白百合の温室にて
冬の陽はかすかに傾き、雪が王宮の庭園を静かに薄っすらと覆っていた。
白銀の帳の中ただ一つぬくもりを保つ場所、それが王太后カトリーヌの私的な温室だった。この空間だけは凍てつく風を拒むように、濃緑の葉と凛と咲く白百合が生きている。淡い暖気と香が満ちる中、温室の中央には白磁の丸卓と三つの椅子。
カトリーヌはすでに席に着き、優美に微笑んでいた。
その笑みは温室の花のように柔らかくとも、実際には舞台を見下ろす支配者のそれである。
「よく来てくださいましたね」
カトリーヌの声は柔らかく、だが張り詰めた糸のように隙がない。片手には金の縁を持つティーカップ。中の琥珀色の液体から湯気が上がる。
向かいに座るのはエリセ。雪を纏う銀髪、白銀の刺繍を施したドレスは王女の理想像を体現している。彼女は完璧な微笑を返してきた。
「こちらこそ、お招き光栄ですわ。王太后陛下」
そして二人の間に腰を下ろしたのはリシェル。藤色の髪に雪解けのような微笑を浮かべ、堂々と座している。最も若く最も異質にもかかわらず、まるでここに招かれることを最初から知っていたかのような落ち着きがあった。
カトリーヌは自ら茶を注いだ。白磁のポットから湯が落ちる音に呼応するかのように、白百合が揺れる。
「不思議ですね。三人とも王家の近くにいる女性なのに、誰一人、同じではない」
エリセは微笑を崩さぬまま、言葉の裏を探るように応じる。
「それこそ王家の多様性の証ですわ。陛下が導いてこられた秩序のね」
「……導く、ね」
カトリーヌは小さく笑う。その響きには、かつて導かれなかった者への皮肉が混じっていた。
「けれど秩序は乱される。時に、思いがけない手によって」
彼女の視線は、ゆっくりとだが間違いなく自然とリシェルへと向かう。リシェルは逃げず、ただ微笑を湛えたまま答えた。
「王家の秩序を守るのは、きっと血だけでは足りません。それを支える意志と、未来を見据える目が必要なのでしょう」
その一言に温室の空気が変わる。エリセの碧眼が揺れ、カトリーヌの眉尻に小さな皺が寄った。
「……血を否定しますか、令嬢」
問いを投げた声は、知らず硬さを帯びていた。
「いえ、血統は大切です。けれど、血がすべてを決めるのなら、この国はとっくに正しい未来へ辿り着いていたはずですわ」
まっすぐにこちらを見返す少女の瞳。淡紅の光が温室の薔薇よりも鮮やかに咲いていた。
エリセが冷ややかに笑みを浮かべる。
「ずいぶんと大きなことをおっしゃるのね、リシェル様。まるでご自分が、未来を選び取る力でもあるように」
「私はただ、未来に責任を持つ覚悟がある者が、その一部を担うべきだと思っているだけです」
言い切った声音には、揺るぎがない。
カトリーヌは、その強さに思わず口角をわずかに上げた。皮肉でも侮蔑でもない。それは警戒と認識と言う名の、王太后としての本能がそうさせた笑みだった。
「……やはりしぶといのね。忘れたころに、また王家の前に立ちはだかるなんて」
(やはりあの女の血か……)
胸中に、忌まわしい名が過ぎる。決して許せなかった、王家に恥をもたらした女の影。
リシェルのまぶたがわずかに伏せられる。まるで母の名を感じ取ったかのように。
「お母様が王家に恥をかかせたと、今もお思いですか?」
カトリーヌは答えず、ただティーカップを口元に運ぶ。けれどその手の動きは、かすかに震えていた。
その緊張を断つように、エリセが紅茶に唇をつけて囁いた。
「女というのは恐ろしいものですわ。愛されなかった過去も選ばれなかった記憶も、簡単には癒えない」
その言葉に誰もが沈黙した。
薔薇の香と雪の光が交錯する温室で、三人の女たちは静かに紅茶を啜る。
それぞれに《過去》を持ち、それぞれに《未来》を睨み、誰ひとり相手に背を向けぬまま──。
白百合がわずかに揺れ、冬の光が窓硝子を透けて差し込む温室に柔らかな足音が重なった。
「お呼びでしょうか、お祖母様」
金の髪を揺らして現れたのは、第二王子ユリウス・レオナールだった。藍の外套を纏い、穏やかな微笑みを浮かべる姿は絵画のように端麗。けれどリシェルには、その微笑の奥にいくつもの仮面が重なっているのが見えていた。
(その顔の下に、どれほどの虚飾があるのかしら……)
「ええ、ユリウス。少し、話をしたくて」
カトリーヌの声は祖母としての柔らかさをまといながらも、瞳は監視者の冷光を失わない。
ユリウスは優雅に一礼し、リシェルの隣に座った。
あえてエリセの正面を選ぶ。
「これはこれは、リシェル嬢。お茶の席とは奇遇ですね」
「奇遇かどうかは、王太后様にお尋ねください」
リシェルは静かに笑みを返す。ユリウスの瞳には、底知れぬ青が蠢いていたが、それを読み取ることは容易ではない。
カトリーヌはわざとらしくため息をつき、ティーカップを持ち直す。
「ユリウス。このリシェル嬢はね、あなたの婚約者候補だったの……断られたけれど」
「ああ、それは初耳ですね」
ユリウスは芝居がかったほど大げさに目を見開き、楽しげに笑った。驚きさえも計算に含める軽やかさ。
「こんな美しい令嬢に断られていたなんて。少しは傷ついたふりをしたほうがいいですか?」
「必要ありませんわ。事実は事実。過去を悔やんでも始まりませんもの」
リシェルが穏やかに告げると、ユリウスは肩を竦めて笑った。
「うん。そういうところ好きだよ……きっぱりしてて」
「ありがとうございます。けれど……好きは、本来誰か一人に向けるものですわ」
その一言に、カトリーヌの目が細められる。軽口にしては芝居が過ぎる。まるで最初から、この場の話題を知っていたかのような余裕。
「あら、ユリウス。今のあなたに好きだと言える女性はいるの?」
王太后の問いかけに、ユリウスの視線がわずかに逸れた。
向かった先は、正面に座るエリセ。
その一瞬に宿る色を、リシェルは見逃さなかった。
それは色を含んだ視線と記憶を含んだ熱。 言葉よりも饒舌に語る情事の名残。エリセもまた、その視線を受け止める。 銀白の睫毛を伏せ、唇にわずかな笑みを浮かべるその仕草はまるで、愛された女が持つ密やかな勝利の証だった。
(……見せつけてるつもり?)
リシェルは何も言わなかった。
ただ静かにカップを持ち上げ、紅茶を口に含む。温かい液体が喉を通っても、胸の内は冷えていくばかりだった。
(この人たちにとって未来は舞台。誰が主役になるか、その役を奪い合っているだけ)
「リシェル嬢」
不意にユリウスの声が彼女の名を呼んだ。
「……あなたは、兄上を想っているのですか?」
温室の空気が凍りついた。
エリセの眉がわずかに寄り、カトリーヌの唇が静かに閉じられる。リシェルは琥珀色の紅茶を卓に置き、まっすぐユリウスを見返した。
「ええ。殿下が想像する意味がどうであれ、私はアレクシス殿下が歩もうとする未来を支持していますわ」
「へえ。そんなふうに思ってもらえるなんて、兄上は幸運ですね。でも……あの人は冷たいでしょう?」
「……冷たいものにも心があります」
短く答えるリシェルの胸に、ひとりの男の姿が浮かぶ。彼が見据える未来には嘘がない……むしろ、冷たさの奥に揺るぎない誠実があった。
「──ユリウス殿下。あなたには、心がありますか?」
その問いにユリウスは初めて言葉を失った。
タンザナイトの瞳がかすかに揺れる。
だがすぐに、いつもの笑顔を取り戻す。
「今はさ、柔軟性が大切な時代だよ。僕は孤独や冷たさで支配するより、優しさと温もりで導く方が国の幸福になると思うんだ」
(ああ……この人は、心がないからこそ何にでもなれる)
理想の王子にも、恋人にも、支配者にも。
求められるままに姿を変えられる恐ろしさ。
だからこそ、けして信じてはならない。
胸の奥で決意が固まる。
彼を見誤れば、この国も、自分も飲み込まれる。
白百合がひとつ、風に揺れた。
冬の陽は沈みかけ、温室に長い影を落としていく。
冷たい茶会の余韻を残し、運命の盤は静かに回り始めていた。




