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無垢なる手の罪

午後の光が、離宮の一室にやわらかく差し込んでいた。

リシェルは読書を装いながら、ティーテーブルの上に運ばれた銀盆へと視線を移した。リィナが静かにティーセットを並べている。カップに注がれたアールグレイの香りが部屋に満ちていく中、リシェルはわずかな違和感に眉を寄せた。


(あれは、何?)


ティーポットを傾けるリィナの手元で、薬包紙のようなものがそっと開かれたのを、確かに見た。銀盆の影で見えにくかったが、何か粉のようなものが静かに紅茶の中へと混ざった気がする。

リィナの表情に変化はない。ただ、どこか祈るような沈黙が彼女の仕草の端々に滲んでいた。

リシェルは微笑みを貼りつけたまま、ゆっくりと椅子に腰掛け、カップを取った。


(これが試しなら、私は応えるだけ)


唇をカップに近づけ、香りを吸い込む。柑橘の甘い芳香の奥に、わずかに金属を思わせる冷たい気配が混じっていた。舌の先で確かめるように、ほんの一口だけ含む。


──違う。


その瞬間、喉奥に広がったのは刺激ではなく、冷たく痺れるような感覚だった。胸がざわめき、全身の神経が拒絶反応を示す。リシェルは反射的に口元を押さえ、吐き出した。


「……ッ、これは……!」


立ち上がろうとした身体が、言うことをきかない。足元が崩れ、視界が大きく揺れる。喉の奥が焼けつくように重く、指先に力が入らない。


──毒。しかも、これは……王家の保有する毒物。


回帰前、妃教育で仕込まれた薬物知識と記憶が脳裏を走る。

間違いない。

これほど精緻で致死性の高い毒を扱えるのは、宮中のごく限られた者たちだけ。


(どうして、こんなものが……)


頭がぐらりと揺れ、重力に引かれるようにリシェルの身体は椅子から滑り落ちてゆく。遠のく意識の中、扉の向こうから足音が近づいてくる気配がした。




「……リシェル、様……?」


数分後、部屋に戻ったリィナは、床に倒れたリシェルを見て息を呑んだ。

蒼白な顔に、冷たい汗。うわ言のような呼吸。生気のないその姿に、銀盆を手から落としかける。


「そんな……違う、こんなはずじゃ……」


震える声が漏れた。彼女の胸の中で何かが崩れていく。


「……エリセ様の……あの薬は、ただの刺激剤のはず……!」


その時だった。


「今の言葉、詳しく聞かせてもらおうか」


低く鋭い声が背後から響く。

振り向いたリィナの前に立っていたのは、カミルだった。その鋭い眼差しは一片の慈悲も宿しておらず、視線ひとつで人を切り捨てるような威圧を放っていた。


「ティーカップはそのままにしておけ。持ち帰って、調べる」


リィナは青ざめながら、ただうなずいた。




翌日。

リシェルは高熱にうなされながらも、ようやく意識を取り戻していた。息を吸うたびに胸が焼けつき、全身が重い。それでも彼女の目はゆっくりと開き、天井の模様を静かに追った。


(あの紅茶……あれは……)


無味無臭、摂取すれば確実に神経を侵し、短時間で死に至る可能性もある。それは、王家の中でもごく限られた場所で保管されている猛毒。


(まさか、これが使われるなんて)


リィナが入れたものではない。彼女の様子は、毒を仕込んだ本人のものではなかった。確かに彼女は何かを混ぜた。だがそれは、もっと穏やかな……むしろリシェルを試す(・・)ためのものであったはず。


──すり替えられていた。


「……ネーヴァの情報とも違う……ということは……」


口元に浮かぶのは、皮肉めいた微笑み。

あの毒が用意された背景とその意図。

浮かび上がるのは、王宮でもっとも沈黙と権力を兼ね備えた一人の名。


「……カトリーヌ王太后、ね」


リシェルは再び目を閉じた。

この毒は、単なる警告ではない。


──これは、明確な意思。


誰かが、確実に自分を殺そうとしていたのだ。



重く張り詰めた空気が、応接室の隅々にまで染み渡っていた。

リシェルは長椅子に身を預け、微かに震える指先でカップに触れる。薬湯の湯気が淡く香る花草の匂いと共に揺れていたが、唇をつける気にはなれなかった。喉の奥にいまだ残る冷たく痺れる感覚、毒に倒れたあの瞬間の記憶が、今も鮮明に脳裏を離れない。


「脈は落ち着いています……ただ、まだ体に毒の余波が残っているようだ。しばらく安静にされることをお勧めします」


そう言ったのは、アレクシスが手配した医師だった。

応接室には彼女の他に、医師とリィナ、そして壁際に控えるカミルがいた。寝室とは異なる広さと空気の流れが、少しだけ彼女の神経を和らげていたものの、緊張の膜は破れることなく室内を覆っている。

カミルは窓際に立ち、無言のまま周囲に目を配っていた。その姿はまるで、この部屋の空気すら制御する番人のようでリシェルは無意識に視線を向ける。

アレクシスの命により、自分を裏から守ると語った男。けれど今のその瞳は、ただリィナを見据えていた。彼は今、リィナを見張っているのだ。

リィナは正面の椅子に姿勢よく腰掛けていた。両手を膝に重ね、うつむいたまま何ひとつ言葉を発していない。その仕草に乱れはなかったが、細く揃えた指先がわずかに震えていることを、リシェルの目は見逃さなかった。


(戻ってきた……けれど)


リシェルは喉の奥に湧き上がる言葉を飲み込む。毒に倒れた直後、彼女は意識を失っていた。目を覚ました時にはリィナはそばにはおらず、今こうして戻ってきた彼女はまるで何かを決意した者のように、どこか遠くを見つめていた。

そんな静寂を破ったのは、重い扉を叩く音だった。

数人の騎士たちが入室してくる。その制服は王国の騎士のもの。だが、胸元に煌めく階級章は普段あまり見慣れない「白百合」の紋章。

リシェルの胸がざわめいた──その時だった。

カミルの鋭い視線が、その階級章に向けられたのを彼女は確かに見た。


「……何のご用ですか」


低く、落ち着いた声。けれどその声には、警戒と緊張が宿っていた。カミルが一歩前に出て、騎士たちの前に立つ。騎士の一人が黙って封をされた書状を差し出した。封蝋には、王太后を示す白百合の紋章が刻まれていた。


「王家の命により侍女リィナ・エルグレインを、王家の来賓に対する殺人未遂の容疑で拘束いたします」


その言葉と共に、騎士たちはリィナに向かってまっすぐ歩を進めた。

リシェルは立ち上がりかけたが足元がふらつき、椅子の縁に手をかけて必死に身体を支えた。


「待って……何をしているの……!? リィナがそんなことをするはずがない!」


叫ぶように声を上げたその瞬間、リィナが静かに顔を上げた。微笑みはどこか諦めに似た、優しい表情だった。


「リシェル様がご無事なら……それでよかったです」


声が震えていた。

けれどまるで、初めから自分がこの場を去ることをわかっていたかのように穏やかな瞳をしていた。


「やめて……リィナは、私を──」


リシェルの声を遮るようにカミルが動いた。壁際から騎士たちの前に出て、再び場の空気を一変させる。


「……第一王子殿下は知ってのことか?」


それはただの問いではなく、この場で唯一、騎士たちを止めうる力を持つ言葉だった。しかしカミルの視線は再び左胸の階級章へと向けられた。白百合の階級章……その意味を、彼は誰よりもよく知っていた。

そして彼はそれ以上を諦め、リィナを見据えたまま静かに言う。


「……貴女の言葉は、殿下に直接伝えるべきだ」


それはすべてを否定することなく、彼女の尊厳を守るための最小限の介入だった。リィナはわずかにうなずき、何の抵抗もせず騎士たちに連れられて応接室を去っていった。


扉が閉まる音がやけに遠く、重く響いた。


リシェルは力なくその場に立ち尽くしていた。胸元を押さえる手が震えを抑えきれず、視界の隅でカミルの静かなまなざしがすべてを見届けているのを感じた。


(どうして……なぜ、こんな……)


言葉にならない疑念と痛みが、喉元で滞る。まるで自分の呼吸すら、誰かに支配されているかのような感覚だった。


そして──再び扉が開いた。


重たく沈んだ空気を押し分けるように、漆黒のマントを翻しながら現れたのは、アレクシス・レオナールだった。その姿はまるで、冷気がひとつの形を取って立っているかのようで、リシェルは本能的に身を強張らせた。


「……毒の件、再調査を命じた矢先だったが、まさかここまでとはな」


その声には怒りと苛立ちが滲んでいた。けれどそれは怒鳴り声ではなく、静かな憤りだった。冷たく、だが確かに熱を孕んだ言葉。リシェルは唇をかみしめ、勇気を振り絞るように言葉を吐き出す。


「リィナは……私を守るために侍女となった人です。もし、彼女の中に秘密があるとしても……それだけは、信じられます」


アレクシスはしばしリシェルを見つめ、やがて一度だけ深く頷いた。


「……ならば証明してみせてくれ。君自身の言葉と行動で」


それは命令ではなかった。

王子としての冷徹な裁定でもない。

それは、彼女を「対等な意志を持つ者」として認めるひとつの提案だった。

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