静かなる目覚め
「……春……?」
薄く開いたまぶたの先に広がっていたのは見覚えのある天蓋のレースと、窓の外から見える満開な薄ピンク色の花。暖かな光が差し込む部屋のベッドには、まだどこか少女の面影を残すリシェルがいた。
(ここは……カロル侯爵邸。私の部屋……?)
身を起こした瞬間、彼女の背筋を冷たい戦慄が走る。
指先が震え心臓が荒く鳴る──だが、それは死の苦しみではなかった。
(私は確かに……大聖堂で死んだ……)
記憶は鮮明だ。
ユリウスの冷えたあの目も、エリセの優美な微笑もすべて覚えている。毒に侵され、苦しみながら倒れたあの瞬間を夢などと断じることはできない。
──そして、孤独を背負ったまま死んでいった王太子。
その事実が彼女の心を打ち据えた。
だけどここはリシェルが死ぬ未来の、今はまだ彼が生きている世界。
「……やり直せるなら変えるって……誓ったじゃない」
声はかすれ小さく呟いた言葉が、自分の決意を確かなものとする。かつての自分では見抜けなかった嘘、陰謀、裏切り。
それらを今度は見逃さない。
「お嬢様!」
決意を新たにしたリシェルの部屋の扉を開けて飛び込んできたのは、侍女長マルタだった。温かくも鋭い瞳が少女を見つめ、安堵と困惑の混ざった声で言葉を継ぐ。
「……目を覚まされたのですね。突然倒れられて、医師が言うには眠っているだけだと……」
「ごめんなさい、マルタ。変な夢に囚われてしまったみたい」
そっと微笑むリシェルにマルタは眉をひそめた。
まるで何年も歳を重ねたような静かな落ち着き。
その目の奥にはもはや少女の無垢は残っていなかった。
「お嬢様……?」
マルタの問いに、リシェルはかすかに微笑んで首を振る。
(まだ誰にも話せない。この記憶も、想いも)
あの日、リシェルは死んだ。
それは紛れもない事実。
それならばこの命は──。
「……まずはアレクシス殿下ね……」
その呟きに、マルタは聞き返す。
「……第一王子殿下ですか?」
「ええ。たしか今の時期は……」
記憶を辿りリシェルは思い出す。
今の時点ではアレクシスはまだ正式な王太子ではなく、エリセとも婚約したばかりのはず。表向きは順調な政略婚。
けれでもリシェルは知っている、その未来を。
「放っておけば彼は殺される……」
マルタには聞こえないほどの小さな声。けれどその声音に宿るのは怒りと悲しみ……そして静かなる決意だった。
カロル侯爵邸の東棟に位置する執務室は、戦略家として知られるレイナルト・フォン・カロルにふさわしく、整然とした空間だった。壁一面の書架には、政治・軍事・経済に関する書籍が収められ、机上には書簡の束が規則正しく並べられている。
だがリシェルにとってこの部屋は、ぬくもりを宿す場所でもあった。
今は亡き母との優しい思い出が詰まった空間。
そして冷静沈着と評される父が笑みを浮かべ、娘を受け入れる場所。その記憶を胸にリシェルはドアをノックをした。
「お父様、お時間をいただけますか?」
ドアの向こうから聞こえた娘の声に、レイナルトは手元の書面から顔を上げた。静かにドア開けるリシェルを、深い蒼灰の瞳がとらえる。レイナルトの冷静さを感じさせる瞳の奥には、わずかな驚きが灯っていた。
「……珍しいな。体調はもういいのか?」
「はい……少し、お話がしたくて」
娘の雰囲気は変わらず穏やかで、けれどどこか鋭くなったような気もする。
レイナルトはリシェルを部屋の中へと招き入れた。
扉が閉まり外界の気配が遮断される。
「……それで、話とは?」
「私、王宮の茶会に出席したいの」
リシェルの口から出た言葉に、レイナルトの眉が静かに上がった。
「……お前が、そのような場を望むとはな」
今までのリシェルは、華やかな社交の場に積極的ではなかった。淑女としての振る舞いは完璧だったが、それ以上の関わりを避けている部分があったのもレイナルトはよく知っている。
「心変わりをした理由はあるのか?」
リシェルはレイナルトの瞳をまっすぐに見つめた。怯まず、迷わず、ゆっくりと口を開く。
「……知りたいの。今、王宮にどんな空気が流れているのか。誰が動き何が動いているのか。私自身の目で、確かめたいの」
レイナルトの目が細められる。
まるで何かを測るように。
「それはただの好奇心……では、なさそうだな。何かを吹き込まれたのか?」
「違うわ。ただ私には、必要なことなの……」
返された言葉は少女が言うにはあまりに重く、静かな力を帯びていた。レイナルトは無言のまま紅茶の入ったカップに手を伸ばし、慎重に次の言葉を選ぶ。
「……リシェル、何を知った?」
ピクリと、リシェルの睫毛が揺れた。
「……何か、我が家に迫る危機でも?」
「いいえ……でもこのままではきっと、後悔する気がするの」
そう告げた彼女の瞳には、十八歳の少女らしからぬ覚悟があった。レイナルトは再び深く沈思しながら娘を見つめる。
「……リシェル。お前の心には今、誰がいる?」
静かな問いだった。
だがそれは父として……侯爵家当主としての本質が滲んでいた。
リシェルは小さく目を伏せ、苦笑する。
「……今はまだ、秘密にしておいて……」
その一言にレイナルトはため息をつき、最後には肩をすくめて笑った。
「いいだろう。春の茶会への同行を許可する。ただし、リシェル。お前が王宮という戦場に足を踏み入れるというのなら、カロル家の名を背負う覚悟も持ちなさい」
「はい、お父様。私はもう……逃げません」
──アレクシス殿下の死も。
──あの未来の自分の死からも。
決して目を逸らさない。
二度と同じ道は辿らない。
(私が変えるわ、今度こそ……)
レイナルトはリシェルの淡い紅色の瞳に灯る蒼炎を感じとる。それと同時に、愛娘が自ら戦場へ歩み出そうとしている危うさも静かに悟っていた。
「……リシェル」
「はい?」
「一人で立てなくなった時は、私のところへ戻ってこい。お前だけは必ず守る」
リシェルは、一瞬だけ少女の顔を取り戻したように笑った。
「ありがとうお父様。でも……守られるだけじゃダメなの。私も守りたいのよ」
その言葉は、レイナルトにとってもリシェルにとってもこれから歩む道しるべとなるものだった。
侯爵との対話を終えて自室に戻ったリシェルを迎えたのは、馴染み深い侍女たちの気配。
「お帰りなさいませ、お嬢様。お顔が少し……お疲れに見えます」
静かに頭を下げたのは、侍女長のマルタ。彼女はリシェルにとって母のような存在であり、幼少期から変わらずそばにいた忠実な仕え人でもある。
「ありがとう、マルタ……紅茶をもらえるかしら」
「すぐにお持ちいたします」
そう言って厨房に下がるマルタの背を見送りながら、リシェルはそっと窓辺に立つ。ウェステリアの髪が揺れ、淡い紅の瞳が遠くの王城を見つめた。
「ねぇリシェル様、今日は侯爵様と何をお話しされたんですか? やっぱり……政略結婚とかです?」
年の近い侍女リィナが、椅子に座ったリシェルにそっと布を掛けながらおしゃべりな声を潜めて聞いてくる。
「リィナ、あなた私の髪を整えてくれているのよね?それとも……情報収集のお仕事中だったのかしら?」
「ええっ、ち、違いますってば。ただ、ちょっと気になっただけで!」
あたふたするリィナに小さな笑みが浮かぶ。こうして彼女をからかえるのは、信頼の証でもあった。
「……話していいことと、まだ話せないことがあるわ。でも大丈夫。私はちゃんと自分で決める」
その言葉に、リィナがはっと息をのむ。いつも通りの優しげな言葉の中に、何かが違う強さがあると気づいたのだろう。
「……リシェル様」
その時、部屋の隅で控えていたもう一人の侍女が静かに一歩進み出た。
ネーヴァだ。
口数が少なく氷のような瞳をした無表情の侍女。
「……なに?」
「本日、厨房の動きに不審がありました。注文名簿と一致しない食材が紛れていたそうです」
リシェルの目が細められる。
さすがだった。ネーヴァは侍女でありながら、父の命でリシェルの護衛を兼ねている。
「気づいてくれてありがとう。今夜は、念のため誰の差し入れも受け取らないことにするわ」
「かしこまりました」
そう言って再び沈黙に戻るネーヴァの背を見送り、マルタが銀トレーを手に戻ってきた。
「ハーブ入りの紅茶にしておきましたよ。今夜はよくお休みください……体調を整えなければなりませんからね」
その言葉にリシェルはふと目を伏せた。
「……ええ、わかってる。私には、やらなければいけないことがあるから」
そして紅茶の香りが部屋に満ちるなか、淡い紅色に輝く瞳は静かに決意を深めていた。
夜は昼の喧騒を吸い込むように静まり返り、屋敷は深い沈黙に包まれていた。蝋燭の揺れる光だけが部屋を照らし、藤色の髪をふわりと浮かび上がらせる。
「……お嬢様、眠れませんか」
背後からそっと声をかけたマルタに、リシェルはそっと微笑む。
「……マルタ、少しだけ隣に座ってくれる?」
「もちろんです」
低い椅子に腰かけたマルタは、少女のそばで静かに手を重ねる。リシェルはしばらく窓の外を見つめていたが、やがて小さく息をついた。
「私……この世界を知ってしまったの。同じ道を辿れば、また誰かが死んでしまう」
それは夢とも妄想ともつかぬ告白だった。だがマルタは驚かず、まるですべてを察していたかのように頷いた。
「お嬢様の瞳は、まるで何かをすべて見通しているようですもの。生まれ変わったようだと、侍女たちの間でも噂になっております」
「マルタは……信じる?」
「ええ。私が信じるのは、事実よりもお嬢様ですから」
その言葉にリシェルの胸が少しだけ軽くなる。
「マルタ……あの時、私は無力だった。でも、もう同じ過ちは繰り返さない。アレクシス殿下を……そして、この国を救うために私は変わるわ」
「……お嬢様」
マルタはそっとリシェルの手を取り、その指先を包み込むように握った。
「お嬢様が歩まれる道がどれほど過酷であろうとも……私は、最後までお供いたします」
リシェルの瞳に浮かんだ光がほんのわずかに震えた。
蝋燭の炎がゆらゆらと揺れる密室で、二人の心は静かに交わり、ひとつの誓いが生まれた。
それはまだ誰も知らぬ新たな歴史の始まりだった。




