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死を越えた花嫁は運命を取り戻す  作者: さくる
スノルピスとスノードロップ
27/59

氷の宣告

石造りの議事堂には、朝から重苦しい気配が満ちていた。王が病に伏している、その一事だけで王宮全体は極限の緊張に包まれている。

ゼノは議場左手の最前列に着き、深灰の瞳で周囲を見渡した。国王補佐官として、この場の空気を読むのもまた職務の一環。列席する貴族や高官たちの顔ぶれをざっと眺めただけで、そこに交錯する思惑の色が見えてくる。

アレクシスを推す実務派。

ユリウスを担ぎ出そうとする貴族派。

その二つの間で火種は燻り、いつ爆ぜてもおかしくはなかった。

ただ一人、冷ややかに座している男を除いては。

アレクシス──王位継承第一位の皇子。

その姿から、軽率さや未熟さは一切感じられなかった。彼の静謐な振る舞いには、むしろこの場にいる誰よりも確固たる理解と自覚が滲んでいる。

やがて宰相が王の代理として登壇した。

その声には、いつになく疲労の色が混じっていた。定例の報告が終わった直後、静かだが鋭い声がぬるい空気を切り裂いた。


「……一つ、皆に伝えておくべきことがある」


ゼノの背筋がわずかに伸びる。アレクシスがこの場で自ら声を上げる、それは宣告に等しい。

青年はゆったりと長いダークブルーの髪をかき上げ、落ち着き払った声で告げた。


「私の婚約について、再検討を進めている」


その瞬間、その場が凍りついたように静まりかえった。


「な……っ」

「再検討だと……?」

「殿下、それは……!」


一拍遅れて、ざわめきが広がる。息を呑む者、互いに顔を見合わせる者、狼狽を隠しきれず声を荒げる者。

エリセ王女の名を明言することなく、しかし明白に一石を投じたその言葉は、波紋となって場を覆った。

ゼノの眼差しは鋭く細められる。

名を出さない……それは、最小限の混乱で最大の意思を伝えるための高度な手並み。この青年はすでに、場を支配する術を心得ている。アレクシスは動揺を一顧だにせず、淡々と続けた。


「政治的均衡の名の下に定められた縁組に、私は常に距離を置いてきた。だが現状を鑑み、真に王国を支え得る伴侶とは何か……今一度、見極めるべきと判断した」


その言葉は、ここにいる全員の胸に突き刺さる。

とりわけ、婚約を利害得失に計ろうとした者たちには。

ゼノの胸中に、複雑な感情が交錯する。表層では補佐官として冷静に受け止めるべき事柄。

しかし……。


(もし、この一手があの子を守るためのものなら……私は、迷う理由はない)


アレクシスは騒めく議場を一瞥した。

そして冷ややかな声音で言い切った。


「……王国の未来を担う者として私は妥協しない。以上だ」


それだけを告げ、青年はすっと立ち上がった。

その背に迷いは一片もない。

まるで全てを読み、計算した上で切り捨てるかのような歩みだった。

ゼノは息を詰め、目を逸らさなかった。

そして確信する。

この青年はただの政治家ではない。

未来を背負う覚悟を持った「王の器」なのだと。


(もはや、誰かの庇護を必要とする存在ではない……か)


それは後ろ盾の婚約ではなく、互いに選び、共に立つという前提へ塗り替えるための宣告。

そして、この衝撃の言葉を裏でどう受け止めるか。

野心に駆られた者たちが、蠢かぬはずもない。



議事堂の扉が閉じられた瞬間、ユリウスは無言で天井を仰いだ。喧騒の余韻が残る空気は重く、喉に絡みつく。


(……兄上は、そう出たか)


「再検討」ただ一言。

名も責めも告げず、それでいて場を支配したあの宣言。完璧で冷徹で、誰よりも聡明な王の器。


(……僕とは違う)


爪が皮膚に食い込み、鈍い痛みが掌に走る。

だがその痛みすら、虚しさを際立たせるだけだった。


「おい、ユリウス……大丈夫か?」


声をかけたのは、近衛騎士で幼馴染のセドリック・アルヴァン。心配げに眉をひそめ、周囲の目も気にせず近づいてくる。


「……何が?」


ユリウスは微笑みで応じた。

動揺を覆い隠す仮面を整えるのは、彼にとって呼吸のようなものだった。


「いや、あの発言だ。エリセ王女の立場も、お前の立場も揺らぐぞ」


「揺れる……? セド、揺れるのは天秤だけでいいんだ。僕の足元はまだしっかりしてる」


冗談めかして返しながらも、視線は自然に周囲へ走る。ざわつく高位貴族たち、互いに顔を見合わせる取り巻き。すでに次の打算を巡らせている者も少なくない。


(……見世物だな)


けれど愚かなのは彼らではない。誰かの影に身を寄せ、気づかぬふりで歩んできた自分こそが最も滑稽だ。


「……兄上は賢い。王にふさわしい」


吐き出した言葉に、セドリックが眉を上げる。


「……本気でそう思ってるのか?」


「もちろん。でも……王にふさわしいだけじゃ、王にはなれないのかもしれない。セドはそう思わない?」


その問いに、セドリックはしばし黙した。

やがて低く、まっすぐに答える。


「……いつまで演じるつもりなんだ、ユリウス」


ユリウスの瞳が微かに揺れた。


「演じる? 僕は僕だよ。優しくて、誠実で、みんなの理想の王子様」


「違う」


その一言は刃のように鋭い。


「本当にそうなら、そんな目をしているはずがない」


一瞬、笑みに影が落ちる。

幼馴染だからこそ見抜かれる。


(……やはり厄介だ)


ふと脳裏をよぎるのは、エリセの白い手と微笑み。彼女は言った「あなたには価値がある」と。だが、それはユリウス自身に向けられたものではない。


(……実に滑稽だ)


「大丈夫だよ、セド。君の忠告は心に留めておく」


にこりと笑みを浮かべる。

その裏の感情までは、誰にも見せはしない。セドリックはなお何か言いたげだったが、結局言葉を呑んだ。


「……笑うなよ、そんなふうに」


その呟きが背に届いたとき、ユリウスは仮面の下で微かに口角を上げた。


(兄上が捨てるなら、僕が拾えばいい)


政治も、婚約も、王座さえも。

優しげな仮面の裏で、狡猾な道化師は静かに笑んでいた。



灰色の石畳を踏みしめる音が、木枯らしに溶けていく。


「……再検討とは、穏やかな表現を選ばれたものね」


リディア・フェルナンドが象牙の扇をぱたりと閉じた。赤い瞳は呆れを滲ませつつも、鋭さを失わない。


「名を避けても、王族同士の縁談を棚上げにするなんて」


その横で、エミリア・クロフォード伯爵令嬢が淡い笑みを浮かべる。


「けれど、言葉選びは巧みでしたわ。立場も感情も示さず、ただ再考を表明しただけ。波風を立てぬよう見せかけながら、意味は鋭い。まるで……」


「氷の刃のよう?」


リディアは皮肉を込めた笑みを洩らした。


「まったく……リシェル嬢には、おあつらえ向きの盾が現れたものね」


「……本当に盾なのでしょうか」


エミリアの声はわずかに低い。


「どちらにせよ、カロル侯爵令嬢が選ばれる側(・・・・・)にまわったのは確かだ」


背後から合流したセドリックが言葉を継いだ。風に揺れる髪を払いつつ、冷静に告げる。


「殿下の意図がどこに向かおうと、彼女にそれを支える器があるのか、我々が見極めねばならない」


リディアは扇を閉じたまま顎に指を添え頷いた。


「ええ。だから観察を続けるわ。あの令嬢……あまりにも変わりすぎているもの」


「やっぱりそう思われますか?」


「ええ。以前の彼女はお茶会にも参加できないほど臆病で、ただ周囲に合わせるだけの子だった。自ら仕掛けるような人間ではなかったはずよ」


「物語の主人公のような変化、でしょうか」


「あるいは……誰かにそう、仕込まれたのかもしれない」


赤い瞳が冷ややかに細まる。


「いずれにせよ、必要なのは感情ではなく正確な事実。私たちの役目はそれを掴むこと」


「そして必要であれば……排除する」


セドリックの声音に、エミリアは眉をひそめる。


「……その必要がないことを祈りますわ」


小さく落とした声には、微かな憂いが混じっていた。


アレクシスの宣告が王宮に走らせた波紋は、まだ始まりにすぎない。木枯らしが過ぎる石畳の上で、人々の思惑は静かに交差し始めていた。



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