雪を待つ庭で
木々の葉は色を落とし、庭園には秋の名残がひっそりと漂っていた。離宮の奥まった回廊、その先にある小さな応接室。陽だまりが床を柔らかく染めている。
マルタ・フィーゼルは、二人の少女を見つめていた。椅子に腰を下ろしたリシェル。淡い紅の瞳を伏せ、静かに息を整えている。その傍らの足元に膝をつき、震える肩を抱える侍女リィナ。
「お嬢様……いえ、リシェル様」
吐息のように細い声が、室内の静けさに溶けた。
「……ごめんなさい」
その一言に込められたものの重さを、マルタは痛いほど理解していた。
誇りも言い訳も捨てた真の詫び──。
リィナは額を床すれすれまで落とし、すべてを委ねるように身を低くしている。けれど、リシェルはすぐには答えなかった。視線はただ、目の前の少女をまっすぐに見下ろす。感情を映さぬ淡い紅の瞳の奥で、何かを探すように沈黙が揺れていた。
「リィナ。あなたを許さなければならないようなことを、私はされた覚えはないわ」
その声にリィナの肩がかすかに揺れた。
「……でも、あなたが謝りたいと思ったことにはきちんと向き合う。受け入れるのが私の覚悟だから」
俯いたままの瞳からひと粒の涙が落ち、絹の袖を濡らした。
「私は……あなたの侍女でいられて、幸せでした」
リシェルはわずかに視線を外し、窓の向こうの空を仰ぐ。そして、微笑みをひとつ置いた。
「それなら今あなたが選んだ道も、幸せに繋がるものでありますように」
マルタはそこで一歩前に出る。
声は静かだが、その芯は揺らがなかった。
「リィナはカロル侯爵に伴い、侯爵家で再教育を受けます。この子には、まだ戻れる場所があると私は信じていますから」
リシェルは微かに頷き、そして傍らに控えていた少女へと視線を移す。
「ネーヴァ」
紅と夜色、二つの瞳が交わる。ネーヴァは感情を表に出さずに片膝をつき、深く頭を垂れた。
「これからは私の侍女として、そして影として仕えてもらうわ」
「かしこまりました」
短い答えは、確かな響きをもって空気に落ちた。
──少女たちは、それぞれの道を選んだ。
交わることはあっても、同じ道を歩むことはない。
けれどこの場に流れていたのは、確かに温かなものだった。それはマルタが与える優しさの筋であり、二人を繋ぐ最後の糸のようでもあった。
「お嬢様の帰還は、冬の始まりになるでしょう」
そう口にしたとき、窓の外から一陣の風が舞い込む。色褪せた木の葉が回廊の外でくるりと舞い上がり、旅立ちの時を告げる鐘のようにひそやかに落ちた。
その風に、三人の想いがふわりと揺れる。
もう、後ろは振り返らない。
それぞれの未来に向けて一歩ずつ、静かに進んでいく。
◆
アスターの花が咲き誇る庭を、冷えた風が音もなく渡っていく。月が雲に隠れ星すら見えない、漆黒の夜が世界を閉ざしていた。
リィナがカロル侯爵邸へ戻ってから数日。
リシェルの体調はようやく落ち着き、離宮には静けさが戻りつつあった──少なくとも表向きには。だがその静寂の奥にまだ息づく影を、ネーヴァは知っている。
彼女は庭の奥、アスターの影に立っていた。指先でそっと花弁を撫でる。冷たい風に揺れるたび輪郭は闇に融け、足音も衣擦れもなかった。まるで最初からそこに、存在しなかったかのように。
そのとき、声が闇を裂く。
「……はじめまして、でいいのかな?」
ネーヴァはわずかに顔を上げた。
アスターの影から現れたのは、赤茶の髪を無造作に束ねた男、ヴィンセ・マルグリット。王宮に名を連ねる諜報の獣。この場所に辿りつける者など、彼以外にない。
「花の手入れ? いや、違うな」
声は軽い。だが奥に潜む気配は、研ぎ澄まされた刃だ。
「君がただの侍女なら、俺は今すぐ王宮を去るね」
唇は笑みを装っても、眼差しは獰猛だった。獲物を値踏みする猛禽の視線。一息で喉笛を裂けるほどの色を孕んでいる。
ネーヴァは答えない。ただ細い首をかすかに傾け、無表情のまま見返した。
その静けさは、返答よりも雄弁だった。
「……名前は?」
「ネーヴァ。リシェル様付きの者です」
必要最低限。
それ以上は一片も渡さない。
「へえ、そう」
ヴィンセは笑った。
だが目の奥で、光が細く尖る。
『ノクティア』その名を、彼はまだ知らない。
「……君の気配は、夜そのものだ」
「……」
「夜に溶け、気配を消す者……」
一歩、踏み込む。
足音は柔らかく、それでも確かな重みを伴って。
「──まさか、君が?」
ネーヴァは首を振らずに、花を見つめたまま低く告げる。
「私はお嬢様のためだけに存在する。それだけです」
風に紛れる声。
それでも消えない刃の色。
ヴィンセの眼差しに一瞬、緊張が走る。
それをネーヴァは見逃さなかった。
彼女は知ってる。
この男こそ、アレクシスの影であると。だからこそ、その力量と底をこの目で見極めるために、ここに立たせているのだ。
ネーヴァは指先をわずかに動かし、花弁を一ひら払った。淡紅の縁が夜気に溶ける。その仕草は、祈りにも似ていた。
「……少し、昔話をしてあげましょう」
低い声が闇に沈む。
アスターの香が揺らぎ、記憶が滲む。
「……あの方は、よく花の手入れをしていた。お嬢様を抱きながら、小さな歌を口ずさんで……その背を私は見ていた」
柔らかな金の髪と、淡い紅をひとしずく溶かしたような色が宿った──リシェルとよく似た瞳。
『この子の髪はね、ウェステリアでありアスターなのよ』
笑みを浮かべて、彼女は愛おしそうに我が子の髪を撫でていた。淡い花の名を並べるその声音は柔らかく、穏やかな表情……けれどそれは、どこか儚かった。
あの日の声が蘇る。
『ネーヴァ。この子をお願いね』
小さな体を抱きしめながら彼女は静かに言った。
『私はきっと……長くは一緒にいられない。だから、私の代わりに守ってあげて?』
声音は柔らかい。だが、その奥に決意が宿る命と同じ重さの願いを託す覚悟。
『この子は、孤独を知る子になる。だから……絶対である存在が必要なの』
あの日から、それがネーヴァの役目になった。
「……あの方は、とてもお優しい方でした」
ネーヴァの声が夜に落ちる。
「けれど、それだけではない。あの方は……悲しいほどに遠くを見ていた」
リシェルにはまだ語っていない記憶。
胸に刻まれた誓い。
──リシェルを見失うな。たとえすべてが崩れても。
「君は、命じゃなく……願いを背負っている」
ヴィンセの声が、低く落ちる。
「……面白いな。リシェル嬢は、やっぱり奥深いお嬢さんだ」
ネーヴァは答えなかった。
ただ、その瞳で彼を射抜く。
夜そのものを宿した光。
静かで、鋭く、冷たい。
ヴィンセは肩をすくめ、小さく笑う。
「……俺が敵なら、絶対に背中を見せたくないな」
言葉は軽い。だが、その奥に潜むのは警戒と畏れだった。
夜が深まる。
語られたのは記憶の欠片と、まだ明かされぬ影の名。
ネーヴァは一歩、足を運ぶ。
アスターの花弁が肩をかすめて散った。
淡紅のひとひらが夜風に舞う。
それは──あの日の約束と、果たされるべき誓いの象徴。彼女はただその誓いを胸に、夜に立ち続けていた。
ネーヴァの声は夜風に溶けるようにひそやかで、それでいて確かに届く重みを伴っていた。
ヴィンセはその空気の中で、ひそかに身を低く構える。一人の女性がどれほど強く、優しく、そして娘の未来を想っていたか──その記憶の断片が、彼の耳に滑り込む。
だが、彼は自然に眉を寄せた。
言葉の奥に漂う奇妙な違和感。
それは声ではなく、沈黙の間に潜んでいた。
(……妙だな)
直感の端がざわつく。話の筋は理解できる。だが、その背後にあるはずの「熱」が欠けていた。
ネーヴァは確かに語った。セラフィーナがリシェルを託したこと、そして自分の使命を。
しかし、その声音には感情がまったく乗っていない。
整いすぎた物語の一部のように無機質に、淡々と紡がれるだけだった。
(いや……見せていないだけか)
ヴィンセは確信した。
ネーヴァは言葉を選んでいる。必要以上のことは決して語らず、核心には触れない。それどころか、セラフィーナやリシェルの記憶を語る際、自身の視点は曖昧に保たれていた。
(お前……本当にリシェル嬢を見守ってきたのか?)
その立場は、どこで、いつから、どの範囲までか。それが一度も明かされていない。ネーヴァが意図的に伏せているのは、過去における自分の存在が、今のリシェルの記憶と食い違うと知っているからではないか──。
(つまりお前は、リシェル嬢の存在しないはずの場所にいた……?)
その問いは、胸の奥で静かに渦巻く。
過去そのもの……あるいはリシェルがまだ気づかぬ別の真実。それはセラフィーナの死にまつわる何かかもしれない。リシェルを巡る因果の深層に触れるものかもしれない。
しかし、今ここで問い詰めることはできない。
相手もまた、影の人間なのだから。
問いを立てたことさえ、気づかれてはいけない──。
ヴィンセは軽く肩をすくめ、いつもの軽薄な笑みを浮かべる。
「なるほど」
声に力はない。
だが、視線は鋭く相手を射抜く。
「君の話は、詩人が泣いて喜びそうなくらい美しいね。でも……俺には少し出来すぎて聞こえたよ」
ネーヴァは初めて、わずかに視線を上げた。
夜そのものを湛えた瞳。
深く、揺るがず、すべてを黙して呑み込む闇。
ヴィンセは思わず小さく舌打ちした。
(……やはり、ただ者じゃない)
闇の中に立つ少女の背筋に、彼は無意識に敬意を抱く。
この時はまだ、知らなかった。「ノクティア」という名が伝説の存在ではなく、現実に息づいていることを。
それがリシェルをめぐる運命の鍵であることも──。
夜は深く庭のアスターの香が揺れ、淡紅の花弁がひとひら風に乗って肩をかすめる。ヴィンセはその場に静かに立ち尽くし、目の前の影と光の間に潜む真実を、確かめるように見据えた。
──この影は、ただ守るために立つ者ではない。
その影の奥に潜む刃の色と意思の深さを、ヴィンセは理解し始めていた。




