沈黙の余韻、仮面の奥の揺らぎ
離宮の重厚な扉が静かに、まるでため息のような気配を残して背後で閉じた。残された空気のなかに、まだ彼女の香がほのかに漂っている気がする。冷えた石の廊下の隅にそれは影のように沈み、静かに余韻を刻んでいた。
(リシェル・フォン・カロル……)
歩みを止めることなく、冷ややかな回廊を進みながらその名を、アレクシスは心の中で静かに反芻する。足元に広がる石畳の床は外気に晒されたかのように冷たく、そこを吹き抜ける風もまた季節の先を行くように肌寒かった。まるで、そこに生きる者の感情までも凍らせるかのように。
だが──。
(……あの娘には、通じなかったようだな)
瞳の奥に一瞬だけ微かな光が揺れる。深い藍をたたえたその瞳は、まるで冬の夜空のように沈黙を抱えていた。
仮面を被っていたのは、自分だけではなかった。
会話の端々に漂っていた沈黙の間合い。
そこに込められた言外の熱。
彼女もまた、何かを守り何かを隠していた。
だがそれは敵意や打算ではない。
むしろそれは。
(真実を見極めようとする者の、静かな覚悟だ)
かつて自分がそうであったように。
アレクシスは王の血を引く者として生まれ、幼くして「次代の器」として育てられた。そこに感情は許されなかった。感情は弱さであり、情は愚かさであり、愛は亡国の火種──そう叩き込まれてきた。
それには理由があった。
百年前、当時の王太子が学園で出会った男爵令嬢に恋をし、婚約を強行したという前例。貴族の均衡が崩れ、諸侯が反発し、ついには反乱未遂が起こった。結果、王太子は廃嫡され男爵家は粛清。王家の威信は著しく損なわれ、その代償として「感情の自由」は未来永劫、王族から奪われた。
その後、制定された法令は一つ。
──正式な王太子は、政治的安定が保証されるまで任命しない。
アレクシスがいまだ王太子と呼ばれぬ理由は、そこにある。第一王子でありながら、王家と重臣たちは一線を越えようとしない。王太子に据えた瞬間、また同じような火種がくすぶるかもしれない……そんな警戒心が、陰に陽に彼の立場を縛っていた。
だから彼は自ら望んで感情を切り捨て、貴族とも距離を置き、ひたすら静かに役割を果たす。
それが王の器というものならばそれでいい。それ以外の生き方など、彼には与えられていないのだから──けれど。
彼女は、そうした鎧の表面をゆるやかに撫でるように越えてきた。押しつけることも問い詰めることもせず、ただ見ていた。沈黙のなかで言葉にならない何かを、確かに受け取っていた。
それが錯覚ではないと気づいた時、アレクシスの胸の奥にごく微かな痛みのようなものが芽生えた。
「……信用に値する者、か」
ぽつりとこぼれた声に、彼自身がわずかに眉を寄せる。それは、彼にとって軽々しく扱える概念ではなかった。人を信じるということがいかに脆く、危うく、ときに致命的な傷を招くか……彼は誰よりもよく知っていた。だからこそ、これまで誰も信用してこなかった。必要であれば利用し、不要となれば切り捨てる。それが、彼の選んできた道だ。
けれど、リシェルはどこかが違っていた。彼女の言動は一見して矛盾がありながら、どこか芯の通った整合性がある。まるで彼女だけが「過去」と「現在」とを同時に生きているかのような、そんな奇妙な印象さえ残した。
(……それが、謎の鍵か)
【封印された記録庫】に記されていた「カロル」そして「ルヴェール」ふたつの家名。
偶然では片づけられない。
彼女は何かを知っている……いや、もしかすると彼女自身が鍵の一部なのかもしれない。
(ならば……共に辿る)
互いに仮面を脱いだわけではない。
だが、確かに今日の対話の中でひとつの線が繋がった。それは利害でも打算でもなく、信念と沈黙が結んだごく微かな共鳴。
「殿下、お迎えの馬車が到着しております」
控えていたラウルが慎ましく頭を垂れる。
アレクシスは頷き、ふと歩みを止めて離宮の扉へと視線を戻した。あの扉の向こうには、まだ言葉にならぬ意思がある。名を与えられる前の静かなる衝動。
その中心に触れたような感覚が、確かに彼の内に残っていた。
(……君は、そのままでいい)
心の奥にだけ留めた言葉。
それは第一王子としてではなく、一人の人間としての本音だった。
仮面の裏側にひっそりと芽生えた感情の種。
それが何になるのかは、まだわからない。
けれどアレクシスのなかで、確かに何かが揺らぎ始めていた。
凍てついた心の内側に、ごくわずかだが確かな温もりがひびのように、静かに入り込んできたのだった。
◆
東の離宮。
薔薇の香をふくむ香煙が、静かな室内を満たしていた。
「……なんですって?」
香炉から立ちのぼる薄紫の煙の奥で、エリセはわずかに唇の端を引きつらせた。手にしていた白磁のカップを静かに卓上に戻す。ふるえた指先に、自身が誰よりも先に気づく。
「第一王子が私的に……西の離宮へ?」
「はい、お付きの者も最小限。御前会議にも通達はなく、完全に非公式な動きと見られます」
報告を終えたクラリッサの声音は、いつものように冷静だった。けれど、その奥に隠しきれぬ警戒の色が滲んでいた。それが何に対するものであるのか、エリセには分かっていた。
──リシェル・フォン・カロル。
あの女が、また王宮の中で揺らぎを生み始めている。
(殿下が彼女の元へ? それも私的に?)
あり得ないことだった。
アレクシスは感情に支配される男ではない。冷静沈着で、何よりも王家と政務を優先する。その行動には常に明確な意図と計算があり、たとえ私的という名目であっても、政務を司る第一王子が正規の手順を踏まずに誰かに会うことなど、本来ならば許されるはずがない。
その彼が婚約者である自分を差し置いて、誰か一人の女性に会う……それも内密に。その意味を、エリセは痛いほど理解していた。
「……陛下にお伝えすべきでは?」
そう問いかけるクラリッサに、エリセは即座に首を横に振った。
「いいえ。今は……様子を見ましょう」
そう言いながらも、胸の奥底に押し込めた焦燥は薔薇の棘のように鋭く疼いた。
なぜ今、彼女なのか。
なぜこの時期に、あの冷たい男が自らの意思で動いたのか。
(……何かが狂い始めている)
静かに立ち上がり、エリセは窓辺へと歩を進めた。
東の離宮から望む庭園は、王宮のそれとは異なり静けさに満ちている。けれどその平穏の中に、誰かが踏み込もうとしているような予感が胸をざわめかせた。
「マティアスに命じて。リシェル・フォン・カロルの周囲を、以前よりも厳重に監視させて。影の一人まで目を光らせなさい」
「……承知しました」
クラリッサが恭しく頭を下げ、静かに去っていく。
再び部屋には沈黙が満ちた。
エリセは目を閉じた。
あの夜、アレクシスに最後の言葉を告げられたときのことを、ふと思い出す。
『君に愛を注ぐ余地は、私にはない』
──そう断ち切られた言葉。
(私の愛を拒絶したあの人……ならばあなたにも、誰にも愛など与えない)
そう心に誓ったはずなのに──彼女は違った。
あの女は、何も手にしていないはずの少女でありながらどこかで人の心を惹きつけてやまない。柔らかな言葉の裏に何かを見透かすような瞳を持ち、決して折れることのない意志を隠している。
その目が、エリセは気に食わなかった。
王宮において、優しさや信頼などは脆さにすぎないはずなのに、それを武器に変えてゆく強さを持つ彼女がどうしようもなく癪だった。
(彼が融ける日があるとすれば……それは、私でなければ困るのよ)
それはかつての願望であり今や執着。
──愛されるはずだった。
──得られるはずだった。
王妃の座も、権力も、何もかも手に入るのに……たった一人の心だけがどうしても手に入らない。
だからこそ、手放すことができなかった。
愛される前に支配する。
捨てられる前に切り捨てる。
そうして守ってきたはずの自分が、いままた脅かされようとしている。
(母のようにはならない。あの人のように、ただ待ち続けて終わる人生など、私には必要ない)
エリセの唇に仮面のような微笑が戻った。
香煙の奥、静かに一つの炎が灯る。
それは嫉妬か、恐れか、それとも──彼女自身もまだ名づけることのできない、渇望そのものだった。