氷の命令、炎の剣
西翼の執務室は、いつもながら重苦しい静けさに包まれていた。窓の外から差し込む陽光すら、この部屋ではどこか鈍く灰色に見える。
近衛騎士であるカミル・ルーエンは片膝をつき、濃紺の絨毯に額が届くほど深く頭を垂れていた。目の前にアレクシス・レオナール第一王子が、黙然と机の前に立っている。
黒革の手袋を外す音が部屋に小さく響いた。あまりにも滑らかな所作で、そこには一分の隙もない。いつものように背筋は真っ直ぐ伸び、姿勢だけで命令の重みを伝える男だった。
「立て、カミル」
低く、だが絶対の力を持つ声が降る。
呼吸の仕方すら律されるようなその声音に、カミルは無言で立ち上がった。軍人として鍛え上げた褐色の体躯は揺るがず、鋭い眼差しは殿下の言葉を待つ。
この任務の意味を彼はすでに察している。誰より忠実で、誰より多くの裏任務を遂行してきた身だからこそわかる。今回の命は異例であり、そして──個人的だ。
アレクシスが視線をこちらに向けた。無言のまま数拍、言葉を選ぶように沈黙が落ちた。
「彼女を、裏から護れ」
カミルは即座に返答しなかった。むしろ、眉根がほんの僅かに動いた。それだけで、この命がどれほど異質かを物語っていた。
「……離宮は王女側の暗部に囲まれております。動けば気取られます」
淡々と述べたが、そこには忠告の色が滲んでいた。
「わかっている。だからお前を選んだ」
その言葉に、カミルの視線が鋭くなる。最も信頼される剣としての誇りと、裏任務の指揮官としての警戒がせめぎ合い、今回ばかりは胸中にわだかまりが残った。理由が見えない……それが彼を戸惑わせていた。
「……なぜ、彼女なのです。王宮には護るべき他もおります」
その問いは忠義に反するものではなかった。自身の任務に迷いなく挑むために必要な、納得の材料であり確認。
アレクシスは書類に印を押す手を止めたまま、しばし黙した。やがて、その手を伏せ書面から視線を外す。
「彼女は、私に興味を抱かせた初めての人物だ」
その声は、徹底した感情の排除の上に成り立つ氷の響き。けれど、カミルはその下にあるわずかな揺らぎを感じ取った。
「……殿下が、興味を理由に動くとは思わなかった」
「私もだ」
アレクシスは短く答えると、ようやく真正面からカミルを見た。その瞳には相変わらず感情の色はない。ただ、己の判断に過ぎぬとでも言いたげに、冷ややかに続ける。
「この件は、私個人の判断で動かす。公式な命令にはできない。お前が動くことも、誰にも知られてはならん。それでも、従えるか?」
それは、命令ではなく問いだった。
アレクシス・レオナールが、初めて自らの信頼を試すよう形で口にした言葉だった。
カミルは刹那の間だけ息を止めた。だがその間に、己の存在の根幹を再確認する。そして膝をつき、右手で剣の柄を軽く叩いた。これは忠誠と覚悟を示す動作。
「俺は剣です。誰を斬れと言われようと、どこを守れと言われようと……ただ従うのみ」
「……ならいい。彼女を裏から守れ」
「了解」
言い終えると同時に、カミルは立ち上がった。だがその背を向けた瞬間──アレクシスの声が降った。
「ただ、一つ忘れるな。彼女は囮に使える場合もある」
足が止まった。
胸の奥で何かが軋む。
感情でも葛藤でもなく、ただ冷静な思考の綻び。
「囮にするつもりで、守らせると?」
「……国の判断を鈍らせるようなら、切り捨てるまで」
即答だった。
これこそが、アレクシス・レオナールという男だ。私情を捨て、国家のために全てを秤にかける。人の命も、思慕も、信頼さえも。
だが、それでも。
カミルはゆっくりと振り返った。その眼差しに熱はない。ただ静かな決意があるだけだった。
「……もし、殿下がその判断を誤ったときは──」
「斬れ。当たり前だろ?」
「はい。俺は、主をも斬る覚悟で存在しておりますので」
忠義とは思考を捨てることではない。むしろ己を律するための覚悟だ。
アレクシスの瞳にわずかに光が差す。感情とは呼べない微かな動きだったが、それは確かに感情の揺れだった。
二人の男が、ただ一人の令嬢をめぐって立ち位置を定める。
忠義と信頼とわずかな情。
交錯したそれらは、いずれ国を動かす一手へとつながる。
◆
西の離宮に移されてからというもの、リシェルは気配に敏感になった。廊下をすれ違う侍女たちの視線、扉の向こうでかすかに聞こえる衣擦れの音、その一つひとつが胸の奥をじりじりと焼くようだった。表面上は優雅な令嬢を演じていても、微笑みの内側には常に緊張が張りついている。
この離宮は、建前こそ「静養と回復」の場とされていたが、実際にはエリセの掌の上だった。身の回りの侍女たちはリィナを除けば皆、無口で表情を読ませない。必要最低限の言葉しか交わさず、目を合わせようとすらしなかった。
(わかっている……ここは名を変えただけの監獄)
心の中で呟いたとき、ふと、空気が変わった。
窓が風で揺れたわけでも、扉が開いた音がしたわけでもない。けれど、部屋に満ちていた気配が一瞬だけ張り詰めたのだ。肌が粟立ち、呼吸が浅くなる。
リシェルが振り返ると壁際の暗がりに、男が一人立っていた。背をわずかに壁に預けるようにしながら、気配を殺している。
栗色の短髪に褐色の肌。鍛え上げられた体躯に、無造作に羽織られた近衛騎士の軍服が威圧感を放っていた。
「……ご無事で何よりです、カロル嬢」
静かに響いた声は、低くよく通る。敵意も好意も帯びていない、ただ命令に従う者の声音。
「あなたは……?」
警戒を隠さぬままにリシェルが問い返すと、男は片膝をついて頭を垂れた。その動きには軍人らしい簡潔さと、騎士としての礼節があった。
「カミル・ルーエン。第一王子アレクシス殿下直属の近衛部隊であり暗部の者です。本日より、殿下の命令により、あなたの裏の護衛に就きます」
「……裏?」
リシェルは目を細めた。影──つまり諜報の者なら心当たりがあった。だが、目の前の男はその気配ではない。
カミルは立ち上がると、短く説明した。
「誤解されやすいのですが、俺は影ではありません。殿下が表では動かせない案件を、公式記録に残さず処理する……そういう任務を担っています」
語られる言葉はあくまで冷静で、事実だけが並べられていた。
リシェルもまた、表情を変えぬまま黙って耳を傾ける。この男は、まぎれもなく使われる剣だ。感情では動かず、命令だけで刃を振るう存在。
「……そんな方が、私の護衛を?」
「はい。命じられたので」
短く、即答だった。
その潔さが、かえって胸の奥を静めていく。
裏で動く剣。その正体を最初に明かすことで、リシェルを試す意図もあるのだろう。だが彼は、その目でこちらの覚悟も測っていた。
リシェルはゆっくりと椅子を離れ、男と向き合う。
この出会いを、無駄にする気はなかった。
「では、一つだけ……お願いがあります」
「……お聞きしましょう」
「私は……きっとあなたに一度だけ、お願いをすると思うの。そのお願いは、殿下の命令より優先されることもあると、認めてほしいの」
静かな言葉だった。
だがそこに込められた意志は、剣よりも鋭かった。
カミルの視線が、じっとリシェルをとらえる。
試すようでもあり測るようでもある。この令嬢が、何を知り、何に抗おうとしているのか。王女エリセの支配下に置かれた中で、ただの貴族令嬢がここまで堂々と立つ理由──それを、彼の本能が探っていた。
「……理解しました。状況によっては、あなたの判断を優先します」
「ええ、それで充分です」
交わされた言葉はわずかだったが、リシェルは確かに感じた。
部屋を満たしていた張り詰めた気配が、少しだけやわらいでいる──否、気配が変わったのだ。
部屋のどこかに潜んでいた不快な視線と、廊下の影から送り込まれていたような感覚が消えていた。それはおそらく、エリセ側に属する暗部の誰かだったのだろう。けれど今、カミル・ルーエンの存在が、その気配すら押し返していた。
(……この人は、真正面から立つ壁だ)
影ではなく光を拒む裏の存在。
それでいて、真実を貫くためだけに剣を構える者。
リシェルは小さく息を吸い込み、微笑んだ。その笑みに、カミルは反応しない。ただ静かに一歩、彼女の背後へと移った。
背に感じる気配は、まるで鋼鉄のようだった。
この離宮のどこよりも堅牢な守りが、今、リシェルの背に立っていた。