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仮面の来訪者、静かなる影

数日ぶりに晴れ渡った空の下、西の離宮の庭には花々がそよ風に揺れていた。けれどその静寂には、まだ微かなざわめきが残っている。

数日前、第一王子アレクシス・レオナールがこの離宮を私的に訪れた……それは記録にも残らぬ異例の出来事だった。公的な随行もなく、王家の報告書にも一行の記述がない。だがその沈黙こそが逆に、貴族社会をざわつかせ、御前会議では老練な貴族たちが一様に眉根を寄せて噂を交わした。

氷の王子が動いた、その一点だけで王宮の空気は目に見えぬ熱を帯びる。

そして今日、その余波に応えるように現れたのが、一人の王室使者を名乗る文官だった。


「……ノエル・サリヴァン。王城より参上いたしました」


庭の東屋へと姿を現した青年は、礼儀正しく頭を垂れた。萌黄色の髪は美しく撫でつけられ、控えめな銀の装飾が襟元に光る。その立ち姿は、まるで宮廷画の一頁を切り抜いたかのように優美で、どこか非現実的ですらある。

リシェルは静かに彼を見つめた。

そしてすぐに気づく。

この男はただの使者ではない。

言葉の端々に潜む毒、笑みの奥に揺らぐ意図、その一つ一つが彼の正体を雄弁に物語っている。


「ようこそ、サリヴァン様。まさか貴方が直々にいらっしゃるとは思いませんでしたわ」


リシェルが穏やかに応じると、ノエルは笑みの角度をわずかに深めた。


「ええ、……お見舞いという名目ですが」


言葉を切ると彼は唇の端をわずかに歪め、芝居がかった口調で続けた。


「実際のところ、気がかりな余波を収めに来た……それが正確でしょうね」


まるで王宮劇の幕間のような軽やかさで、それでいて確かな火種を投じてくる。リシェルはその言葉を受け止め、微笑を保ったままゆるやかに首を傾げた。


「余波、とは……第一王子殿下のご訪問のことをお指しですか?」


「ええ。あの氷の王子が、わざわざ貴女のもとへ足を運ばれたとあっては……王宮も議会も、ざわめかずにはいられません」


ノエルは肩をすくめて見せ、ことさら芝居がかった表情を浮かべた。けれどその瞳は冷静で、油断のない探りの色が滲んでいる。


「貴女が火種なのか、それとも……殿下の炎に巻き込まれたのか。王宮は、今その真意を見極めようとしているのですよ」


その声音はあくまで穏やかだったが、探りと牽制が紛れもない意図として滲んでいた。

リシェルは、笑みの形を変えぬまま応じる。


「私は何も。ただ、殿下のご厚意に感謝申し上げたまでですわ」


その声色はあくまで上品に控えめに、リシェルの答えは完璧だった。一歩も引かず、同時に攻め込むこともない、まさに宮廷という名の盤上における最適解。

ノエルがわずかに目を細め、意味深に口元を綻ばせた。


「……それが本心であれば、少し安心できます。エリセ殿下も」


ノエルの口元が、意味ありげに笑んだ。

その名が出た瞬間、部屋の空気が微かに緊張を帯びる。

わずかに張り詰めた静けさ。

傍らのリィナが思わず呼吸を止めたのを、リシェルは感じ取った。だが彼女自身はまるで聞き流すかのように微笑を浮かべる。


「エリセ王女殿下のご心労は、お察しいたしますわ」


「ご理解が早くて助かります。貴女のような聡明な方であれば、余計な誤解を招くような振る舞いは避けていただけると、我々も信じておりますので」


ノエルの声が一段落ち、甘く響いたその言葉の底には刃があった。まるで、王女の影が彼の口を通じて語っているかのような、冷たく研がれた忠告。


「貴女が東の花(・・・)の視界に入りすぎることは、宮廷における秩序を揺るがす火種となりかねません」


リシェルは短く目を伏せた。

けれどその動きはあくまで優雅で、沈黙は退却ではなかった。次に放たれた言葉は、静かに波紋を生むような涼やかさを帯びていた。


「私……優美な黒薔薇よりも、可憐な花の方が好きなんです」


エルが一瞬、言葉に詰まる。

その声には、挑戦の色も皮肉もない……あったのは芯のある確信と静けさ。

それが逆に彼の警鐘を鳴らした。


(……やはりこの娘は、ただの令嬢ではない)


その確信に、ノエルは苦笑を漏らす。

それは演技ではなかった。

ほんの一瞬、面白いものに出会ったときの素の反応だった。


「……なるほど。本格的に火遊びに注意が必要ですね」


そう言った彼の瞳に浮かんでいたのは、警戒でも敵意でもない。もっと冷静で、もっと現実的な危機感。

策略家としての本能が発した沈黙の警報。


「最後に、個人的な忠告を一つ」


声の調子が少しだけ変わる。

ノエルは歩を進め、わざと距離を縮め声を落とした。


「黒薔薇という存在を、侮ってはいけません。あの方が恐ろしいのは、愛されようとするからではない。愛を奪うことでこそ、秩序は築けると信じているからです」


リシェルの心がわずかに震えた。

その言葉には、奇妙な重みがある。たしかにそれは、冷たい現実を映す鏡のようだった。


「……その秩序が、誤ったものであったなら?」


呟くように問いを返す。

ノエルの微笑が、ふと静かな陰を宿した。


「それでも信じ続けるのが、あの方です。そして──」


彼は一拍置いて、まるで自分自身に言い聞かせるように囁いた。


「……私は、彼女の理念に賭けているのです」


その声音には忠誠と呼ぶにはあまりにも冷ややかな、けれど明確な信仰の色があった。まるで王宮という舞台を維持するために、魂を捧げた者のように。

ノエル・サリヴァンは深く一礼し優雅に背を向けると、仮面の忠誠と策略の残り香をその場に漂わせながら風のように去っていった。

残された西の離宮には、静かすぎる余韻が満ちていた。けれどリシェルの心に灯ったのは、冷たい不安ではなかった。

それはむしろ明確な意思。


(……王宮は、思っていたよりずっと深い)


そして彼女は気づいていた。

この対話こそが、静かなる開戦のその第一声であると。



夜の帳が静かに王城を包む頃、東の離宮の回廊にはひとつの影が滑るように歩いていた。 蝋燭の灯が揺れ、長い影が壁を這う。 だが、それに気づく者はいない。

その男の名はマティアス・ロウエル。 王女エリセ・フェルデリアの直属護衛にして、忠誠を誓う影。 彼の足音は風すら気づかぬほどに静かで、姿を見た者すら「幻だったのでは」と錯覚するほど。 諜報、暗殺、警護、そのすべてを担う一人の沈黙する刃。

その夜、エリセは何気ない口調でたったひと言を告げた。


『──あの女の目の光、消してやりたい』


マティアスは頷きも返事もせず、ただその場を離れた。 命令は明文化される必要がなかった。 エリセの目線、その声音の僅かな温度。 それだけで、彼には充分だった。

目指すは西の離宮。 数日前、第一王子アレクシスが極めて私的な理由で訪れたとされる場所。 王族が記録に残さぬ行動を取る──それだけで、王宮の空気は変質する。 そして、リシェル・フォン・カロル。 その令嬢が今、エリセの秩序にとって予期せぬ要素となりつつあった。

マティアスは城内の経路を脳裏に描く。 廃棄された文官通用口、庭園の下を走る古い閉鎖水路、 誰も使わぬ裏手口。 かつて一度通っただけの道すら、彼の記憶には鮮明だった。

任務は監視。 だが、それだけでは終わらない。 必要とあらば影となって接触し、あるいは始まりの芽を摘み取る。

月光の届かぬ庭園裏手、静寂を切り裂く気配もなくマティアスの姿が影と同化する。 そこに、もうひとつの影がそっと近づいた。


「......来るの、早いですね」


ひそやかな声。 振り返らずとも、マティアスはその声の主を知っていた。 リィナ・エルグレイン。西の離宮に仕える侍女にして、リシェルの最も近くにいる者。 彼女は怯えた様子もなく、布に包まれた小包を差し出した。 中には離宮内の断片的な会話の記録、リシェルの受け取った文書の写し、そして行動の記録。


「お嬢様は前と少し......変わりました」


その一言に、マティアスの鋭い視線が揺れもしないまま少女へと向けられる。


「理由は」


「……わかりません。でも、あなたも気づいてますよね? あの方が変わったって。目が、そう言ってました」


リィナの声は静かだが芯があった。 マティアスはわずかに顔を向け、その瞳が鋼のような冷たさを宿す。


「感情で動けば命を落とす。俺はそれを、二度と繰り返さない」


「でも......命を助けてくれた人の願いは、ちゃんと聞くんですよね?」


その問いにマティアスは答えない。 ただ無言で小包を受け取り、懐に収めた。


「次はいつだ」


「三日後。侍女の交代時間に……お嬢様、きっと何かを動かすはずです」


マティアスはわずかに目を細めた。 リィナの声には確信があった。 その言葉は忠誠でも服従でもない。 選択の上での、信頼だった。


「お嬢様が間違った道を選んでも、私はそれを信じます。 それが、私の選んだ居場所だから」


その言葉に、マティアスはほんの一瞬だけ鋼鉄のようなまなざしをわずかに緩めた。


「......お前も、影になれるかもしれないな」


「私は侍女です。でも、誰かのために動くって意味では、似てるのかもですね」


リィナは微かに笑った。

その横顔には哀しさと強さが同居していた。

マティアスは何も答えず身を翻す。 その動きは風のように滑らかで、気配すら残さない。 影はふたたび、夜の帳に溶けていった。

リィナは一人残され月のない空を見上げると、小さく呟いた。


「......あなたも、本当は優しい人だったりするのかな」


だがその問いに答える者は、もうそこにはいない。 ただ、東の方角から吹き込む夜風が、少女の髪をそっと揺らしていた。

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