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死を越えた花嫁は運命を取り戻す  作者: さくる
スノルピスとスノードロップ
26/59

蒼玉の盾と刃

王宮の一角、陽の差さぬ西翼の廊をアレクシスは静かに歩いていた。 足音は一切立たず、冷えた空気が白い壁に反射し、まるで氷の回廊を進むかの錯覚を覚える。


「……父上がお呼びとはな」


低く呟いた声は、感情の温度を欠いていた。 幼き頃から政治の只中に育ち、情を捨て、己を削ぎ落とした男にとって父の病室へ向かう足取りすら義務の一つに過ぎない。

病床にある現国王、アルヴェリオン・レオナールの部屋は、厳重な警備と深い静寂に包まれていた。 扉の前で控えていた側近が一礼して言う。


「アレクシス殿下、陛下はご容態は安定しております。ただ……長くはお話できません」


「わかった」


短く答え、重い扉を押し開けた。 室内には、かつて威厳を湛えた王の姿があった。痩せた体を枕に沈め、稲穂のように柔らかな黄金の髪は白に侵食されつつある。 だが、深く澄んだタンザナイトの双眸は、なおも光を失ってはいなかった。


「……アレクシス。来たか」


「はい、父上」


椅子を引き寄せ膝を折る。 そこにあるのは、王である前に「父」である存在。 だが、二人の間に情を交わす習慣は、とうに失われていた。


「お前に、話しておかねばならぬことがある」


掠れた声の端に、終焉の影が滲む。


「王太子の指名を……正式に、お前に下す」


一瞬、空気が沈む。

アレクシスの瞳は揺らがない。


「……既定路線かと」


「そうだ。だがこれは、王としての命令ではない。父としての……最後の選択だ」


その言葉に、微かな波紋が胸をかすめる。 父が「感情」を口にするのは、これが最後かもしれない。


「お前は蒼玉のごとく冷たく、固く、自らを磨いてきた。王国の盾として、刃として。民の前では理性を、敵の前では無情を貫け」


「心得ております」


「だが、それだけでは足りぬ。王とは刃だけでも、盾だけでも務まらぬ」


アレクシスは沈黙を保った。理解はできるが、理解と実行の間には深い隔たりがある。


「……私もかつて、感情を蔑ろにして王となった。家族を遠ざけ、友を失い……残ったのは、国だけだった」


掠れた声が途切れる。

長い沈黙の後、彼は目を細めた。


「だが、お前には支えとなる者がいる。刃でも盾でもない、己の意志を貫ける者が」


その言葉は、理性だけでは計れない存在を示していた。アレクシスの思考の隅に、淡く一人の姿が浮かぶ。唯一、計算を乱す因子。


「……それを考慮した上での指名ですか」


「王とはすべてを読む者だ。お前の歩む道の先も、ある程度は見えている……譲位の時期も、そう遠くない」


声がさらに低くなる。


「……フェルデリアの王女についても、決断は要るだろう」


アレクシスの瞳がわずかに鋭さを増す。


「陛下のご懸念は?」


「美しさも知性もある。王太子妃、ひいては王妃として申し分ない……だが、国という秤で測るには重すぎる」


「……」


「真に信じられる者は誰か。お前が見極めねばならぬ」


それは忠告であり、試練であり、父としての最後の願いでもあった。


「……承知しました。どのような形であれ、王国を守り抜きます」


「それでこそ、我が息子……いや、次の王だ」


扉が再び開き、退出の合図が送られる。 アレクシスは立ち上がり、振り返らず廊を進む。 感情はない。ただ、揺るぎない意思と覚悟だけが、その背を満たしていた。


(私は王になる)


それは宿命でも、使命でもない。 己が選びとる「道」だった。




廊が静まり返った後、アルヴェリオンは私室の薄闇に身を沈め、長く息を吐いた。 消えゆく視界に焼きついているのは、扉の向こうに消えた息子の背。 その姿に、王としてではなく父としての想いを重ねる。

彼はイレーネとの日々を誰にも語らなかった。 王宮という鎖の中で見つけた、ひとときの温もりを。 その微笑が、長き務めに疲れた心をどれほど救ったか。


愛していた。


だが、それを言葉にすることは一度もなかった。彼女の面影を宿す、ダークブルーの髪。 アレクシスを見るたび、胸奥に疼くものがある。 それを情と呼ぶには、あまりに重すぎる感覚。


(あの子には……私の過ちを背負わせたくはない)


孤独に蝕まれる未来を、彼に歩ませたくなかった。 だからこそ 最後の力を振り絞り、選んだ。 野心ではなく安穏を、欲ではなく理を。 そして、王妃という名の「盾」にして「支え」を、彼の隣に。


それが父としての最後の願いだった。


病に伏しながらも、胸の奥で理性と愛情がかすかに共鳴する。 未来の王とその傍らに立つ者の姿が、淡く、しかし確かに彼の瞳に映っていた。



執務室の窓外では、冬の夜が静かに帳を下ろしていた。炎の灯がゆらぎ、机上に淡い影を落とす。

アレクシスは背凭れに深く身を預け、指先で肘掛けを一度軽く叩く。それだけで、場の空気が引き締まった。


「殿下。ご要望の者達、揃っております」


銀の髪を束ねたラウルが低く告げる。

アレクシスはわずかに頷くだけで言葉はない。

近衛騎士カミルは軍人らしく背筋を伸ばし、諜報員ヴィンセは口元に笑みを浮かべている。

ラウルは音もなく背後に立った。

長い沈黙のあと、アレクシスの声が静かに落ちる。


「王の隣に立つ妃とは、何を持つべきだ」


一語一語が冷たく重い。沈黙が波紋のように広がり、最初に口を開いたのはカミルだった。


「王国の敵を前に怯まず、揺るがぬ者。剣を取らずとも、信念で立つ者です」


アレクシスは視線をわずかに動かした。

沈黙を肯定と受け取ったのか、カミルは続ける。


「己を守る者ではなく、共に刃を向ける覚悟を持つ者。それが、王の隣に立つ資格だと」


彼の無言に今度はラウルが淡々と口を開いた。


「私は異なる見解を持ちます。従うだけの妃では、国を誤らせる。未来を語れる方でなければなりません」


「未来……か」


アレクシスの呟きは、誰に向けたものか判然としない。ラウルは続けた。


「対話は礎です。沈黙に甘んじる者を、殿下の隣に置くべきではありません」


短く息を吐く音が聞こえ、場の緊張を破ったのはヴィンセだった。


「なるほどねぇ。カミルは剣、ラウルさんは理。なら俺は……()かな」


アレクシスの鋭い視線が一瞬、彼に向く。ヴィンセは肩をすくめ、薄笑いを浮かべたまま言葉を継ぐ。


「真面目な話ですよ? 王妃ってのは、国民にとって真実(・・)を演じる役者じゃないと務まりません。綺麗な言葉も優しい微笑みも……時にそれは、最大の武器となり拠り所となる」


「そのための嘘が必要だと?」


静かに投げられた問い。


「必要でしょうね。理想っていう名の嘘が、人々を生かすなら」


アレクシスは目を伏せる。その双眸に一瞬だけ陰が走ったが、表情は動かない。

そのとき、ラウルが一歩進み出る。


「殿下。情は毒です。しかし、毒を薬に変える者もおります」


銀の瞳が無言のタンザナイトを見つめる。


「その者が、殿下にとって盾となるか刃となるか……それは、いずれ判明することでしょう」


アレクシスの口元に影のような微笑が掠めた。


「……そうか」


それだけで終わる言葉。だが、その声音に宿る温度を三人は感じ取った。カミルは視線を伏せ、ヴィンセは口笛を吹き、ラウルだけが視線を外さない。


「殿下。感情の揺れは、時に理を凌駕します」


アレクシスは椅子を回し、星影を湛える夜空を見上げた。胸の奥に、微かに疼く感覚を押し殺しながら。


(王妃とは……守るものではなく、共に立つもの……)


声には出さない。

指先が一度、肘掛けを叩く音が静寂に溶けて消えるだけ。

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