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死を越えた花嫁は運命を取り戻す  作者: さくる
スノルピスとスノードロップ
22/59

シルリナの影

重厚な扉が静かに閉じ、その音が執務室に微かな残響を残した。マルタが一礼して退室すると、場には再び沈黙が戻る。

アレクシスは窓際に立ったまま、無言で椅子に腰かけるカロル侯爵を見やった。

差し込む陽の光が、淡く染まったシルリナの白花を照らしわずかに揺れる。その揺れは、秋の風とともに部屋の緊張を和らげることなく、むしろ静けさの奥にある硬質な空気を際立たせていた。


「……マルタを通じて伝わる言葉には、重みがあった」


アレクシスの低い声に、レイナルトは即座に応じた。


「当然のことです。娘の盾を育てずして、何がカロルかと。マルタの判断を支持し、リィナの処遇は我が家で引き取らせていただきます」


レイナルトの応答には迷いがなかった。だがそこには、長年政に携わってきた者の確固たる胆力と、静かな誇りが滲んでいる。

アレクシスは軽く頷き、視線を再び窓の外へと戻す。柔らかな日差しの下に、王城の庭木が淡い金色を帯びて揺れていた。


「……それとは別に、知らせておきたいことがある。貴殿にだけは、先に伝えておこうと思った」


告げられた言葉に、侯爵は姿勢を正し言葉を待った。

催促することはないがその沈黙は鋭く、室内の空気がまた一段と引き締まっていくのが感じられる。


「──王太后が動いた」


その言葉が空間に落ちた瞬間、応接間に見えない亀裂が走ったような気がした。


「明確な証拠はない。だが、王太后に連なる影部の者が関与している可能性が高い」


レイナルトのまなざしが細くなる。

驚きではなく、むしろ想定していた最悪の展開が現実の地平へと近づいてきたことを察した者の静かな目だった。


「……王太后陛下があからさまに影を動かすとなれば、殿下のお立場も危うくなりましょう」


「承知の上だ。それでも、動かねばならない」


静かに放たれたその声は、鋼のような意志を帯びていた。アレクシスにとって、感情や恐れなどは判断の材料にはなりえなかった。理のため、王国の未来のため……その信念が彼を支えている。


「……それは、貴殿の娘も同じことだ」


侯爵は答えず、しばし沈黙のまま椅子の背に身を預けた。そして、重く覚悟を滲ませた息を深く一つ吐く。


「……娘は、再び王宮の毒に晒されることになるのでしょうか」


問いの奥にあったのは父としての危惧ではなく、政を担う者としての見通しだった。

アレクシスはその答えを曖昧にはしなかった。


「晒すつもりはない。だが、王太后にとっては……すでに脅威として映っている」


一度、言葉を切りそしてためらいを断ち切るように口を開いた。


「……もう一つ、理由がある」


窓の向こうに揺れる白花を見つめながら、アレクシスは告げる。


「ご令嬢は貴方の奥方に面影があると、何度か耳にした」


その名を口にしたとき、レイナルトの瞳がわずかに揺れた。だがそれは悲しみではなかった。むしろ長い時を越えてなお胸に残る、柔らかな記憶がひとしずく灯ったような……そんな静かな変化だった。


「……似ていますよ。外見ではなく、心根の在りようが。穏やかで、だが揺るがない。声を荒らげずとも人を巻き込む強さがある」


あの少女の沈黙には、意思があった。

拒絶にも理があった。

アレクシスはそれを理解しているつもりだったが、その芯の在り処がセラフィーナに重なると気づいた今、彼の中でその姿は少しだけ輪郭を変えていた。


「……なるほど。ご令嬢の背にあるものが、少し見えた気がする」


侯爵の呟きに、アレクシスは目を伏せた。

そして真っ直ぐな言葉を重ねる。


「貴殿には、これからも力を借りることになる。だがこれは情ではない。理においても彼女は、王国にとって必要だ」


その思いは確かだった。

情に縋るつもりはないが、必要だと断じるに足るだけの才と意志をあの少女は持っていた。

レイナルトは静かに頷く。


「我が家は盾を誇りとする家系です。娘に対してもこの国に対しても、私の務めは変わりません」


そう告げた侯爵はゆっくりと立ち上がった。

その所作には老いを感じさせず、むしろ静かに研がれた刃のような気配があった。

扉へ向かおうとしたその背から、ひとつだけ言葉が落とされた。


「……あの子を、奪われる(・・・・)つもりはありませんよ。どのような手であっても」


アレクシスはその言葉にただ静かに頷く。

言葉以上のものが、その短い沈黙のうちに交わされた。それは共闘の合意でもなければ、和解でもない。ただそれぞれの立場において、同じ未来を見据える者同士の無言の確認だった。

風が吹いた。

窓の外シルリナの白花が一輪、風に乗って落ちる。

王宮の季節は静かに深まっていく。



王宮の庭を肌寒い風が渡っていく。

淡い陽を受け金に染まった葉がひとひら、またひとひらと舞い落ちるたび何かが終わり、そして別の何かが始まる──そんな予感が空気に混じっていた。


カトリーヌ・レオナールは、百合の宮殿のサロンで窓辺の揺り椅子に身を預けていた。黄金の髪は年を経てもなお艶やかに、瞳は変わらず澄んだ金を湛えている。その手には銀枠の古びた懐中鏡。若き日の自分を閉じ込めたようなそれを、彼女は今も手放せずにいた。鏡面に、ふと侍女リィナの顔が脳裏に浮かぶ。


「……忠義の侍女とは、時に王の盾よりも厄介なものですね」


声は風に溶けて消えたが、瞳の奥には冷ややかな光が宿ったままだ。

数刻前、彼女のもとに届いた報告にはこうあった。


《王子アレクシス、カロル公爵家と接触。会談内容不明》


そして末尾には、王太后が仕掛けた小さな策をあの侍女が完全に打ち消したと記されていた。

リシェル・フォン・カロル──セラフィーナの娘。

あの女の血と魂を映したような少女。誰からも愛され、誰よりも聡く、美しく、品位に満ちた正統。


(……なぜあの家は、王家に背を向け続ける)


風がページをめくるように、遠い昔の記憶が甦る。

カスティア公爵家に仕える侍女と公爵との密かな子として生まれたカトリーヌは、表向き「嫡出の娘」として育てられた。教養も礼儀も完璧に叩き込まれ、名門令嬢として振る舞うよう仕込まれたものだった。半ば自分でも信じ込もうとしたが血筋の曖昧さは影のように背後にまとわりつき、やがて重い劣等感へと変わっていく。


成長し、皇太子妃候補として宮廷入りしたとき。

候補の中にルヴェール公爵家の正統な令嬢がいた。誰が見ても本物(・・)で、品格も家柄も立ち居振る舞いもすべてが格上。

表面上は友として笑みを交わしながらも、その存在は胸を刺す刃となった。だが彼女は政争に背を向け、下級貴族出身の薬師と恋愛結婚して宮廷を去った。勝負の場にすら上らせてもらえなかったという事実だけが残り、劣等感は癒えぬまま屈辱に変わった。

正妃となった後も、貴族社会の囁きは消えなかった。

だからこそ誇りと秩序、そして血統の正しさを守ることに執着するようになった。

そして再び屈辱の機会が訪れる。

ルヴェールの血筋、娘セラフィーナが今度は自分の息子の妃候補として噂された。だが彼女もまた政略を退け、カロル家の嫡男と結婚する。

二度までも同じ形で背を向けられたことは、怨念を再び燃え上がらせるに十分だった。


さらにエリセ・フェルデリア。

あの女は恐らく己と同じ成り上がり(・・・・・)の系譜に連なるのだろう。その証に、血の誇りを持たぬ者は野心で穴を埋めようとするのだから。

王家を踏み台にする者など許さぬ。


(あの二人を同時に潰せればよかった。ただ、それだけのこと)


計画は単純だった。

リシェルを排除し、エリセを煽って暴走させ、後始末とともに葬る。そうすれば王家の品位も継承の秩序も守られたはずだった。

だが、アレクシスが動いた。

氷のような孫がほんのわずかに情を見せた瞬間、すべてが瓦解する。


(……あの子は私に似て、そして私とは違う)


アレクシスの中に潜む感情の影。

それを見抜けなかったのは、祖母としての慢心か──。窓を叩く風が、部屋の静けさをまた揺らす。


「王家には黄金の誇りと黒き影が必要です。どちらが欠けても、滅びる」


ナルシサスの香が仄かに漂う。透明で甘く、しかしどこか拡張的な香りは、この宮廷を覆う歪んだ静謐と同じだった。

カトリーヌは立ち上がり執務机へと歩み寄る。報告書はまだそこに置かれ、金色の瞳が淡く光を帯びた。

火を灯し、紙片を炎にくべる。金の炎が文字を呑み、黒く焦がしていく。

権力者に必要なのは判断ではない──裁断だ。


「……さあ、次の一手を打ちましょう。まだ、私の手は届くのですから」


その声音は冷たく、庭に葉が落ちる音より確かだった。黄金と黒の王宮には、静かな嵐が忍び寄りつつあった。

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