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水面下の指先

西の離宮の空は群青に沈みつつあった。

暮れゆく空にわずかに残る光が、古の建築に淡い影を落とす。灯火がともる前のわずかな黄昏、まるで時間が深呼吸をしているかのような静かなひととき。風さえも足音を忍ばせ、世界がそっと息をひそめていた。

ゼノは、その沈黙を破らぬよう細心の注意を払って回廊を進んでいた。年齢を感じさせないしなやかな足取りと、淀みない所作。それは、彼が積み重ねてきた歳月の精度と品格そのものだった。

その手に抱かれていたのは、深紅のビロードに丁寧に包まれた小箱。まるで命を預かるかのように、彼はそれを扱っていた。


──長らく失われていた【記憶】。


それはある少女にとって欠けていた一片であり、欠けたままでは未来に踏み出せぬ心の鍵であった。


(……ようやく、届けられるな)


ゼノの胸中にほんのわずかに灯る温もり。それは彼にしては珍しく、私情の余韻を孕んでいた。

部屋の前で足を止め、静かにノックをする。中に誰がいるのかは分かっていても、礼節は決して失わない。それが彼の流儀だった。


「どうぞ」


扉越しに返ってきた少女の声は、落ち着きとともにわずかな緊張をはらんでいた。ゼノは扉を開け、静かに書斎の空間へと足を踏み入れる。


「遅くなって、すまなかったね」


「……叔父様。来てくださったんですね」


リシェルは椅子から立ち上がり、ゼノを迎えた。微笑の奥には、どこかほっとした安堵の色がにじんでいる。彼女にとっても、この再会は意味のあるものだった。


「君のために、少し遠回りをしてきたよ。あの方から預かったものを、君に返そうと思ってね」


ゼノは小箱を差し出す。リシェルが両手でそっと受け取り、慎重に蓋を開けた。そこに眠っていたのは、淡い紅の光を宿した薔薇水晶の首飾り。時の塵に触れることなく、静かにその姿を保っていた。


「……これ、お母様の……」


「そうだよ。お義姉さんの……大切な形見だ」


ゼノの声は穏やかだった。いつもの理知的な調子の奥に、懐かしさと優しさがそっと滲む。


「お義姉さんはね、この首飾りを身につけて手紙を書いていたよ。スノードロップと三日月の印章と一緒にね。自分の想いを、まっすぐに届けたい時だけ」


リシェルの指先が首飾りに触れる。触れた瞬間、その細い指がかすかに震えた。


「叔父様……お母様は、最後に何を残されたのでしょうか。私に……何を伝えたかったのでしょう」


ゼノは静かに懐から一枚の封筒を取り出す。淡いクリーム色の便箋には、セラフィーナの私的な印章が封蝋として押されていた。それは長い年月を秘めたまま、ようやくいま、時を迎えたのだ。


「これは……?」


「お義姉さんが亡くなって間もなく、兄上──君の父上が見つけたものだ」


リシェルは封を切る手を震わせながら、それでも丁寧に紙を取り出す。優雅な筆跡がそこにあった。


『私のリシェルへ。 あなたが笑うたび、私の世界は色づきました。 あなたが泣くと、私は千の祈りを捧げました。 けれどあなたが選ぶ道は、私では届かない時がくる。 それでも「迷わないで。あなたの選んだ先に、光があると信じて」 いつかまた、その瞳で世界を見つめて。 あなたが生きる未来に私は咲いています。 ──心より愛をこめて  あなたの母セラフィーナより』


読み終えた瞬間、薔薇水晶の首飾りがまるでその想いに応えるようにほのかな光を帯びる。

ゼノは静かに立ち上がり、リシェルの横顔を見つめた。そこに浮かんでいたのは悲しみではない。柔らかな哀惜の奥に燃えるような芯の強さ──それは、セラフィーナのまなざしにどこかよく似ていた。


「叔父様……私、もう迷いません。母の願いと共に、私の道を進みます」


「……ああ。そうだね」


ゼノはわずかに目を細め、微笑を浮かべた。それ以上の言葉は要らなかった。

彼の手には、もう何も残ってはいない。だが少女の手には、確かに過去と未来とをつなぐ光が握られていた。

西の離宮の空に星がひとつ、静かに瞬いた。それはまるで母の祈りが灯す、優しい導きのようだった。


   ◆


王宮の一角──昼の喧騒がすっかり消えたその執務室には、静けさが深く根を張っていた。唯一の光源である燭台の火が、部屋の調度品を金色に縁取っている。

ゼノは書簡を手にしていたが不意にその指を止め、目を細めた。


「……来たのか、ネーヴァ・ノクティア」


扉も開いていない、足音すら聞こえない。だが、確かにそこに『影』の気配がある。

部屋の一隅、まるで空間に溶けるように潜んでいた黒衣の影がひとつ動いた。


「はい。リシェル様の動向について、ご報告を」


低く落ち着いた声。無彩銀の瞳が蝋燭の灯りを掠めて、静かに輝いた。それは氷のように冷たく、されど澄み切った誠実さを含んでいる。

ゼノは椅子にもたれ、軽く頷く。


「……お義姉さんが遺した『薔薇水晶』を、リシェルは受け取った。君の見立てでは、あの子の変化はどう見える?」


「セラフィーナ様に似た目をするようになりました。お嬢様はおそらく……選ばれる側から、選ぶ者へと変わりつつあります」


ゼノはしばし黙し、思案を巡らせるように指を組んだ。


「……お義姉さんがルヴェール家の影を、あの子のために差し出したとき……私は驚いたよ。名家が、夜に生きる者(ノクティア)を手放すとはな」


ネーヴァはわずかに目を伏せ、短く息を吐く。


「ノクティアの名は、光の下に出されるべきものではありません。けれど私にとって、セラフィーナ様の意思を継ぐことがすべて。今はリシェル様が、その意思を超える方であることを願っています」


「……重い使命だ」


その一言に、ゼノの深い共感が滲む。彼は知っている。影に徹するとは、ただ隠れることではなく、光を支えるために己を差し出す行為なのだと。


「君は……リシェルを守るつもりか? それとも導くのか?」


静かな問い。ネーヴァの答えは、少しの間を置いて返された。


「私の役目は、道を塞ぐ闇を断つこと。ですが今は……お嬢様に陽の下を歩んでほしいと、そう願ってしまいました」


ゼノの唇に、静かな笑みが宿る。


「……それは、影が持つには贅沢な感情かもしれないな」


「……ええ、承知の上です」


わずかに照明が揺れる。ネーヴァの瞳に一瞬、微かな光の波が走った。


「──お嬢様には、その価値があります」


「ならば君がその影を保ち続けてくれ。必要とあらば、私と兄上が陽の光を作ろう」


その言葉に、ネーヴァは深く頭を垂れる。影に徹する者が、心の底から示す感謝と忠誠の印。

夜の王宮はさらに深まってゆく。だがその静けさの奥には、確かに小さな誓いと灯火が息づいていた。リシェル・フォン・カロルという光を支える、見えざる者たちの決意と共に。

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