映している。冷たい空気がドレスの裾を揺らし、静かな廊下に歩くたび小さな音を立てる。

背後に足音が控えめに響く。振り返れば、ネーヴァがいつもの無表情で静かに並んでいた。


「ネーヴァ、聞いてたでしょ?」


問いかけに、ネーヴァは瞳ひとつ動かさず淡々と答える。


「その通りかと」


「え……?」


言葉の意味がすぐには理解できず、リシェルは思わず眉を寄せる。すると、ネーヴァはさらに落ち着いた声で続ける。


「お嬢様は、たしかに黎明の嵐です」


その一言が、静かな廊下に落ちる。

リシェルは一瞬ことばを飲み込み、胸の奥でそれを噛み締める。やがて理解が追いつき、思わず口を押さえた。


「……ちょっと待って。あなたまで何を言い出すの?」


「事実ですから」


反論する余地はなかった。

しかし、まつげの奥にわずかに氷が緩んだような揺らぎを見て、リシェルは思わずくすりと笑う。


「なんなの……今日はみんな、変だわ」


冷気に溶けた雪の匂いが廊下に漂い、薄紅の瞳に光と影が揺れる。心の中で、言葉にできぬ波が静かに打ち寄せる。


(黎明の嵐……褒め言葉? それとも皮肉? アレクシス殿下なら、どちらにも取れる……)


小さく頭を振り歩みを早める。

背後でネーヴァの足音が変わらず静かに続く。

雪の光を帯びた廊下を進むたび、胸に小さなため息が漏れる。

嵐が夜明けを告げるのだとしたら、それは……悪くない未来なのかもしれない。


微かに頬を染め心の奥でそっと微笑む。

まだ見ぬ「花の間」と、そしてアレクシスとの距離に思いを馳せながら。

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