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死を越えた花嫁は運命を取り戻す  作者: さくる
スノルピスとスノードロップ
21/59

情は毒にあらず

執務室の空気は、まるで凍りついた水面のようだった。窓辺から差し込む陽光は濃紺のカーテンによって遮られ、部屋全体が薄暗い陰を纏っている。飾り気のない黒檀の机。その奥に座るアレクシスは、静かに全てを支配していた。彼の存在が、光さえも慎み深くさせているように見える。

ラウルは迷いなく進み出て、深々と頭を垂れた。


「毒の件、聴取が完了いたしました」


椅子に身を預けたままアレクシスは応じない。深い蒼の瞳が、ただ黙って彼を見据えている。ラウルはそれを受け止め、表情ひとつ動かさず報告を続けた。


「結論から申し上げます。カロル侯爵令嬢付き侍女リィナ・エルグレインが、毒入りの紅茶をお運びしました」


アレクシスの眉がわずかに動いた。けれど、それ以上の反応はなかった。まるで、その言葉すら想定の内であるかのように。


「ただし、彼女が混入させたのは、王女陣営より渡された誘導毒。毒性は低く、吐き気や微熱を引き起こす程度のもの。気づかれることを前提に仕組まれた、稚拙な策略です」


アレクシスは軽く指を組み直した。その動作だけで、執務室の空気がわずかに動いたように感じられた。


「しかし、実際に令嬢の口に入ったのは別物。無味無臭で、即死に至る劇毒。中身はすり替えられておりました」


「──誰が?」


その声は低くて冷たい、鋼を打ったような硬さを孕んでいた。


「詳細は不明ですが、王太后陛下に連なる影部の者が関与していた可能性が高いと見ております」


アレクシスは答えを聞いてもなお、表情ひとつ変えなかった。ただその内にある何かが、じわじわと沈んでいくような気配がした。


「……お祖母様の手か」


ラウルは頷く。


「王女陣営の拙策をより確実な手段としてすり替え、王女を教唆犯としつつ令嬢を葬り去る。王家内部に混乱と疑念を生ませるには、極めて効果的な構図です」


「侍女は、その事実に気づいていたのか」


「いいえ。毒の違いに気づいた瞬間取り乱し、泣きなら違うと繰り返しておりました。演技ではありません。彼女の反応には嘘偽りがなく、心底からの驚愕と恐怖がありました」


しばしの静寂が満ちる。

やがてアレクシスは椅子から立ち上がった。

濃紺の長衣の裾が、すっと床をなでる。

軽やかだが、その背に宿るのは氷のごとき意志。


「ラウル、カロル侯爵と主侍女マルタを呼べ」


「かしこまりました」


「あの娘がなぜ死にかけたのか。誰が、何のために……それを明かさねばならない」


その声音に怒りの色はない。だが、底知れぬ静謐感と決意が滲んでいた。

ラウルは一礼し、執務室の扉へと向かう。

扉の取っ手に触れた刹那、彼はふと背後の主の気配に一瞬だけ目を伏せた。感情を切り捨てたように見えるその背中に、見えぬ影がひと筋だけ差していた気がした。

氷の面を持つ男のその奥にわずかに走ったひび。それは誰も気づかないような小さな変化だったが、ラウルの目はそれを捉えていた。


──情は毒。


それを誰より理解しているのが、他ならぬアレクシス自身だ。

扉が静かに閉じる。

執務室の空気は、また元の沈黙に還っていった。



王宮の石廊に、ふたつの靴音が静かに響いていた。

マルタ・フィーゼルは、一歩一歩を確かめるように進みながら前の気配に意識を向けていた。軽やかなはずの足取りに覚悟の重みが絡みつく。前を歩くのは、長年仕えてきた主、カロル侯爵レイナルト・フォン・カロルその人だ。


「……変わらぬな。王宮の空気は、いつだって冷えている」


前方から届いた声は低く、皮肉を含みながらもどこか懐かしさをにじませている。マルタは苦笑を胸にとどめ、わずかに頷いた。


「殿下の執務室は、特に風が鋭うございます。ご覚悟は?」


「ふ……あなたに言われる筋合いはないな」


そう返す侯爵の声音には、めずらしく柔らかさがあった。マルタはそれに答えず、扉の前で静かに立ち止まる。

やがて執務室の扉が静かに開いた。中から現れたラウルが恭しく頭を下げる。


「殿下がお待ちです。どうぞ」


「参るぞ、マルタ」


「はい」


二人並んで室内に足を踏み入れた瞬間、冷気にも似た緊張が肌を撫でた。王宮の静けさとは違う、この部屋の主が纏う沈黙の重さ。

アレクシスは書類を閉じ、蒼のまなざしをまっすぐこちらに向けていた。


「カロル侯爵、そして主侍女マルタ。ご足労、感謝する」


「お呼び立て恐縮です。殿下におかれましてはご機嫌麗しゅう……とは申しますまい。今日ばかりは、形式を省かせていただきましょう」


侯爵が軽く頭を下げ、勧められるまま椅子に腰を下ろす。マルタはその後方に控え、背筋を正した。

アレクシス殿下のまなざしは鋭く、まるで何もかもを見通しているかのようだった。

空気は言葉少なに張り詰めていく。


「殿下、使用人の件はマルタから聞かれた方が早かろう」


そう促す侯爵の言葉に、アレクシスは無言で顎を引く。マルタは静かに一歩前に出て、膝を折るようにして礼を取った。


「はい、第一王子殿下」


その声にこめたのは忠誠と責を負う覚悟だった。


「リィナ・エルグレインは、確かに愚かな行動に走りました。しかしそれは、忠義と恐れの狭間で未熟ゆえに迷った末のこと……。どうか、罰だけでその命を断じられませぬよう、お願い申し上げます」


静かな語調ながら、一語一語を押し出すように告げる。その裏でマルタの胸に甦るのはあの子との記憶だった。


かつて先代の侯爵夫人が、慰問のために訪れた寒村の教会。

その片隅にいた床を拭くひとりの少女。礼拝の最中にもかかわらず、夫人はその姿に目を奪われた。


「あの目……乳母と同じ瞳……」


そう呟いた夫人の声を、マルタは今でも覚えている。

若き日の夫人が、深く信頼していた乳母。その乳母はある時機に屋敷を去り、その後消息を絶ったと聞いていた。だが、あのとき夫人は確信したのだ。この少女こそ、乳母の忘れ形見に違いないと。

名を尋ね、素性を確かめ……やがて屋敷の離れに引き取った。礼儀を教えて文を読ませた。ただし、夫にも息子にも一切告げずに。身分は与えられなかったが、愛情はあった。秘密裏に育てたその少女──それがリィナだった。

だが夫人が亡くなると少女は屋敷を離れ、市井で暮らすようになった。そして年月が流れマルタは偶然、王都郊外の市で彼女を見つけた。


「……リィナ、なの?」


声をかけたとき、彼女は一瞬だけ目を見開き、そして静かに膝を折った。


「リィナ・エルグレインです……マルタ様」


そのときの震える声と胸に秘めた誇りの色を、マルタは今も忘れない。

だからこそ連れ戻したのだ。

リシェルの傍にあの子を置くために。

光から生まれたような令嬢と影に宿ったひとりの娘。そのふたりを正しく繋ぐために、自分がこの老いた手で支えようと決めた。


リィナは裏切ったのではない。

むしろ逆。

彼女が選んだのは、表舞台から退くという盾としての覚悟。


──『リシェルは王家と深く交わってはならない』


あの子はそれを、誰よりも敏く察知したのだ。だからこそ、毒の一件をきっかけに自分が疎まれる立場に立った。自ら穢れを背負い、主の手を汚させぬために。

愚かではある──けれど忠義とはときに、愚かに映るものだ。


「リシェル様が、再び毒に晒されるべきではありません。だからこそ未熟な盾には、盾の在り方を教えねばなりません。リィナは見習いの盾。ならば、その未熟の責を我が手で鍛え直す所存にございます」


そね言葉に侯爵が頷いた。


「マルタの言葉は、我が家の意志と同義だ。殿下、カロル家は情では動かぬゆえ、誓いと理に従って動く家柄。仕える者の過ちを正すのは我が責務でもある」


アレクシスのまなざしが、ゆるく細められた。

しばしの沈黙。

やがて彼は立ち上がり、濃紺の長衣の裾を引いて窓際へと歩み寄る。


「リィナ・エルグレインを、侯爵家の監督下に移せ。罰の執行は保留とする。リシェル嬢が回復したのち、判断を彼女に委ねよう」


「承知いたしました」


ラウルの声が応じる。

アレクシスの横顔には感情の翳りはなかったが、背に漂う空気はどこか静かに揺れていた。


「盾とは命を賭して守る存在。誓いだけでは足りない。けれど、誓いなき者にはその役目も果たせない」


その言葉は、マルタの胸にも静かに届いた。

老いた盾はまだ朽ちてはならない。娘のように育てた令嬢と、その令嬢を支えるために連れ戻したもうひとりの娘。その両の手を守り抜くのが、自分に残された最後の役目なのだから。

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