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踊る者、操る者、見つめる者

この離宮に来て、また季節が過ぎようとしていた。 湿り気を帯びた空気もようやく和らぎ、風はほのかに秋の匂いを運び始めている。けれど季節の移ろいとは裏腹に、胸の奥に沈殿する不安は日に日に重みを増していた。


「リィナ……その整髪油、変わった?」


朝の支度中、ふとリシェルが問いかけるとリィナは瞬きを繰り返しながら首をかしげた。


「え? 変えてませんよ? あ、でも……昨日ちょっと瓶の口が開いてたから閉めておきました。こぼれたら大変ですし!」


一見すれば、ただの些細なこと。だが香りがかすかに違っていた。ローズとハーブを基調にした清涼な香調が、今はどこか甘く重たい匂いに変わっている。

マルタが不在の今、整髪油の管理はリィナに任せているから卓上の瓶に触れる者は限られているはず……。

リシェルは内心の警鐘に耳を傾けながら、平静を装って言った。


「瓶の封はきちんと確認して。中身が変質していたら、肌に害があるかもしれないわ」


「了解です! すぐに新しいのを用意しますね!」


ぱたぱたと足音を残してリィナが去っていくと、室内は静けさに包まれた。


「ネーヴァ」


名を呼ぶと、空気の一角がかすかに揺らいだ。気配のようなものが室内をかすめ、やがて壁際の陰に一筋の影が輪郭を持ちはじめる。ネーヴァは、淡々とした足取りでリシェルの前に歩み出た。


「昨夜、女官のクラリッサが密談していました」


その声音は変わらず平坦だったが、わずかに眉が寄っている。何か異常があったのだ。リシェルは無言で頷き、続きを促す。


「内容は?」


「……男から、薬包紙を受け取っていました」


部屋の空気がわずかに冷たくなった気がした。


「姿は?」


「顔は見えませんでした。フードを深くかぶり、手袋も着けていました。ただ……彼女は、迷いなくそれを受け取りました」


「迷いなく……」


リシェルは胸の内で言葉をなぞった。

あの女官は王女エリセに仕える、冷静で沈黙を旨とする存在。普段から周囲と深く関わることはないが、それだけに誰かと物を受け渡すという行動は極めて異質だった。


(薬包……中身は毒? あるいは、整髪油に混入させた何か?)


手に取った香油の香りが、じわりと脳裏に蘇る。甘くどこか重い気配。ほんの微かな変化。それが気のせいではないと、いま確信に変わってゆく。


「まだ決まったわけじゃない。けれど……あのときの視線、エリセが見せたあの一瞬の歪み。私の勘が告げてる気がするの」


それは単なる嫉妬や焦燥とは別の、もっと冷たい意志の色。


「クラリッサの動向を監視して。必要があれば、叔父様にも報せて」


ネーヴァは黙って一礼し、音も気配も残さずに影へと溶けていった。

残されたリシェルは静かな部屋にただ一人、じっと手のひらを見つめた。香油の残り香が、指先に微かに残っている。


(これは、偶然じゃない……)


そう呟く心の奥に、確かな確信が芽吹いていた。

西の離宮。その静謐の底で、目に見えぬ毒がゆっくりと広がっていく。

嗤う者はまだ姿を見せない。

けれど影の牙は、すでに抜かれたのだ──。



夜の帳が下りると、離宮は昼以上に沈黙を深めていた。蝋燭の灯りが揺れる廊下を、クラリッサは影のように滑るように進む。誰に命じられるでもなく、ただ任務の意味を理解しているだけだった。


(リシェル・フォン・カロル──この数カ月で、明らかに変わった)


あれは成長などという生やさしいものではない。

かつては気弱な貴族令嬢だったはずの少女が、今や言葉に棘を潜ませ、視線の奥に冷静な測量を宿している。


(意図的な変化……間違いない)


報告があがったのは数週間前。そして王女エリセからの返答は「誘導せよ」という命だった。排除ではない。疑念と誤解で孤立させ、内部から崩す──それが主君の策だった。

クラリッサは足音を立てぬよう、厨房裏の物置部屋へと向かう。扉の隙間から覗くとそこにはすでに、灰色の帽子を深く被った男がいた。


「これだ」


男が差し出した包みには、乳白色の粉末が収められている。


「感覚を混濁させる。少量で十分だ。香料や茶菓子に混ぜれば、誰にも気づかれん」


「支払いは文官を通して」


「了解した」


クラリッサはそれを受け取り、光に透かす。毒ではない、だが確実に心にひびを入れる代物。


(エリセ様はりリシェルの自滅を望んでいる。その補助に選ばれたのがあの侍女)


無邪気で操作しやすいリィナ。香水、茶、手紙……彼女の手を通せば誰も疑わない。

信頼を削ぎ、孤立させる。

それが最も効く方法。

ふと聞こえた足音に、クラリッサは柱の陰へ身を潜めた。

ただの風……人気はない。

ゆっくりと息を吐き、ふたたび歩みを進める。

口元にはほのかな笑み。


(……さあ、もう少し踊ってもらいましょう)


たとえどれほど変わったとしても、王宮の正妃の座は渡さない。

忠誠の牙が静かに光を帯びていた。



「お嬢さん。そんな顔してたら、蜜より甘い紅茶も酸っぱくなっちまうよ?」


背後からの軽やかな声に、リィナはぴたりと足を止めた。思わず振り向いた先にいたのは、軽装の青年だった。茶色の髪をひとつにまとめ、どこか街の仕入れ人のような身なりをしている。表情は人懐っこく、笑みを浮かべて片手を軽く挙げていた。


「あ、すみません……」


リィナは気まずそうに微笑みを返す。知らない顔だが、厨房周辺は納品業者や使いの出入りも多い。ここ数日神経を張り詰めていた自分が、他人の目にでも映ったのだろう。


「いやいや、謝るこたぁないさ。いい顔した嬢ちゃんがしかめっ面してると、紅茶が台無しだって話でね」


冗談めかして言いながら、青年はすっと彼女の脇を通り抜けていく。まるで物を届けに来ただけのような、自然な動き。リィナがもう一度振り返ったときには、すでに彼の背は人の流れに紛れて見えなくなっていた。そのまま足を進めながら、リィナは小さく首をかしげる。どこかで見たような……いや、気のせいか。あれほど自然な雰囲気なら、きっとただの納品業者だろう。




──だが、彼女の目に映ったのは一瞬に過ぎずとも、ヴィンセ・マルグリットはすでに十分な観察を終えていた。厨房裏、人気のない物置部屋。扉をわずかに開けば、空気に紛れて香りが鼻先を掠める香水と薬剤の匂い、そして──クラリッサ・ヴェール特有の冷ややかな気配。


「ふぅん。雪の女王の使い魔、ってとこか」


鼻歌混じりに呟いた言葉とは裏腹に、その目は獲物を逃さぬ狩人のように鋭く光っている。

リシェル嬢は変わった。ただの令嬢ではなくなっている。その瞳には誰が味方で誰が敵か、迷いなく映っているのだ。まるで、生き残るための戦場を知っている者のように。


(氷の王子が目を留めるほどだ。こりゃ、ただの箱入りじゃないね)


彼女の周囲には見えない壁と、それを守る影が確かに存在していた。


(さて……どこの所属かな。王家の差し金か、あるいはカロル家の者か)


ヴィンセは物置の窓をすり抜けて屋根に跳び上がると、懐から一枚の紙片を取り出した。息を吹きかけるとそれは淡い光を帯び、小さな鳥の姿へと変わる。


──送信内容──

《対象:クラリッサ=ヴェール

 行動:使用人に混入指示/密会複数回/毒物疑惑あり。 備考:リシェル嬢への影響目的と推察》


鳥が風に乗って空へ舞い上がるのを見届け、ヴィンセは口笛をひとつ。そして、いつものように軽い足取りで王宮の陰に紛れていった。

王国という名の舞台。

そこに立つ者すべてが、真実を語るとは限らない。

だからこそ舞台裏で糸を引く者たちの観察眼が、いつだって必要なのだ。

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