仮面の微笑
白百合の香がまだ残る温室に、ようやく静けさが戻っていた。
リシェルとエリセが退出したあと、花々の囁きすら遠のき、残されたのは雪を透かす光と沈黙だけ。硝子窓の向こうでは冬の陽が傾き始めていた。降り積もる雪が庭園を覆い、そこに射し込む斜光がきらきらと白銀を散らす。それとは逆に温室の中には緑の息吹が漂い、白百合の花弁がわずかに震え清らかな芳香を放っていた。その香りは甘美であると同時に、どこか張り詰めた静寂を際立たせていた。
カトリーヌは白磁のカップを口元に運び、琥珀色の液をひと口含んだ。
ほう、と小さく息を吐く。
その仕草には、王太后という仮面を下ろした女の顔がのぞき、そこには疲れとわずかな安堵が滲んでいた。
「……で?」
沈黙を破ったのは孫だった。
どこか愉しげな声音で、紅茶を揺らしながら言葉を投げてくる。
「何を試したのですか。お祖母様」
「試した?」
カトリーヌはわずかに笑みを浮かべ、それ以上は言わない。
ユリウスは首をかしげ、小動物のように愛嬌を見せる。その仕草さえ、計算に裏打ちされた演技に思えてならない。
「僕をリシェル嬢と会わせたのは……あの問いを引き出すためでしょう?」
「あなた、いつからそんなに勘の鋭い子になったのかしら」
「昔からですよ。ただ、言葉にしなかっただけです」
カップを口に運ぶその目は、透明すぎるほどに澄んでいる。透明すぎるがゆえに、かえって不気味だ。まるで感情という濁りを削ぎ落とした水晶。そこに「心」というものがあるのかどうか、祖母でさえ判別がつかない。
「人は皆、何かの仮面をかぶって生きています。僕はただ、それを忘れないようにしてきただけ」
「……リシェル嬢の問いが、堪えたのではなくて?」
「まさか。僕には、響く心がありませんから」
あまりにあっさりと言い切る声。
だが、彼女はその答えに痛みを覚える。
胸の奥が冷えるのは祖母としてか、王太后としてか。
「お祖母様。もし兄上が心に縛られて壊れるのなら……」
ユリウスの声音が唐突に冷たさを帯びる。
「僕が全部もらいますよ。だから安心してください」
「……そんなに欲しいの? 全部」
「欲しいのは物じゃありません。必要なのは、空白です」
ユリウスは淡い笑みを浮かべた。それは彼自身のものというより、他者が望む理想を写し取った鏡のような笑みだった。
「人々が『理想』を求めるなら、僕はその器になりましょう。誰よりも柔らかく、誰よりも順応に。その空を埋める存在に」
カトリーヌは息を詰めた。
彼は「人」ではなく「幻想」に堕ちようとしている。
「……アレクシスは王にしかなれない子だった。あなたは、その逆なのね」
ユリウスは目を細める。
それは優越感にも似た誇りの色だった。
「兄上は王になるための人間。僕は王に化けられる人間。違いは明白でしょう?」
「ええ。けれど、それを誇りと呼ぶの?」
「誇りじゃありません。ただの優位性。僕はそう造られたのでしょう」
「誰に?」
「さあ……世界か運命。あるいは、お祖母様に……かもしれませんね」
笑みの下に光はない。それでも彼は微笑みを崩さず、魂のないまま完璧に振る舞う。
「……ユリウス。あなたは何になりたいの?」
その問いに孫は答えなかった。
いや、答えを拒んだのだろう。
代わりに空のカップを置き、静かに立ち上がる。
「僕は希望になります。人々が描く、最も都合の良い未来の象徴に」
「けれど、自分を失った先に何が残るのかしら」
投げかけた声は虚空に落ちた。
答えは、花びらの散る音と共に置き去りにされる。
温室の白百合が一輪、はらりと揺れ落ちる。
祝福かあるいは警鐘か。
カトリーヌは唇を噛んだ。
◆
温室を出てもなお、白百合の香りが衣にまとわりついている気がしてユリウスは指先で襟元を払う。
足取りは軽やかで迷いがない。だが胸の奥には、微かな影が沈殿していた。
それは祖母の問いではない。
──『ユリウス殿下。あなたには心がありますか?』
静かに鋭く突き立ったリシェルの言葉。
(あの子……最近、兄上に似てきたな)
内心で苦く笑う。
昔のリシェルなら、王太后にあんなことを言えるはずがない。
だが今の彼女は違う。
迷いなく核心を突き、相手の仮面を揺さぶってくる。
(心の有無なんて、僕に問うべきことじゃない)
そう思いながらも、一瞬だけ揺らいだ。否定してきたはずの「心」に、わずかに遅れて反応してしまったことが自分でも驚きだった。
ユリウスは大理石の廊下を歩きながら、窓越しの雪景色に目を向ける。
白一色の世界に映る自分の影だけが妙に濃い。
「……厄介な子だ」
低く誰にも届かぬ声で呟く。
リシェル・フォン・カロル。
そしてエリセ・フェルデリア。
どちらが意図し、どちらが偶然か。
だが確かに舞台は仕組まれている。
幕は降りず、役者たちは次の場面へ進んでいく。
(兄上は王になる人間。僕は王に化ける人間。そしてあの子は……)
ユリウスは目を細める。
脳裏に浮かぶ藤色の髪とまっすぐな瞳。
(……自分の足で歩き始めた目だ)
理想の弟君。
優しさの化身。
順応の器。
──それが自分の役割だと信じてきた。
だが、リシェルはその秩序を乱す。
歯車を一歩ずらし、仮面の奥に棘を差し込んでくる。
石畳を踏む音がやけに大きく響く。
それは胸の空洞を測る拍動のようで、自らの冷たさを再確認させた。
「……さて、僕の出番かな」
襟元を整え微笑を浮かべる。
心のないけれど完璧に磨かれた微笑み。
幻想の器が再び舞台に上がる。
胸に刺さった棘を抱えたまま──。




