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死を越えた花嫁は運命を取り戻す  作者: さくる
スノルピスとスノードロップ
29/59

揺らぎの兆しと記憶の棘

侯爵家の執務室には、夕暮れの光が柔らかに射し込んでいた。高窓から差し込む陽が壁を淡い橙色に染め、長い影を床に落とす。重厚な机の上には分厚い書類が整然と積み上げられ、そこに漂うのは紙の匂いと、書き手の手に沁みついたインクのわずかな香り。

その机の背後に立つレイナルトは、腕を組んだまま沈思していた。瞳の奥に宿るのは揺るぎなき冷徹さでありながら、同時に父としての思慮でもある。やがて彼は深く息を吐き出し、低い声を落とした。


「……想像以上に、大きな一手だったよ。あの宣告は」


静まり返った室内にその声が響いた瞬間、張りつめた空気がわずかに震えた。

執務机の前に控えていたリシェルの眉が、かすかに震える。


「……本当に仰ったのですね。婚約の再検討を」


問いかけというよりも、確かめずにはいられぬ呟きだった。


「言葉通りだ」


レイナルトは重々しく頷いた。


「殿下は議場において明確に表明された。『私的な事柄ゆえ控えるつもりでいたが、公的な場において自らの立場を示す』とな……。まるで、誰かに向けての宣言のようだった」


その声音には、父としての厳しさと測りかねる思いが入り混じっていた。普段は滅多に揺るがぬレイナルトの眼差しが、今は娘の横顔を探るように深く注がれていた。


「名は出さなかった。ただ『王国の未来を支え得る伴侶とは何かを、今一度見極める必要がある』と……それだけで議場は大きく揺れた」


彼の語り口から、会場を包んだ緊張とざわめきがありありと伝わる。

リシェルは沈黙のまま、その言葉を胸に刻み込んだ。


「ドレクス公爵は、会議が終わるや否や王太后陛下との面会を求めたそうだ。ユリウス殿下を推すための布石だろうな」


声はさらに低くなる。


「……エリセ殿下の背後も、ただでは済むまい。ベルンハルト・グラントも今回は沈黙を選んだ」


「彼が……?」リシェルの声が小さく洩れる。


「かつて宰相を務めた男だ」


レイナルトは苦く笑んだ。


「あれが口を閉ざすときは、嵐の前触れに等しい」


短い沈黙が落ちる。

壁際に控えていた影の侍女ネーヴァの瞳が、氷のように冷ややかに光り、二人のやり取りを見届けていた。

やがてレイナルトが娘へと視線を戻す。


「……リシェル。お前はどう受け止めた?」


声は穏やかだった。だが、その奥には父としての切実な願いが潜んでいた。リシェルは目を伏せ、言葉を探すように息を吸い込んだ。


「殿下は……婚約という慣例を、自らの意志で終わらせようとしているのですね」


「その通りだ」


レイナルトは静かに頷く。


「だが、それが何のためか……お前自身の目で確かめねばならない」


それ以上は語らず、軽く手を振り退出を促した。


扉を開けると、淡い陰が廊下を満たしていた。

「一人で戻れるわ」リシェルはネーヴァにそう告げ、静かな足取りで歩き出す。

廊下を抜け自室の窓辺に立ったとき、藤色の髪が夕映えを受け、柔らかに揺れた。


アレクシス第一王子とエリセ王女の婚約見直し。

そのひと言が、どれほどの未来を揺るがすか。リシェルには痛いほどわかっていた。


回帰前の人生が脳裏に浮かぶ。

ユリウスの婚約者として王宮に入った日々。

砂糖菓子のように甘くはない現実。

アレクシスと初めて交わした会話と、ハイドアレジアで見た横顔。どこまでも高潔で、遠く……触れることすら叶わぬ存在。

──それでも。

あの瞳の奥に一瞬だけ陰るものを、彼女は忘れていなかった。


(殿下もまた……国のために選ばざるを得なかった)


静かに、思考が沈んでいく。

けれど今、彼は違う。

自ら選ぶ側に立とうとしている。

──統治者としての判断か。

──それとも、一人のアレクシスとしての意志か。


リシェルの胸に問いが響く。

そして蘇るあの言葉。


『私と共に立てるか。必要な時、私の剣になる覚悟があるか──それだけだ』


あれは、どの立場からの言葉だったのか。

問いを抱いたまま、リシェルは自らの胸に向き合う。


(私がここに還ってきた意味を、確かめなければ)


窓辺に射す光が頬をかすめた。

その瞳の奥に、静かな決意が芽吹いていく。



リシェルが静かに部屋を去ると、扉の閉じる音が執務室に落ちた。その瞬間、張りつめていた空気が微かに変わる。静寂だけが残り、しかしそこには鋭い刃のような気配が漂っていた。

レイナルトは机上の茶器に目を落とす。すっかり冷えたティーカップを指先で軽く転がしながら、低い声を発した。


「……どう思った?」


言葉を向けたのは壁際に控える影の侍女。無表情のまま立つネーヴァが、わずかに視線を動かす。


「公の場で殿下が変化を見せた。それをリシェルがどう受け止めたのか」


短い沈黙が続いた。

この場では沈黙すらも許される、そういう間合いだった。

やがてネーヴァが低い声で答える。


「お嬢様は()に、心を揺らされました」


レイナルトの目が細められる。


「揺れ動く……それは弱さか?」


「いいえ」


ためらいはない。


「それは歩もうとする証です。自らの意志で、選びとろうとする者の」


即答にレイナルトはわずかに息を吐く。口元に刻まれた笑みは、どこか遠い記憶を呼び起こすものだった。


「……あの子はセラフィーナに似てきた。意志の強さも、感情の扱い方も」


ネーヴァは答えない。ただ、まなざしを伏せて静かに受け止める。


「ネーヴァ」


「はい」


「おまえは影として、どこまでの変化を許容する」


問いに彼女の身体がわずかに揺れた。それは警戒ではなく、心の深みに触れられたときだけ見せる緊張の綻び。


「どのようなお嬢様であっても、命を懸けてお守りします。それが私の存在理由です」


「感情は?」


低く沈む声。

それでもネーヴァは迷わず言い切った。


「主の意志を、私情で左右するつもりはありません」


レイナルトはわずかに目を細める。


「そのつもりがいつまで続くかは……おまえ自身の成長次第だ」


淡々とした言葉に、ネーヴァのまなざしが再び鋭さを帯びる。

レイナルトは椅子を離れ、窓辺へと歩を進めた。夕闇が迫り、王都の輪郭が青褪めた影の中に沈んでいく。


「王都の空気は変わり始めている。今日の宣告が静かな風向きを作った。だが同時に火種を煽ることにもなる。そのとき彼がどう動き、あの子がどう立つか」


背に響いたのは変わらぬ冷静な声だった。


「そのために、私はここにおります。ご当主様」


「……あの子を守るには、おまえの刃だけでは足りないかもしれん。だが、刃を研ぐ時期はすでに過ぎた」


窓を指で軽く叩き、レイナルトは短く息を吐く。


「さて。私もそろそろ、動き始めるとしよう」


知略家の背に、ネーヴァが深く一礼する。

その一礼に宿るものが忠誠か、それとも別の何かなのか──レイナルトは確かめようとはしなかった。

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