穢れなき杯、秘された夜
夏の宵。
王宮の大広間は、開け放たれたガラス扉から吹き込む風に、まるで水面のように静かに揺れていた。白を基調とした内装には、薄荷の香りと氷を封じ込めた花器が涼を添えている。外との境界は曖昧で、室内と庭園はほとんど溶け合い、空間は薄暮の気配に包まれていた。
王宮主催の夏の茶会──表向きには、季節の挨拶を名目とする優雅な社交の場。けれどその実態は、空気と視線がせめぎ合う静かな戦場だった。誰が誰と話すのか、誰が誰を避けているのか。些細な一挙一動が、周囲の評価と立場を揺るがせる。油断も誤魔化しもこの場では許されない。
そんな中で、ひときわ視線を集めていたひとりの令嬢がいる。
リシェル・フォン・カロル。
藤の花を思わせるウェステリア色の髪を丁寧に編み上げ、淡い紅の瞳には澄んだ光が宿る。その眼差しにもう怯えはなかった。佇まいは、もはやかつての令嬢ではない。回帰してからの幾度もの選択と決断が、少女に芯の強さを与えていた。優雅な所作に隠した覚悟は、見る者の無意識を惹きつける。彼女に向けられる視線には、憧れと警戒が混ざり合っていた。
「……リシェル」
柔らかく、けれど年月を重ねた響きを含んだ声が、そっと空気を震わせた。
リシェルがゆるやかに振り返る。
庭園の奥から一人の男が姿を現していた。歩みは静かで、どこまでも確かな足取りだった。
背筋を伸ばしたその立ち姿は、貴族の中でもひときわ目を引く気品に満ちている。涼やかな礼装に身を包み、肩までのウェステリア色の髪が淡金の紐で後ろへと結われていた。整った顔立ちには理知と威厳、そしてわずかな疲れが刻まれている。
カロル侯爵レイナルト・フォン・カロル。
王国でも屈指の知略家と称され、誰もがその名に一目を置く名門の当主。だが今の彼の瞳には政治的な計算ではなく、ただ一人の娘を見つめるまなざしが宿っていた。
「お父様……」
小さく、けれどどこか安心したように声がこぼれる。
公の場ではほとんど見せないわずかな甘えが自然ににじんだ。レイナルトは、微かに口元を綻ばせながら彼女のそばへと歩み寄る。
「思ったより顔色がいいな……心配は、杞憂だったようだ」
「はい、大丈夫です。少し緊張はしていますが……お父様の顔を見て、ほっとしました」
ふっと微笑が灯る。
それを見たレイナルトの目もわずかに細まった。
「ならば安心だ。だが、気を抜くには早い。この場は殿下の主催、油断は命取りになる。貴族も宮廷人も、君の言葉はもちろん、立ち振る舞いや視線、杯の持ち方ひとつにまで目を光らせている」
静かだが揺るぎない声音に、父としての厳しさと彼女への信頼が同居していた。
リシェルは、わずかに頷く。
「分かっています。もう……逃げないって、決めましたから」
その声に、弱さはなかった。
リシェルの瞳は過去に縛られるものではなく、未来を見据えるものへと変わっていた。
レイナルトは少しのあいだ黙し、そしてゆっくりと手を伸ばして娘の肩に触れる。
「リシェル。今夜、どのようなものがお前の杯に注がれようとも、それを口にするかどうかを決めるのお前自身だ。覚えておきなさい。真の器とは、自らの杯を選び取る者の中にこそ宿る」
「……はい」
その言葉を、リシェルは深く胸に刻むように静かに頷いた。その仕草には、少女の面影よりもひとりの意思ある人間としての自覚がにじんでいた。
やがて一人の給仕が、丁寧にトレイを捧げ持ちながらリシェルのもとへ近づいてくる。 差し出されたグラスには、琥珀色の液体が満たされていた。夜の光を受け、艶やかに揺れている。
上等な茶。
そう見せかけてあるが、リシェルにはわかっていた。
この液体には毒が仕込まれていると。
(まさか、こんなところで回帰前の記憶が役立つなんてね)
皮肉のような想いが、心の底でかすかに微笑む。けれどその感情は、すぐに深く沈んだ。
目元に微かな笑みを浮かべ、リシェルはグラスを受け取る。その指先は震えていなかった。
迷いも恐れも今の彼女にはもうない。
「……いただきますわ」
声の響きは澄んでいて、ひときわ美しかった。
グラスの縁に唇を寄せる。
けれど一滴も口に含むことなく、傾ける仕草だけを見せ、自然な所作のまま口元から遠ざけた。
あえて飲まない。
けれども、不自然さはどこにもない。
優雅にして堂々と、まるで本当に味わったかのように振る舞った。
その選択を見届ける視線がある。
誰かが見ている。
けれど彼女は、顔を上げなかった。リシェルは何事もなかったかのように、グラスをそっと傍へ置く。その手つきは気品を帯び、周囲に違和感を抱かせることはなかった。
気づいた者もいた。
だが、誰一人として口にしようとはしない。それを明言することはすなわち、この宮廷の空気そのものに刃を向けることだからだ。
王宮の宵はなおも静かに、そして美しく揺れていた。
◆
扇の縁がわずかに震えた。
エリセはそれに気づきながらも、微笑みを崩さない。まるで偶然の仕草であるかのように、優雅に扇を閉じた。扇の裏には、うっすらと冷たい汗が滲んでいる。けれど、その事実すら彼女は無視する。王女たる者、感情を表に出すなど言語道断……その矜持が、彼女の美しさをさらに際立たせていた。
──けれど。
(おかしいわ……)
視線の先にいるのは、リシェル・フォン・カロル。
かつてはただの名門の箱入り娘。愛らしいが無害で、扱いやすい子供。その印象は、今や霧が晴れるように姿を変えていた。
エリセの目の前でその少女は確かに毒に気づき、飲まない選択をした。それも誰にも悟らせぬまま、優雅に完璧に避けてみせたのだ。
(偶然? いいえ、違う)
毒は微量。
命に関わるようなものではない。意識を鈍らせ、羞恥を誘う程度の軽い仕掛け。標的の反応を見極めるための試金石にすぎなかった。だからこそ、誤魔化しもきくはずだった。仮にその毒に倒れたとしても、これを機に表舞台から完全に退いてもらおうとも思っていた。
だからこそ確信できた。
あれは偶然ではなく、明確な意志。
意図的な回避と計算された身のこなし。
(誰かに教わった? それとも、あの子自身が?)
エリセは再び扇の隙間から、リシェルを覗き見る。
少女は今も微笑をたたえたまま、気品ある仕草でグラスを持ち、けれど決して口をつけずわずかに傾け、巧みにかわす。その自然な所作には無駄が一切なかった。
(あれが演技? それとも、すでに……素なの?)
胸の奥に、棘のような感情が静かに芽吹く。
それは苛立ちではなく、もっと根深く厄介な感情。
完璧さを築き上げた世界が、静かに揺れ始める音がした。
エリセは王の隣に立つにふさわしいよう、すべてを磨き上げてきた。美も知性も立ち居振る舞いも。「選ばれるべき女」であること……それだけが、彼女の生き方だった。
だというのに、盤上に割り込むようにして現れた一人の少女。
あの所作を見ればわかる。
彼女はもうただの駒ではない。
王宮に生きる者が本能的に嗅ぎ取るべき危機の匂いを、エリセも確かに感じていた。
隣にいる男アレクシス・レオナールが、何も言わぬままグラスを傾けていることが逆に不気味だった。
(あなたも……気づいたのね)
わずかに目を細める。
冷えた指先が、扇を無意識に強く握りしめていた。
もしアレクシスが、リシェルに可能性を見出し始めているとしたら。
もし、妃としての価値を見ているのだとしたら。
この舞台は静かに確実に崩れてゆく。
(認めない……絶対に)
扇をそっと持ち上げると、また微笑みを整える。
完璧な王女の仮面を、何事もなかったかのように貼りつけながら。シェルのような娘に、自分の舞台を奪わせてなるものか──その思いを、ひと息に飲み込む。
宵の庭園。
香の風が花弁を揺らし、音楽と笑い声が交差する中、火を灯さぬまま二人の女が静かに火花を散らしていた。
その傍らで、アレクシスはふと視線を上げた。
ひとひらの花が夜風に乗って舞い、宙を描いて消えていく。
誰もが会話に興じるなか、彼だけがまったく別の景色を見ていた。
彼の目はリシェルを捉えて離さない。
さきほどの一幕。
毒に気づき、それを自然に避けた彼女の所作。一滴も飲まず、まるで気づかなかったように振る舞いながら、誰の目も欺いて見せた。あの一連の流れは、偶然でも直感でも済まされない。
(意識していた……いや、それだけではない)
気づき、選び、すべてを演じていた。
あれは、一夜で身につけられる芸当ではない。長い時間をかけて磨かれた、経験と知恵と生存本能の融合。それはまるで時を越えて研ぎ澄まされてきた刃のようだった。
ふと隣のエリセの扇が、静かに音もなく閉じられる。
その所作は完璧でありながら、仄かに漂うのは焦りの匂い。甘く冷たい香の奥に混ざる微かな異変を、アレクシスは見逃さなかった。
(……お前はもう、唯一の駒ではなくなった)
今、この場で最も冷静でそして強かに生きている者──それはリシェルだ。
貴族の令嬢としての枠をすでに超えている。柔らかな笑みの奥に潜むそれを、アレクシスの本能が見抜いていた。
(君は……何を見て、どこまで知っている?)
王族としての鎧は、彼に冷静と孤独を与えてきた。
感情に流されればすべてを失う。
だからこそ信じるものは持たず、寄せる心も持たなかった。
──なのに。
リシェルという存在だけが、理性の隙間に微かな熱を灯す。
それはまだ名を持たない感情。
けれど、確かに胸の奥を揺らした。
(……面白い)
グラスをわずかに傾けると、琥珀の灯がタンザナイトの瞳に映えた。
この夜は、まだ終わらない。
火花が散るその只中で、アレクシスは初めて「一人の女」としてのリシェルを見ていた。
そしてその瞳に、明かされぬ未来を追い始めていたのだった。