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死を越えた花嫁は運命を取り戻す  作者: さくる
スノルピスとスノードロップ
23/59

雪を待つ庭で

木々の葉は色を落とし、庭園には秋の名残がひっそりと漂っていた。離宮の奥まった回廊、その先にある小さな応接室。陽だまりが床を柔らかく染めている。

マルタ・フィーゼルは、二人の少女を見つめていた。椅子に腰を下ろしたリシェル。淡い紅の瞳を伏せ、静かに息を整えている。その傍らの足元に膝をつき、震える肩を抱える侍女リィナ。


「お嬢様……いえ、リシェル様」


吐息のように細い声が、室内の静けさに溶けた。


「……ごめんなさい」


その一言に込められたものの重さを、マルタは痛いほど理解していた。

誇りも言い訳も捨てた真の詫び──。

リィナは額を床すれすれまで落とし、すべてを委ねるように身を低くしている。けれど、リシェルはすぐには答えなかった。視線はただ、目の前の少女をまっすぐに見下ろす。感情を映さぬ淡い紅の瞳の奥で、何かを探すように沈黙が揺れていた。


「リィナ。あなたを許さなければならないようなことを、私はされた覚えはないわ」


その声にリィナの肩がかすかに揺れた。


「……でも、あなたが謝りたいと思ったことにはきちんと向き合う。受け入れるのが私の覚悟だから」


俯いたままの瞳からひと粒の涙が落ち、絹の袖を濡らした。


「私は……あなたの侍女でいられて、幸せでした」


リシェルはわずかに視線を外し、窓の向こうの空を仰ぐ。そして、微笑みをひとつ置いた。


「それなら今あなたが選んだ道も、幸せに繋がるものでありますように」


マルタはそこで一歩前に出る。

声は静かだが、その芯は揺らがなかった。


「リィナはカロル侯爵に伴い、侯爵家で再教育を受けます。この子には、まだ戻れる場所があると私は信じていますから」


リシェルは微かに頷き、そして傍らに控えていた少女へと視線を移す。


「ネーヴァ」


紅と夜色、二つの瞳が交わる。ネーヴァは感情を表に出さずに片膝をつき、深く頭を垂れた。


「これからは私の侍女として、そして影として仕えてもらうわ」


「かしこまりました」


短い答えは、確かな響きをもって空気に落ちた。


──少女たちは、それぞれの道を選んだ。

交わることはあっても、同じ道を歩むことはない。

けれどこの場に流れていたのは、確かに温かなものだった。それはマルタが与える優しさの筋であり、二人を繋ぐ最後の糸のようでもあった。


「お嬢様の帰還は、冬の始まりになるでしょう」


そう口にしたとき、窓の外から一陣の風が舞い込む。色褪せた木の葉が回廊の外でくるりと舞い上がり、旅立ちの時を告げる鐘のようにひそやかに落ちた。

その風に、三人の想いがふわりと揺れる。

もう、後ろは振り返らない。

それぞれの未来に向けて一歩ずつ、静かに進んでいく。



アスターの花が咲き誇る庭を、冷えた風が音もなく渡っていく。月が雲に隠れ星すら見えない、漆黒の夜が世界を閉ざしていた。

リィナがカロル侯爵邸へ戻ってから数日。

リシェルの体調はようやく落ち着き、離宮には静けさが戻りつつあった──少なくとも表向きには。だがその静寂の奥にまだ息づく影を、ネーヴァは知っている。

彼女は庭の奥、アスターの影に立っていた。指先でそっと花弁を撫でる。冷たい風に揺れるたび輪郭は闇に融け、足音も衣擦れもなかった。まるで最初からそこに、存在しなかったかのように。

そのとき、声が闇を裂く。


「……はじめまして、でいいのかな?」


ネーヴァはわずかに顔を上げた。

アスターの影から現れたのは、赤茶の髪を無造作に束ねた男、ヴィンセ・マルグリット。王宮に名を連ねる諜報の獣。この場所に辿りつける者など、彼以外にない。


「花の手入れ? いや、違うな」


声は軽い。だが奥に潜む気配は、研ぎ澄まされた刃だ。


「君がただの侍女なら、俺は今すぐ王宮を去るね」


唇は笑みを装っても、眼差しは獰猛だった。獲物を値踏みする猛禽の視線。一息で喉笛を裂けるほどの色を孕んでいる。

ネーヴァは答えない。ただ細い首をかすかに傾け、無表情のまま見返した。

その静けさは、返答よりも雄弁だった。


「……名前は?」


「ネーヴァ。リシェル様付きの者です」


必要最低限。

それ以上は一片も渡さない。


「へえ、そう」


ヴィンセは笑った。

だが目の奥で、光が細く尖る。

『ノクティア』その名を、彼はまだ知らない。


「……君の気配は、夜そのものだ」


「……」


「夜に溶け、気配を消す者……」


一歩、踏み込む。

足音は柔らかく、それでも確かな重みを伴って。


「──まさか、君が?」


ネーヴァは首を振らずに、花を見つめたまま低く告げる。


「私はお嬢様のためだけに存在する。それだけです」


風に紛れる声。

それでも消えない刃の色。

ヴィンセの眼差しに一瞬、緊張が走る。

それをネーヴァは見逃さなかった。

彼女は知ってる。

この男こそ、アレクシスの影であると。だからこそ、その力量と底をこの目で見極めるために、ここに立たせているのだ。

ネーヴァは指先をわずかに動かし、花弁を一ひら払った。淡紅の縁が夜気に溶ける。その仕草は、祈りにも似ていた。


「……少し、昔話をしてあげましょう」


低い声が闇に沈む。

アスターの香が揺らぎ、記憶が滲む。


「……あの方は、よく花の手入れをしていた。お嬢様を抱きながら、小さな歌を口ずさんで……その背を私は見ていた」


柔らかな金の髪と、淡い紅をひとしずく溶かしたような色が宿った──リシェルとよく似た瞳。


『この子の髪はね、ウェステリアでありアスターなのよ』


笑みを浮かべて、彼女は愛おしそうに我が子の髪を撫でていた。淡い花の名を並べるその声音は柔らかく、穏やかな表情……けれどそれは、どこか儚かった。

あの日の声が蘇る。


『ネーヴァ。この子をお願いね』


小さな体を抱きしめながら彼女は静かに言った。


『私はきっと……長くは一緒にいられない。だから、私の代わりに守ってあげて?』


声音は柔らかい。だが、その奥に決意が宿る命と同じ重さの願いを託す覚悟。


『この子は、孤独を知る子になる。だから……絶対である(・・・・・)存在が必要なの』


あの日から、それがネーヴァの役目になった。


「……あの方は、とてもお優しい方でした」


ネーヴァの声が夜に落ちる。


「けれど、それだけではない。あの方は……悲しいほどに遠くを見ていた」


リシェルにはまだ語っていない記憶。

胸に刻まれた誓い。


──リシェルを見失うな。たとえすべてが崩れても。


「君は、命じゃなく……願いを背負っている」


ヴィンセの声が、低く落ちる。


「……面白いな。リシェル嬢は、やっぱり奥深いお嬢さんだ」


ネーヴァは答えなかった。

ただ、その瞳で彼を射抜く。

夜そのものを宿した光。

静かで、鋭く、冷たい。

ヴィンセは肩をすくめ、小さく笑う。


「……俺が敵なら、絶対に背中を見せたくないな」


言葉は軽い。だが、その奥に潜むのは警戒と畏れだった。

夜が深まる。

語られたのは記憶の欠片と、まだ明かされぬ影の名。

ネーヴァは一歩、足を運ぶ。

アスターの花弁が肩をかすめて散った。

淡紅のひとひらが夜風に舞う。


それは──あの日の約束と、果たされるべき誓いの象徴。彼女はただその誓いを胸に、夜に立ち続けていた。




ネーヴァの声は夜風に溶けるようにひそやかで、それでいて確かに届く重みを伴っていた。

ヴィンセはその空気の中で、ひそかに身を低く構える。一人の女性がどれほど強く、優しく、そして娘の未来を想っていたか──その記憶の断片が、彼の耳に滑り込む。

だが、彼は自然に眉を寄せた。

言葉の奥に漂う奇妙な違和感。

それは声ではなく、沈黙の間に潜んでいた。


(……妙だな)


直感の端がざわつく。話の筋は理解できる。だが、その背後にあるはずの「熱」が欠けていた。

ネーヴァは確かに語った。セラフィーナがリシェルを託したこと、そして自分の使命を。

しかし、その声音には感情がまったく乗っていない。

整いすぎた物語の一部のように無機質に、淡々と紡がれるだけだった。


(いや……見せていないだけか)


ヴィンセは確信した。

ネーヴァは言葉を選んでいる。必要以上のことは決して語らず、核心には触れない。それどころか、セラフィーナやリシェルの記憶を語る際、自身の視点は曖昧に保たれていた。


(お前……本当にリシェル嬢を見守ってきた(・・・・・・)のか?)


その立場は、どこで、いつから、どの範囲までか。それが一度も明かされていない。ネーヴァが意図的に伏せているのは、過去における自分の存在が、今のリシェルの記憶と食い違うと知っているからではないか──。


(つまりお前は、リシェル嬢の存在しないはずの場所(・・・・・・・・・・)にいた……?)


その問いは、胸の奥で静かに渦巻く。

過去そのもの……あるいはリシェルがまだ気づかぬ別の真実。それはセラフィーナの死にまつわる何かかもしれない。リシェルを巡る因果の深層に触れるものかもしれない。

しかし、今ここで問い詰めることはできない。

相手もまた、影の人間なのだから。

問いを立てたことさえ、気づかれてはいけない──。

ヴィンセは軽く肩をすくめ、いつもの軽薄な笑みを浮かべる。


「なるほど」


声に力はない。

だが、視線は鋭く相手を射抜く。


「君の話は、詩人が泣いて喜びそうなくらい美しいね。でも……俺には少し出来すぎて聞こえたよ」


ネーヴァは初めて、わずかに視線を上げた。

夜そのものを湛えた瞳。

深く、揺るがず、すべてを黙して呑み込む闇。

ヴィンセは思わず小さく舌打ちした。


(……やはり、ただ者じゃない)


闇の中に立つ少女の背筋に、彼は無意識に敬意を抱く。

この時はまだ、知らなかった。「ノクティア」という名が伝説の存在ではなく、現実に息づいていることを。

それがリシェルをめぐる運命の鍵であることも──。


夜は深く庭のアスターの香が揺れ、淡紅の花弁がひとひら風に乗って肩をかすめる。ヴィンセはその場に静かに立ち尽くし、目の前の影と光の間に潜む真実を、確かめるように見据えた。

──この影は、ただ守るために立つ者ではない。

その影の奥に潜む刃の色と意思の深さを、ヴィンセは理解し始めていた。

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