氷の宣告
石造りの議事堂には、朝から重苦しい気配が満ちていた。王が病に伏している、その一事だけで王宮全体は極限の緊張に包まれている。
ゼノは議場左手の最前列に着き、深灰の瞳で周囲を見渡した。国王補佐官として、この場の空気を読むのもまた職務の一環。列席する貴族や高官たちの顔ぶれをざっと眺めただけで、そこに交錯する思惑の色が見えてくる。
アレクシスを推す実務派。
ユリウスを担ぎ出そうとする貴族派。
その二つの間で火種は燻り、いつ爆ぜてもおかしくはなかった。
ただ一人、冷ややかに座している男を除いては。
アレクシス──王位継承第一位の皇子。
その姿から、軽率さや未熟さは一切感じられなかった。彼の静謐な振る舞いには、むしろこの場にいる誰よりも確固たる理解と自覚が滲んでいる。
やがて宰相が王の代理として登壇した。
その声には、いつになく疲労の色が混じっていた。定例の報告が終わった直後、静かだが鋭い声がぬるい空気を切り裂いた。
「……一つ、皆に伝えておくべきことがある」
ゼノの背筋がわずかに伸びる。アレクシスがこの場で自ら声を上げる、それは宣告に等しい。
青年はゆったりと長いダークブルーの髪をかき上げ、落ち着き払った声で告げた。
「私の婚約について、再検討を進めている」
その瞬間、その場が凍りついたように静まりかえった。
「な……っ」
「再検討だと……?」
「殿下、それは……!」
一拍遅れて、ざわめきが広がる。息を呑む者、互いに顔を見合わせる者、狼狽を隠しきれず声を荒げる者。
エリセ王女の名を明言することなく、しかし明白に一石を投じたその言葉は、波紋となって場を覆った。
ゼノの眼差しは鋭く細められる。
名を出さない……それは、最小限の混乱で最大の意思を伝えるための高度な手並み。この青年はすでに、場を支配する術を心得ている。アレクシスは動揺を一顧だにせず、淡々と続けた。
「政治的均衡の名の下に定められた縁組に、私は常に距離を置いてきた。だが現状を鑑み、真に王国を支え得る伴侶とは何か……今一度、見極めるべきと判断した」
その言葉は、ここにいる全員の胸に突き刺さる。
とりわけ、婚約を利害得失に計ろうとした者たちには。
ゼノの胸中に、複雑な感情が交錯する。表層では補佐官として冷静に受け止めるべき事柄。
しかし……。
(もし、この一手があの子を守るためのものなら……私は、迷う理由はない)
アレクシスは騒めく議場を一瞥した。
そして冷ややかな声音で言い切った。
「……王国の未来を担う者として私は妥協しない。以上だ」
それだけを告げ、青年はすっと立ち上がった。
その背に迷いは一片もない。
まるで全てを読み、計算した上で切り捨てるかのような歩みだった。
ゼノは息を詰め、目を逸らさなかった。
そして確信する。
この青年はただの政治家ではない。
未来を背負う覚悟を持った「王の器」なのだと。
(もはや、誰かの庇護を必要とする存在ではない……か)
それは後ろ盾の婚約ではなく、互いに選び、共に立つという前提へ塗り替えるための宣告。
そして、この衝撃の言葉を裏でどう受け止めるか。
野心に駆られた者たちが、蠢かぬはずもない。
◆
議事堂の扉が閉じられた瞬間、ユリウスは無言で天井を仰いだ。喧騒の余韻が残る空気は重く、喉に絡みつく。
(……兄上は、そう出たか)
「再検討」ただ一言。
名も責めも告げず、それでいて場を支配したあの宣言。完璧で冷徹で、誰よりも聡明な王の器。
(……僕とは違う)
爪が皮膚に食い込み、鈍い痛みが掌に走る。
だがその痛みすら、虚しさを際立たせるだけだった。
「おい、ユリウス……大丈夫か?」
声をかけたのは、近衛騎士で幼馴染のセドリック・アルヴァン。心配げに眉をひそめ、周囲の目も気にせず近づいてくる。
「……何が?」
ユリウスは微笑みで応じた。
動揺を覆い隠す仮面を整えるのは、彼にとって呼吸のようなものだった。
「いや、あの発言だ。エリセ王女の立場も、お前の立場も揺らぐぞ」
「揺れる……? セド、揺れるのは天秤だけでいいんだ。僕の足元はまだしっかりしてる」
冗談めかして返しながらも、視線は自然に周囲へ走る。ざわつく高位貴族たち、互いに顔を見合わせる取り巻き。すでに次の打算を巡らせている者も少なくない。
(……見世物だな)
けれど愚かなのは彼らではない。誰かの影に身を寄せ、気づかぬふりで歩んできた自分こそが最も滑稽だ。
「……兄上は賢い。王にふさわしい」
吐き出した言葉に、セドリックが眉を上げる。
「……本気でそう思ってるのか?」
「もちろん。でも……王にふさわしいだけじゃ、王にはなれないのかもしれない。セドはそう思わない?」
その問いに、セドリックはしばし黙した。
やがて低く、まっすぐに答える。
「……いつまで演じるつもりなんだ、ユリウス」
ユリウスの瞳が微かに揺れた。
「演じる? 僕は僕だよ。優しくて、誠実で、みんなの理想の王子様」
「違う」
その一言は刃のように鋭い。
「本当にそうなら、そんな目をしているはずがない」
一瞬、笑みに影が落ちる。
幼馴染だからこそ見抜かれる。
(……やはり厄介だ)
ふと脳裏をよぎるのは、エリセの白い手と微笑み。彼女は言った「あなたには価値がある」と。だが、それはユリウス自身に向けられたものではない。
(……実に滑稽だ)
「大丈夫だよ、セド。君の忠告は心に留めておく」
にこりと笑みを浮かべる。
その裏の感情までは、誰にも見せはしない。セドリックはなお何か言いたげだったが、結局言葉を呑んだ。
「……笑うなよ、そんなふうに」
その呟きが背に届いたとき、ユリウスは仮面の下で微かに口角を上げた。
(兄上が捨てるなら、僕が拾えばいい)
政治も、婚約も、王座さえも。
優しげな仮面の裏で、狡猾な道化師は静かに笑んでいた。
◆
灰色の石畳を踏みしめる音が、木枯らしに溶けていく。
「……再検討とは、穏やかな表現を選ばれたものね」
リディア・フェルナンドが象牙の扇をぱたりと閉じた。赤い瞳は呆れを滲ませつつも、鋭さを失わない。
「名を避けても、王族同士の縁談を棚上げにするなんて」
その横で、エミリア・クロフォード伯爵令嬢が淡い笑みを浮かべる。
「けれど、言葉選びは巧みでしたわ。立場も感情も示さず、ただ再考を表明しただけ。波風を立てぬよう見せかけながら、意味は鋭い。まるで……」
「氷の刃のよう?」
リディアは皮肉を込めた笑みを洩らした。
「まったく……リシェル嬢には、おあつらえ向きの盾が現れたものね」
「……本当に盾なのでしょうか」
エミリアの声はわずかに低い。
「どちらにせよ、カロル侯爵令嬢が選ばれる側にまわったのは確かだ」
背後から合流したセドリックが言葉を継いだ。風に揺れる髪を払いつつ、冷静に告げる。
「殿下の意図がどこに向かおうと、彼女にそれを支える器があるのか、我々が見極めねばならない」
リディアは扇を閉じたまま顎に指を添え頷いた。
「ええ。だから観察を続けるわ。あの令嬢……あまりにも変わりすぎているもの」
「やっぱりそう思われますか?」
「ええ。以前の彼女はお茶会にも参加できないほど臆病で、ただ周囲に合わせるだけの子だった。自ら仕掛けるような人間ではなかったはずよ」
「物語の主人公のような変化、でしょうか」
「あるいは……誰かにそう、仕込まれたのかもしれない」
赤い瞳が冷ややかに細まる。
「いずれにせよ、必要なのは感情ではなく正確な事実。私たちの役目はそれを掴むこと」
「そして必要であれば……排除する」
セドリックの声音に、エミリアは眉をひそめる。
「……その必要がないことを祈りますわ」
小さく落とした声には、微かな憂いが混じっていた。
アレクシスの宣告が王宮に走らせた波紋は、まだ始まりにすぎない。木枯らしが過ぎる石畳の上で、人々の思惑は静かに交差し始めていた。




