囁きは雪に似て
月が満ちかけの光を放つ晩。
王宮からほど近い東の離宮は、冷たい風にも似た沈黙を湛えていた。
「……ねえ、開けてくれないの? せっかく君の好きな香りを纏ってきたのに」
金細工の蝶が象られた扉に、ユリウスは手をかけることなく囁いた。 ほどなくして扉が静かに開く。 そこに現れたのは、夜闇に浮かぶ冷たい美貌の王女エリセだった。
「あなたって、本当に厭らしい男ね」
唇に浮かんだ笑みは、心を映すものではない。 それでもユリウスは構わず一歩踏み込み、香りと熱を孕んだ空気を押し広げる。 細い腰に指をかけると、エリセは抵抗もせずただ艶やかな視線を落とした。
「でも……似合っているわ。その香り」
「そう言われると嬉しいな」
彼は笑みを深め、耳許に唇を寄せる。 甘い香気が微かに震え、囁きに溶けていった。
「スノードロップ……だったよね? 君が贈ってくれた」
「ええ、特別な香りなの」
吐息とともに落ちた声は夜の帳に沈むほど静かで、妖艶だった。 ユリウスは彼女の頸筋に触れることなく、指先で銀糸のような髪をすくう。 爪の先に絡みついた光は、月明かりを宿した刃にも似ていた。
「そういえば……」
言葉を切り、彼は彼女の温もりを離れる。 窓辺へと歩み寄ると、外には王宮の灯が小さく瞬いていた。 兄がいる光が絶えず燃え続ける場所。 その婚約者は今、ここにいる。
「あの子の離宮は、こことは違う香りがしたよ。優しくて甘い、少女と大人の狭間の匂い。ああ、だからかな?」
細めた瞳に熱ではなく淡い光を宿し、ユリウスは振り返った。
「興味が湧いちゃった」
その声音に、エリセのまなざしがぴたりと止まる。
「興味?」
「うん、ほんの少しだけ。誰のものでもないってところが、余計にそそる」
「でも彼女は、私たちの敵かもしれないわ」
エリセの声は冷たく澄んでいた。 けれどユリウスは笑い、肩を竦める。
「だから面白いんだよ。君が毒を隠すように笑うのも、あの子が自分の感情を押し殺すのも。矛盾を抱えたまま生きる女を、僕は好きなんだと思う」
足音もなくエリセが近づく。 二人の間に横たわるのは、愛という名の細い糸。 それは、いつでも絞殺に変わる危うさを孕んでいる。
ユリウスはその緊張に酔っていた。 香りと沈黙、視線と微笑。 全てが彼を生かし、同時に蝕んでいく。
「ねえ、兄上ってさ、本当に真面目だよね。女に触れもしないで、政略の駒として隣に立たせるだけなんて……勿体ない」
窓の外を見据えたまま彼は問う。
「キミは、それで満足なの?」
一瞬の沈黙。やがて、エリセは低く笑った。
「満足? していないわ」
月光に濡れた唇から、蜜のように甘い毒が零れる。
「私が欲しいのは心、愛、そして絶対的な権力。そのどれも、彼からは得られないでしょう?」
「じゃあ、僕がそれをあげようか?」
振り返ったユリウスの笑みは、どこまでも柔らかい。 だが、その奥で翳りがうごめいている。
「代わりに、君の秘密を少し分けてもらえるなら」
エリセは彼の瞳を射抜く。 その光に映ったのは冷たい理解と計算、そして愉悦。
「あなたって……ほんと誰よりも狡猾で、誰よりも孤独な道化ね」
「褒め言葉として受け取っておくよ」
ふと、二人の視線が絡み合った。 熱ではなく、鋼のような緊張を孕んだ眼差し。 その間を満たすのは、混ざり合う香りと果てのない虚無。
月明かりが、二人の影を床へと落とす。
その影はゆるやかに重なり、形を変え、やがてひとつに溶けていく。
この夜、ひとつの香りが別の命へと静かに移り始めていた。
◆
季節は冬。
冷えた大気が街路に澄んだ静けさを落とし、石畳を覆う霜が淡い光を返している。
馬車が止まり、扉が静かに開かれる。そこから降り立ったのは、ウェステリア色の髪を冷たい風に揺らすひとりの若き令嬢ではなく、今や少女の面影を脱ぎ捨て静かな意思を纏った覚悟ある者だった。
リシェルは、数ヶ月ぶりに戻った屋敷を見上げる。屋根にかかる霜が白銀に光り、その威容は変わらぬはずなのにどこか異質な影を落としていた。
「……たった数ヶ月なのに、懐かしく感じるなんて」
吐き出した息は白く、冷たい空にすうと溶ける。
その微笑は柔らかいが、瞳には鋭さが宿っていた。マルタからの文に記された「再教育」という言葉。あの朗らかで人懐こいリィナが、どれほど変わってしまったのか。
重厚な扉が開き、並んだ侍女たちが深く礼を取る。
その中央に変わらぬ威厳と温もりを兼ね備えた老女、マルタの姿があった。
「お帰りなさいませ、お嬢様」
穏やかで低い声。
その響きに胸がわずかに解ける。
その眼差しに以前にはなかった慎重な色を見て、リシェルの心は静かに波打った。
「ただいま、マルタ」
応じる声は落ち着いていたが、屋敷の奥に漂う気配にリシェルはすでに何かを感じとっていた。
館内は見事に磨き上げられ、旧き格式と気品を保っている。けれど、そこに漂う空気は硬い。糸を張り詰めたような緊張が、壁の装飾や絨毯の陰にまで染みこんでいた。
(この屋敷も、変わった……)
応接間に通され、暖炉の炎が微かなぬくもりを与える中、扉が再び開く。現れたのは、深いダークグレーの瞳とウェステリアの髪を持つ男。威厳を湛えたその姿は父であると同時に、王国の知略を担う者の顔だった。
「帰ったか、リシェル」
「はい、お父様。ただいま戻りました」
その瞬間、レイナルトの視線が彼女を射抜いた。
冷徹な策略家の眼差しでありながら、その奥にごく淡い安堵と誇りが見える。
リシェルは視線を逸らさなかった。
「……本来なら、療養と称して離宮へ送られる理由などなかった。あれは、フェルデリアの王女殿下の進言だったな」
「ええ。おそらく、私を遠ざける意図があったのでしょう」
レイナルトは短く、深く頷く。
「だが、その意図は裏目に出た。思わぬ場所で鍛えられ、思わぬ人間と交わった……皮肉な話だな」
「皮肉でも、私は機会を得ました。あの場で多くを見て、考え、選び取ることができたのですから」
一瞬、父の表情がわずかに緩む。
それは親としての誇りと、未来を量る者の冷ややかさが交錯する微笑だった。
「お前の変化は、王にも伝わっている。ゼノから直接、報告が入った。陛下ご自身は臥せっておられるが、意思疎通は可能だ。そして、彼はお前に関心を示した」
「光栄に存じます」
「だがその分、敵も増える。とくに王太后は……」
「あの方が私に向ける視線は、よく知っています。けれど、それは私個人への憎悪ではない。もっと深い……あの方自身の中にあるものです」
「……よく見えているな」
父がそう呟いたとき、背後の扉がそっと開かれた。
「あ……お嬢様!」
明るく澄んだ声。
その響きに、胸の奥で何かが跳ねた。
視線を向けると、そこには栗色の髪を二つ結びにした少女リィナが立っていた。
「リィナ……!」
リシェルは思わず立ち上がり、その名を呼ぶ。
けれどリィナは、駆け寄らなかった。
少し距離を置いたまま、深々と頭を垂れる。
「お戻りを、心よりお慶び申し上げます」
その声音はかつての無邪気さを隠し、完璧な礼儀で彩られていた。
姿勢も、仕草も、洗練されている。
(これが、マルタの言った再教育なのね)
リシェルは歩み寄り、柔らかな笑みを浮かべた。
「リィナ。私のこと、昔のように呼んでいいのよ?」
「はい、お嬢様。でも……今は昔のようにではなく、今のあなたに相応しくお仕えしたいのです」
胸に痛みとも温もりともつかぬ感情が広がる。
信頼を裏切ったかもしれないという後悔と、それでもなお側にいたいと願ってくれる、その想いへの感謝。
「……じゃあ、そうしてちょうだい」
頷くと、リィナの顔にかすかな安堵が浮かぶ。
その様子を見守っていたレイナルトが、低い声で告げた。
「この屋敷も変わってきている。良くも悪くも、時勢に応じてな。マルタも以前よりずっと慎重だ」
「……覚悟しています。けれど、私はもう目を背けません」
「そうか。ならばお前に、すべてを預けよう」
その言葉は、父から娘への信託。
重く、鋭い刃にも似た響きだった。
かつてただの「令嬢」だった少女は、今や家名を背負い王国の変革に立つ者となった。その背に、白霜を帯びた冷たい風が降り積もる。
けれど、彼女の歩みは迷わず前を向いている。
それが、たとえ孤独という闇を連れていても。




