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死を越えた花嫁は運命を取り戻す  作者: さくる
スノルピスとスノードロップ
28/59

白き庭の綻び、蠢く影

薔薇が咲き誇る静寂の庭で、エリセは一人噴水の縁に腰を掛けていた。霜を抱いた薔薇は気高く、冬の冷たい空気は彼女の周囲で結晶のように澄み渡る。その姿はもはや絵画の一部であり、誰も触れられぬ聖域に立つ白銀の花であった。

けれど、その内側では。


「……風向きが変わった……」


薔薇の花弁に触れていた指を離し、かすかな呟きが冷たい空に溶ける。直感は、風の音とともに彼女の胸奥に広がっていった。


「──エリセ様!」


慌ただしい足音が庭を乱した。雪を踏み荒らす軽率な気配に眉をひそめるまでもなく、声の主は分かっている。


「ノエル・サリヴァン。あなたにしては随分と無作法ね?」


「忘れたいくらいの報せなんです!」


肩で息をするノエルが議会報告の写しを差し出した。白手袋の指が紙を震わせる。


「第一王子殿下が『婚約について再検討する』と、発言されました」


沈黙が落ちる。

吐息すら凍る空白が広がり、冬薔薇の庭をさらに静謐にした。エリセは視線を紙には落とさない。ただゆっくりと立ち上がり、その銀白の髪を風に揺らす。


「再検討……ですって?」


「名指しは避けられました。けれど、あの場にいた者は皆理解していたはずです」


言葉に被せるように、一歩前へと出たのはクラリッサ。無表情のまま静かな声で告げる。


「姫様、ご命令を」


その声音には、微かな殺気すら含まれていた。


「今じゃない」


エリセは淡々と制する。


「まだ、確証はないわ。あの人は……私の名を口にしなかった」


クラリッサがすっと引くと、ノエルが低く囁いた。


「……ですが、名を告げなかったことこそ意味が重い。明言を避けたのは余地を残すため。つまり、別の選択肢を示唆する意図かと」


「別の選択肢、ね……」


囁きは雪よりも冷たく沈む。

その時、無言のまま近づいたマティアスが、厚手の外套を彼女の肩に掛けた。温もりが流れ込むはずなのに、胸の奥は冷えたまま。


「彼は……私を否定はしなかった。けれど、正面からも見なかった」


噴水の水面に揺れる波紋を見つめながら、エリセの瞳は細められる。そこに映るのは、彼女ではなく別の影。


「リシェル・フォン・カロル……」


ノエルが憎しみに滲んだ声で名を吐く。


「殿下が彼女に執心し始めたと聞いたときから、この未来は予感していました。しかし……まさかここまで堂々と揺れるとは」


エリセは瞼を伏せ、そしてわずかに唇を吊り上げた。


「いいえ。揺らいだのではないわ。あの人は、そういう人間ではない……変えたのよ。支配者としての価値観を」


「……まさか、それを認めるおつもりですか?」


ノエルの声には抑えきれぬ驚きが滲む。エリセは振り返り、その碧眼に氷の光を宿して告げた。


「認めてなどいない。私は、選ばれなかったことを受け入れる女ではないから」


庭に再び静寂が満ちる。雪がひとひら、彼女の肩へと舞い落ちた。


「クラリッサ。あの女の行動記録と周辺情報を集めなさい」


「承知しました」


「マティアス、必要とあれば忠告を。それ以上するなら、枯れ落ちない程度にね」


「……御意」


最後に、エリセはノエルへ視線を送る。その声音は冷徹でありながらひどく甘美でもあった。


「あなたは筆を執りなさい。エリセ・フェルデリアはフェルデリア王国の王女であり、友好の証。完璧なる王妃候補であると、宮廷に知らしめるのです」


ノエルは深く頭を垂れた。

そしてエリセは、白雪の舞う庭を歩き出す。



白百合の離宮──王太后カトリーヌが余生を送る場所は、雪の静寂に包まれてなお、宮廷の奥にひそむ権力の熱を孕んでいた。燭台の炎が細く揺れ、影が壁を舐める。ギルバート・ドレクスはその揺らめきを背に受けながら背筋を正し、王太后の視線を真正面から受け止めていた。


「……婚約のご再考、と申したか?」


カトリーヌの声は硬質だった。だがその奥に疲れと苛立ちが潜んでいることを、ギルバートは聞き逃さなかった。


「左様でございます、陛下。第一王子殿下ご自身が議会の場で口にされたと。しかも、その真意を誰にも明かさず……」


言葉は恭しくも内心では冷笑が浮かぶ。王冠を戴くはずの器が自ら綻びを晒すなど、どれほど愚かしいことか。


「その誰にもには、王太后陛下ご自身も含まれるのでしょうな。ならば、王太子としての資質に疑義が生じるのではございませんか?」


「公爵」


横から侍女長が低く諫める。だがギルバートは眉ひとつ動かさなかった。むしろ、微笑を深めて言葉を重ねる。


「ご無礼は承知の上。ですが、これは忠言でございます。長きにわたりこの国を御覧になってきた陛下ならば、すでにお気づきでしょう。民は安定を求めます。そして議会もまた……」


「……ユリウスを、と言うのか?」


黄金の瞳が細められる。その刃を受けても、ギルバートの声音は揺るがなかった。


「ユリウス殿下は穏やかで人望も厚い。何より、良き助言を受け入れる度量をお持ちです」


王太后の唇が冷ややかに歪む。


「操りやすい、の言い換えではなくて?」


挑発を含んだ問い。

しかしギルバートは、それすらも想定済みだった。


「操るなどと、とんでもない。国を導くに必要なのは、すべてを己で抱え込む剛腕ではなく、適切な助言を活かす柔軟さかと」


「……つまり、アレクシスにはそれがないと?」


「彼の変化が成長か破綻か……それは時が証明するでしょう。だが、我らには待つ猶予がございません。現にあの発言以降、宮廷の空気は乱れ始めている」


王太后は立ち上がり、窓外に視線を投じた。

舞うことのない雪。しかし、冷気は確実に深まってゆく。


「……やはり、私のもとで育てるべきだったか……」


その独白に、ギルバートは内心で微かに嗤う。


(所詮は女、己の情に絡め取られている。だからこそ、この瞬間を逃さぬ)


「孫を思う王太后としてのお心は尊い。ですが王国は、感情だけで動かせるものではございません」


深々と一礼して、彼は退室した。

その背に、なお熱を帯びた王太后の視線が注がれていることを知りながら。



雪の夜。

グラント伯爵家の書斎は暖炉の赤い炎が揺らめき、室内に濃密な空気を満たしていた。ベルンハルト・グラントはグラスに注がれたワインを揺らし、炎の反射を見つめる。外の雪は静かだが、この室内には権力と策略の熱が満ちていた。


「……随分と踏み込んだようだな、ギルバート殿」


ベルンハルトの声は穏やかだが、含みのある響きがあった。目の前に座るギルバート・ドレクスの背筋がピンと伸び、表情をほとんど変えずに静かに微笑む。権力欲に駆られるその姿を、ベルンハルトはじっと観察する。


「時は今ですぞ、グラント卿」


ギルバートの声は冷たく、確信に満ちている。


「綻びを見たなら、そこに楔を打ち込むのは当然のこと。完璧な器など存在しません。必要なのは、従順な王。婚約を翻す王に未来は託せぬのです」


ベルンハルトはグラスを口に運び、静かに笑う。


(従順な王か。権力に酔う男の滑稽さは、見れば見るほど面白い)


しかし、その滑稽さの背後に潜む危うさも熟知していた。盲目的な野望は、上手く利用すれば大きな武器になる。


「……ふむ。私はあの王子の綻びに、人間らしさを見たがね」


ベルンハルトの声が室内の静寂を切り裂く。


「同情か?」


「まさか」


ベルンハルトは鼻先で笑った。


「王家に情を求める者は愚か者だ。ただ、惜しい器だと思っただけだ」


ギルバートは眉を少し上げ、椅子の背に体重を預けた。


「惜しかろうが、砕ければただの瓦礫。未来を築けるのは、柔らかな土台にほかならぬ」


ベルンハルトは目を細める。


(柔らかな土台、か……)


すべては権力欲に満ちた者の理屈だ。

だがこの理屈を使わせれば、王国の未来は微細に動かせる。ベルンハルトはそれを知っている。目の前の男の滑稽さは、老獪な策士には好都合の材料にすぎなかった。


「……相変わらず手厳しいな、ギルバート殿は」


ベルンハルトは微笑を浮かべ、グラスを軽く揺らした。


「だが、王冠が揺らいだとき……私もその隙間を覗かせてもらうとしよう」


ギルバートは薄く笑い、視線をベルンハルトに向ける。


「フン。蛇が血の匂いを嗅ぎつけぬはずがない」


二人の間に静寂が落ちる。だが、ベルンハルトにはその沈黙が味わい深いものだった。ギルバートの瞳には権力を握ることへの執着と、己の小さな滑稽さが混ざっている。老獪なベルンハルトにとっては、その滑稽さもまた、掌の中で転がすに値するものだった。

火の揺らめきが二人の影を壁に映す。

滑稽さと冷酷さ、老獪さと権力欲──この交錯は、まるで小さな戦場のようだ。

ベルンハルトはグラスを傾け心の奥で思う。


(利用できるものはすべて利用すればよい。権力欲も、野心も、盲目の滑稽さも。あの女が過去の影をそっと胸に抱えたままならば……未来は、我が掌の上で転がせる)


二人は互いの思惑を胸に、別々の闇へと歩み去る。

夜の宮廷。

ちらつく雪。

表向きは平穏な光景の奥で、王冠を巡る静かな政変は、確実に形を取り始めていた。

ベルンハルト・グラントの瞳は炎に映る影を見据えつつ、底知れぬいやらしさを帯びて光る。


(目の前の滑稽な権力欲も、やがて思惑どおりに動かせるだろう)


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