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死を越えた花嫁は運命を取り戻す  作者: さくる
スノルピスとスノードロップ
24/59

閉ざされた離宮に吹く兆し

金と琥珀に染まる木々が、季節の深まりを静かに告げていた。

窓辺で本を開いていたリシェルは、不意に響いた扉のノックに顔をあげる。軽やかな音ではなく、わずかに硬く空気を震わせる響き。その瞬間、胸の奥に小さな波紋が広がった。

扉を開けたのはネーヴァだった。彼女は無表情を張りつけたまま、その瞳の奥にかすかな影を宿している。


「……第二王子殿下が訪問されたそうですが、いかがなさいますか?」


リシェルの指先が、頁を挟んだまま止まった。

なぜ、この時期なのだろうか。予期しなかった名に、胸の奥でざわめきが膨らむ。ひと呼吸置き、彼女は努めて平静を装った。


「……客間でお待ちいただいて。準備が整い次第、サロンに」


ネーヴァが静かに頭を垂れ、足音も立てずに去っていく。閉じられた扉を見つめながら、リシェルは本をそっと閉じた。静けさがかえって鼓動を際立たせる。


(どういうつもり……?)


ここは西の離宮。

王宮からは離れた、政のざわめきとは切り離された地。訪れる理由など本来あるはずがない。

胸の奥に、冷たい疑念がゆっくりと沈殿していった。


「リシェル嬢、お加減はいかが?」


回帰前に何度も聞いた声が、柔らかな調子をまとって空気を震わせた。サロンに現れたユリウスは、黄金の巻き毛を光に透かし、気取らぬ笑顔を浮かべている。

陽光を背に立つその姿はいかにも無害で、誰もが安堵を覚えるだろう。

だが、リシェルの胸に灯った予感は消えなかった。


「……わざわざ西の離宮まで、ありがとうございます。ユリウス殿下」


「お見舞いくらい当然でしょ? でも、兄上に怒られちゃうかな、勝手に来て」


軽口にリシェルは微笑を返した──その刹那。

空気に紛れ込んだひとつの香りが、彼女の呼吸を凍らせる。甘やかでありながら、どこか冷たい匂い。

背筋を一瞬で駆け抜けた感覚に、記憶が鮮明に蘇る。


(……この香り、まさか)


回帰前、アレクシスが静かに命を落とした夜。部屋を覆っていたものと同じ匂いと、あの異様な冷たさ。

リシェルはわずかに視線を横へ滑らせる。そばに控えるネーヴァが一瞬だけ目を伏せ、首を横に振った。

毒ではない、その仕草が告げたのはそれだけ。


(ただの香水……? でも、なぜ)


ざわめきを押し隠し、リシェルは微笑を深める。


「素敵な香りですね……どなたの趣味かしら?」


ユリウスは一拍置いて、穏やかな笑みを刻んだ。


「スノードロップの香りだよ。最近、王都で流行ってるんだ。いい香りでしょう?」


スノードロップ(・・・・・・・)その名を聞いた瞬間、胸の奥で微かな震えが走る。


(スノードロップ……って、こんな香りだったかしら?)


ふと、母の声が脳裏によみがえる。


『──はじまりを告げる花って、なんか素敵じゃない?』


あの日の記憶。

母が愛した花の香りはもっと柔らかく、温かなものだった。冬に終わりを告げる、春の兆しを孕んだ匂い。

だがユリウスの纏うそれは、薄氷のように冷たい。

微笑みではなく沈黙を告げる香り。


(これは……生を運ぶ香りじゃない。死を呼ぶ香りだわ)


ユリウスの指が、ティーカップの取っ手を軽くなぞった。無邪気な笑みを崩さぬまま、その仕草だけがどこか意味を帯びて見える。


「離宮って静かでいいね。まるで、おとぎ話の塔みたいだ」


リシェルはゆるやかに瞬きをし、同じく笑みを湛えた。その声に、かすかな冷たさを忍ばせる。


「外界から切り離されている分、音も匂いも……より鮮明に感じられますわ」


言葉が途切れ、沈黙が訪れる。

視線と視線が絡み合い、探り合う気配だけが空気を満たした。その時、ユリウスの笑みがほんの一瞬だけ形を変える。光を帯びた瞳の奥に、翳りのようなものがきらめいた。計算か、それとも無意識か……答えを探す前に彼は再び無害な笑顔を取り戻す。

リシェルは、震えそうになる指をカップの熱で押し隠した。胸の奥で警戒の灯が鋭く燃えはじめる。

彼はただの香水を纏ってきた無邪気な王子か、それとも。


漂う冷たい香りが、二人の間に目に見えぬ境界線を引いていた。雪を思わせる匂いが、その輪郭を静かに描きはじめていた。



西の離宮は夕陽の残光すら遠ざけ、深い静寂に沈んでいた。外界の喧噪と隔絶されたその世界にアレクシスは一人、馬車を降り立つ。乾いた風が頬を撫で、衣の裾をかすかに揺らした。耳を澄ませば、遠い枝を渡る鳥の羽音すら響く。


「……ここは音も匂いも鋭くなるな」


無意識に漏れた言葉に、後方でラウルが応じる。


「殿下。ヴィンセの報告によれば滞在は短く、目的は……お見舞いとのことです」


「見舞、か」


吐き捨てるように呟き、アレクシスは歩みを進めた。通されたサロンには人の気配が淡く残っている。だがそれは温もりではなく、むしろ冷ややかでどこか鋭い──香り。不快ではないが、甘さの底に潜む冷たさが、室内の空気をわずかに歪ませている。

アレクシスは足を止め目を細めた。


「……この香りは」


「スノードロップ、だそうですわ」


静かな声が背後から落ちる。振り返ると、リシェルが立っていた。藤色の髪が、窓から差し込む光を受けてほのかに揺れる。質素な衣装に華やぎはないが、その佇まいは空気の温度をわずかに変えるほどの気配を纏っていた。


「ユリウス殿下が、わざわざお加減を案じて訪ねてくださいましたの。お見舞いにしては、ずいぶん洒落た香りをお選びになるでしょう?」


口元に浮かぶ笑みは柔らかい。

だが、その奥には冷えた光がある。

アレクシスは微かに息を吸い低く呟いた。


「……凍てつくような香りだな」


自分でも、その言葉に戸惑う。

甘さの奥で、破滅の匂いがひそやかに息づいている……そう、直感がそう告げていた。

リシェルは目を細め、唇にかすかな弧を描いた。


「さすが殿下。お言葉選びが秀逸ですわ」


声音は軽やかでありながら、その奥には探りと警戒が潜む。アレクシスは答えず、部屋を一巡り見渡した。


「……ユリウスが、この香りを纏っていた理由は」


「さあ……お好きなのでしょう。それか、影響されたのかもしれませんね」


リシェルは視線を伏せ、唇の端をわずかに歪めた。

それは嘲笑ではなく、彼女自身が胸に刻んだ警告の色に近い。

アレクシスは短く息を吐く。

彼の記憶にある令嬢は気にもしないほど普通(・・)で、無垢に近かった。だが目の前にいる彼女は、剣のように鋭く異質だった。


「リシェル嬢。無いとは思うが、ユリウスが再びここを訪れるなら私に知らせてくれ」


「まあ、お心遣い痛み入りますわ。でももうすぐ帰れそうですし、大丈夫だと思います」


穏やかな笑みを湛えながら、その奥で光るものを隠そうとしない。

アレクシスは悟った。

彼女は、既に何かを知っている。

語らぬのは、あえて沈黙を選んだからだ。

胸の奥で、小さなざわめきが生まれる。

それは、忘れたはずの感情か……それとも得体の知れぬ予感か。

沈黙が二人を包み込む。

その沈黙はもはや平穏ではない。

やがて、アレクシスは低く言った。


「……敵は、まだ顔を見せていない」


それは問いでも命令でもない。この場に漂う不穏を、ただ言葉にしただけだった。リシェルは小さく頷く。


「けれど、動き始めています。表でも、裏でも」


その声音には確信があった。

証はないが、何かを感じ取っている。

ならば掴むまで。

アレクシスは静かな思考の底に、ひとつ刃のような決意を重ねた。


「あなたがこれからどう振る舞おうと、私は咎めない。ただ、一つだけ問う」


リシェルの瞳が、まっすぐに彼を射抜いた。

柔らかな光を帯びながらも、その奥は深く冷たい。


「必要な時、私の剣になる覚悟があるか。それだけだ」


沈黙の後、彼女は目を伏せ静かに一礼した。


「……私は、殿下の剣にはなれません」


アレクシスの瞳がわずかに細まる。

だが、リシェルは微笑を湛えたまま続けた。


「けれど、共に刃を交える者にはなれます。それが、私の唯一の役割です」


互いに何も求めず、ただ目的のために肩を並べる誓い。華やかさを拒むその言葉は、戦火に踏み込む者だけが選ぶ覚悟の形だった。

アレクシスはその響きを胸に刻み、短く頷いた。


「いいだろう。その言葉、忘れるな」


低い声が沈黙を裂いた。

王宮に響くことのない秘密の約束。

それは盤上を揺るがす最初の一手となるだろう。

外では風が窓を叩いていた。

それは、閉ざされた空間に吹き込む新たな兆し。

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