仮面の裏に泣く声
冷たい石の床に、じんわりと足先の感覚が奪われていく。灯りの届かない地下牢の空気は重く、静けささえ湿り気を帯びていた。
リィナは背もたれのない椅子に縛られていた。両手は後ろ手に固く結ばれ、わずかに動かすたび粗い縄が肌を擦った。身体も心も、どこか遠くに置き去りにされたような感覚。
ここは王宮の地下にある拘束所。罪状が確定するまでの仮の牢とはいえ、そこに込められた意味は明白だった。リィナは罪人として連れてこられたのだ。
鉄の扉が軋む音がして、誰かが中へと入ってきた。足音がゆっくりと近づく。やがて、揺れる灯りの中から姿を現したのは一人の女性だった。深紅のドレスに身を包み、黄金の髪をきっちりと結い上げたその佇まいは、堂々たる風格と冷徹な威圧感に満ちていた。
目が合った瞬間、息が止まる。
「……王太后陛下」
リィナは反射的に立ち上がろうとした。けれど拘束されたままでは叶わず、ぎこちない動作のまま椅子に沈む。王太后の口元に、わずかな笑みが浮かんだ。
「気にしなくていいわ。今のお前は、礼を尽くす資格すら持たない身なのだから」
穏やかな口調だった。けれど、その声は冷たい鋼でできた刃のように、リィナの胸を静かに裂いてくる。王太后はゆっくりと歩み寄り、リィナの目の前で足を止めた。ごくわずかに身をかがめ、その瞳を覗き込むように真っ直ぐに見つめた。
「罪状は、分かっているわね?」
リィナは唇をきゅっと結んだまま黙って頷きもせず、目だけで応じる。それが唯一の抵抗だった。
「ふふ……頑なね。ねえ、リィナ……お前にとっても命は惜しいでしょう?」
まるで友人に語りかけるような調子で、王太后はふいに懐からひと包みの薬包紙を取り出した。淡く反射する粉が、一瞬だけ灯りを捉えてきらめく。
「私が欲しいのは、たったひとつ。証言よ」
リィナの指先が、かすかに震えた。
それを見逃すはずもない。
王太后の瞳がわずかに細められる。
「言えばいいの。『リシェル様に命じられて毒を運びました。王家を貶めるための自作自演です』──ただ、それだけ」
「……そんな……こと、私は……」
絞り出した声は震えていた。けれど王太后の言葉はそれすら包み込むようにやわらかく、容赦なかった。
「言えない? ふふ、誰が証拠を求めるというの? 王家に仇なす侯爵令嬢の陰謀。それが事実になれば、誰も裏を取ろうとはしない」
毒よりも冷たい言葉がリィナの耳を打つ。
「お前は哀れな侍女。流された、とでも言っておけば放免されるわ。泣いて感謝してくれる者も、いるかもしれない」
リィナの喉奥が熱くなる、なのに声が出ない。
「お前の命を助けてあげるのよ。そして、王家の秩序を守るという栄誉ある役割までついてくる。悪い話じゃないでしょう?」
「……リシェル様を……裏切れと?」
かすれた声が、リィナの唇から零れた。王太后は微笑みは、まるで人の弱さに愉しみを見出すかのように美しく……歪んでいた。
「裏切り? 違うわ、これは選択よ。命を取るか、信念を取るか。愚かな選択をした者に未来などないの」
静かな口調なのに、まるで宣告だった。
リィナの肩が小さく震える。恐怖、怒り、悔しさ……いくつもの感情が入り混じる中で、彼女はゆっくりと顔を上げた。
「……私は、リシェル様に救われました。侍女として迎えられて、名前を呼んでもらって……初めて、ここにいていいんだって思えたんです」
声は震えていたが、目は真っ直ぐだった。
「だから……命が惜しくないとは言いません。でも、自分を裏切ってまで生き延びることが、私にとっての生きるじゃないです」
灯りの炎が揺れ、二人の影が床に長く伸びた。
王太后は、しばし沈黙したまま彼女を見下ろしていた。やがて無言で薬包紙を畳み、懐に戻す。
「……若いわね。その甘さが死を呼ぶのよ」
その背中が音もなく踵を返す。
足音が遠ざかるたびに、空気が少しずつ冷たさを取り戻していく。扉が開き、閉じる音が最後に残った。
暗がりの中、リィナはそっと目を伏せた。
呼吸は浅い。
恐怖はまだ胸の奥でくすぶっている。
それでも。
(リシェル様……私は、あなたを裏切りません)
誰にも届かない小さな誓いだった。
冷気が肌に染み込むような空間のなか、リィナは身じろぎもせず椅子に座っていた。両手は膝の上に重ねられていたが、微かに震えているのが自分でもわかった。
対面の椅子に腰掛けているのは、銀髪の男ラウル・シュタイナー。その灰色の瞳に感情はなかった。ただ、すべてを見抜く目だけが彼女に向けられていた。
「この聴取は、アレクシス殿下の命により私が代行する。貴女の言葉と意思は、すべて殿下に報告される。よろしいですね」
重みのある言葉が、空気をさらに冷たく染めた。
リィナは浅く頷き、心臓が騒ぐのを抑え込むように背筋を無理に伸ばした。
「……名前と所属を」
「リ、リィナ・エルグレイン……カロル侯爵家付きの、侍女でございます」
口をついて出た声は震え掠れていた。けれど、視線だけは外さなかった。
「このたび、カロル侯爵令嬢が口にされた紅茶に毒が混入されていた。貴女が淹れたものだと聞いています」
「はい……。確かに私が……でも、それは……」
「誤解のないように言っておきます」
ラウルの言葉が切り込むように静まり返る。
「我々は貴女を罰するためにここにいるのではない。真実を知るために来ている。事実を歪める必要は、どちらにもないはずです」
リィナは胸元を押さえ、息を整えるように深く吸った。
「……毒は、クラリッサ様から受け取りました。エリセ王女様にお仕えしている方です。『少量なら吐き気や頭痛が出る程度。気づけば飲まないはずだ』……そう、言われました」
「紅茶に混ぜたのですね」
彼の言葉にリィナは小さく頷いた。
「でも……それが違ったんです。私が渡されたはずのものとは、違っていた。無味で、無臭で……あんな毒だなんて……」
言葉が詰まった。
目の前で、紅茶を口にしたリシェルがぐらりと崩れ落ちたあの瞬間。熱を発し、白い手が震え、唇に血の気が失せていく。
あれは──命を奪う毒だった。
「すり替えられたと、どうして気づいたのですか?」
「……あれは、私が聞いていた薬の反応じゃない。クラリッサ様が渡したものと違うと、すぐに……」
声がかすれ喉元が締めつけられる。
けれど彼の顔は変わらなかった。
「……王太后陛下が、貴女に取引を持ちかけませんでしたか?」
その言葉にリィナはわずかに目を伏せた。背筋を伝う冷気が、あの空気を思い出させる。
「……はい。『お嬢様が自作自演したと証言すれば、命は助けてやる』と」
沈黙が落ちた。
ラウルは動かず、ただ淡く目を細めていた。
「貴女の忠誠は誰にある?」
刃のように静かな問いだった。
その一言に、リィナの心がひどく痛んだ。けれど拳を固く握り、言葉を噛みしめるように口を開く。
「……リシェル様です」
短く、それでも力のこもった言葉。
「……私は、カロル侯爵家に拾われました。名も、居場所もなかった私に、お嬢様は名を呼び、居場所を与えてくださった」
語るうちに涙がこぼれそうになる。
「私は……お嬢様を、表舞台から遠ざけたかった。王家との関わりが……あの方を傷つけると、そう感じてしまったんです……」
だから守ろうとした──彼女の未来を。
リィナにはわかっていた。
自分は愚かだと……けれど、それでも。
「私は、たとえ処刑されても……リシェル様だけは、裏切りません」
その言葉を聞き、ラウルは目を閉じわずかに頷いた。
「了解しました。リィナ・エルグレイン。貴女の証言と意思、確かに受け取りました」
彼の声音は冷ややかだったが、不思議とその奥にわずかな温度があったように感じた。
「貴女の拘束は一時保留とします。だが、貴女が罪を背負っている事実は変わらない。結果的に毒を運んだという過失は、殿下の判断に委ねられるでしょう」
「……はい」
彼の言葉にリィナは一息ついた。
だがそれは安堵ではなく、自分が選び取った結末がもたらす未来を思っての事だった。
ラウルは最後に一言、静かに落とす。
「貴女の行動は、常に見られていた。それを忘れぬように」
冷たい忠告だったが、その響きにはどこか別のものが混じっているように感じた。
リィナは目を伏せ、静かに息を吐く。
わかっていた。
罪を逃れられるはずもない。
けれど。
(……それでも、私はリシェル様の幸せだけを願ってる)
心の奥で、誰にも届かぬ声が灯る。
このすべてが報われなくても構わない。
たとえ自分が死ぬことになっても、お嬢様に名前を呼ばれたあの記憶だけが、最期まで自分を支えてくれるはずだから──。




